春一番

中層

セント・オブ・オイル

 目覚める前の夢の中で地上の街の景色を思い出していた。

 その街の図書館は素敵な場所だった。ゴシック様式の入り組んだ造りで、天井が高く、縦長の細長い窓から様々な色の光が差し込んでいた。朝は紫、昼は白、晩はオレンジ。廊下を歩くと並んだ窓が順番に光るのがとても綺麗だった。

 一生かけても読み切れないほどの大量の蔵書があって、壁一面の背の高い書架を背表紙がびっしりと埋め尽くしていた。今日は文学から始めよう、昼寝をしたら生き物の本にしよう、夜は歴史の本を読もう。時の流れを忘れるほど読み耽っていられた。

 日数を数えていたわけじゃないけれど、でもきっとその街には1年以上留まっていた。その街の四季を知っているからだ。秋にはどこかの島から飛んできた落ち葉が道に溜まり、冬には雪が降り、春には冬羽が抜け、夏には雨が降り、そしてまた秋が来た。つまりそれだけ長いことサンバレノの襲撃がなかった。本を読み、街を見回り、食べ物を探し、また本を読む。それが当たり前の生活になっていた。

 自分が孤独だということも、

 孤独が寂しいものだということも、

 それさえ忘れてしまうほどに1人だった。

 周りには天使や人間はおろか虫の1匹さえいなかった。

 天使以外、大気中で呼吸をするものは生き延びられない。それがフラムスフィアという世界だ。

 ふとした時、大昔にはこの街にも大勢の人間たちが歩いていて、他の生き物も息づいていたのだろう、と想像した。そして自分自身かつて言葉を交わした数少ない他の天使のこと、他の人間のことをふと思い出した。

 ――ああ、私にも他の生き物の間で生きていた時代があったんだ。

 そしてなぜだか心臓が冷たい針金で巻かれているような気持ちになった。

 それは少なくともいい気持ちではなかった。

 それが「寂しさ」なのだろうか。

 1人に慣れすぎたせいか、それさえもわからなかった。


……………


 目が覚めて、自分の意識が覚醒していくのを感じるのと同時に、夢の中に置いてきたはずの「寂しさ」がまだ胸の中に居座っていることに気づいた。

 クローディアは胸の間に手を当て、骨の感触を確かめるように何度かまさぐった。手の熱が胸の内側に伝わってくるのを感じた。

 「寂しさ」は溶けるように姿を消した。でも消えたというよりも拡散したという方が正しい気がした。まるで眉間や指先にまで行き渡ってしまったような感じだ。

 裸足のままベッドから出てそっと扉を開き、隣の部屋の前で立ち止まって物音を確かめ、やはりそっと扉を開けて中へ入り、ベッドの前に立ってカイの寝顔を確かめ、ゆったりとした呼吸を確かめた。

 生きている。

 彼は生き物で、私の目の前にいる。

 気持ちが落ち着いてくるのを感じた。

 窓の光を遮らないように扉の前に戻る。その動きが姿見に映ってちょっとぎょっとした。

 誰? ……ああ、なんだ、自分か。

 足を止めて姿見を見ると顔の横に綿毛がひとつ浮かんでいるのが見えた。ぎょっとしたせいで翼が膨らんで抜け毛が飛んだのだろう。

 クローディアは指先でそれを捕まえ、自分の羽根であることを確かめてから口元に持ってきて唇の間に挟んだ。

 人間の最も鋭敏な感覚器官は指ではなく唇だという。それはおそらく天使も変わらない。指先では感じられなかった細かな羽弁1本1本の厚みも唇なら確かに感じられた。


……………


 春になると羽毛がごっそり抜け落ちる。雨覆いも、綿毛も、時には風切り羽だって抜ける。

 それを集めて束ねて、ちょうどカラスほどの鳥の人形を作ったことがあった。青い半球のボタンで目をつけ、ハンガーを解いて脚をつけた。それを「トロプチュカ」と名前をつけてテーブルの上に座らせ、話しかけてみたり、撫でたり腕に抱えてみたりした。でもトロプチュカは返事はしてくれなかったし、自分とは別の生き物、という感じがまるでしなかった。

 トロプチュカの撫で心地は自分の羽根を撫でるのと全然違わなかったし、鼻をうずめると自分と同じ匂いがした。特に匂いだ。自分を材料にしたのがいけなかったのだろう。

 でも生き物と呼べそうなものは周りには自分くらいしかなかった。


……………


 クローディアは姿見の前でそっと翼を開いた。キアラに切られたせいで姿見の枠に見切れないほど全幅が縮んでしまっていた。翼というよりまるで扇子みたいだ。それにすでに何本か風切り羽が抜けて歯抜け・・・になっていた。体の前に持ってきても股まで覆うのでやっとだ。みすぼらしい姿だった。

 部屋に戻ってツーピースのスポーツブラとパンツだけ身につけて――つまり裸足のまま――外に出て滑走路に向かって軽く走りながら翼を開いて飛び立った。勢いをつけなければ体が浮かばなくなってしまった。

 よく晴れた朝で、雲の流れが速く、時折西からやや強い風が吹いた。風はどことなく暖かく芽吹きの匂いがした。春の風だ。塔の周りの気流を掴んで上昇、カイの家が朝日を受けているのが下に見えた。手作りのレース機ナイブスはエンジンと一部の外板を外されたままガレージの前に置かれていた。

 羽ばたくのをやめて滑空で降下、甲板の裏側が頭上になる。フラムスフィアに潜っていく。気温が一段高くなり肌に熱を感じるようになる。フラムそのものが熱を帯びているわけではない。フラムによって植物が死滅した結果、旧文明時代よりも温室効果ガス濃度が高まって地表に太陽熱を溜め込んでいるのだ。


 クローディアはできるだけ地面のしっかりしているところを探して着地した。そこは畑と畑の間を通るまっすぐな道路だった。タールベルグの周囲はかつて広大な農村地帯だったようだ。

 島の上ではすでに日が昇っていたが、地上からはまだ朝日が見えなかった。高度のせいだ。塔の根元と最下層甲板のちょうど中間に地平線の影が走っていた。

 タールベルグのそれより上層は朝日の中にあった。甲板の裏が照らされてごちゃごちゃした配管がくっきりと見えるのは朝夕だけだ。中層甲板はまるで空を覆う蓋のように広がり、塔本体は黄金色に輝いていた。地上から見上げる塔もまたなかなか壮観だ。中層甲板が最も大きく、その下に居住用の甲板が間隔を詰めて積み重なっている。工業島の典型的なスタイルだった。


 上空の風は地表の対流にも影響する。時折風が吹いて塵を舞い上げ、上空の景色を全体的に薄黄色く染めていた。

 足下に目を落とすと少し離れたところに鳥の死骸が落ちていた。よく見るとハトの成鳥だ。巣立ちに失敗した雛ではない。きっと猛禽か何かに追われて逃げているうちに高度を下げざるを得なくなってフラムを吸ってそのまま死んでしまったのだろう。

 それは昨日今日の出来事ではない。ずっと前に死んだハトだ。亡骸は完全にミイラ化していた。

 地表にはどんな生き物も存在しない。大気中で呼吸をする生き物はみんな死に絶えてしまった。微生物も細菌も例外ではない。かつての地表なら死後急速に腐敗が進んでいくはずの亡骸もフラムの下では何者にも分解されることなく、完全な姿を留めたままやがて少しずつ水分を失い、小さく薄くなりながら、ただ風雨によって少しずつ朽ちて砂と風に混じっていく。図書館の蔵書が何千年もの時を超えて綺麗なままの姿を保っているのだって紙を食べる虫や微生物が死んでしまったからだ。

 なぜ私だけが生きているのだろう?

 なぜ私だけが朽ちてしまわないのだろう?

 もしかして私は生き物ではないのだろうか。本と同じなのだろうか。誰とも出会うことなく、毎日同じ生活を続けて、何の目的もなく、ただ生き続けるべくして本とともに何千年も生き続けることになるのだろうか。そんなふうに想像したこともあった。

 

 ふと顔を上げた時、最下層甲板の上に人影が立っているのが見えた。距離にして2km近くあるだろう。それでも確かに人影だった。最下層飛行場の甲板だからカイに違いない。

 大きく手を振ると相手も手を振り返した。夜空の星くらいに小さな白い手のひらが陰の中で弧を描いていた。

 クローディアはそのあと5分ほどじっくりと深呼吸を繰り返してから再び飛び立った。上昇だ。地表近くは大気が厚いから体が浮かぶけど、フラムスフィアを抜けたあたりから精一杯羽ばたかないと高度が上がらなくなってくる。翼が完全じゃないというのはとても不便だ。それでもフラムを払うために頭や翼を振って風で体を洗ってから最下層甲板に降り立った。

 振り返って先ほどまで自分が立っていた場所を探す。地表は下から見るよりも黄色く煙っていてとても見通しが利きそうになかった。そもそも距離があるし、よく見えたものだ。タイミングが良かったのかもしれない。


 カイは家の中に戻っていた。風呂場に直行してスポーツウェアを上下ともシャワーで濯ぎ、髪も翼もしっかりとシャンプーしてフラムを洗い流す。フラムは水には溶けないけど、味噌や油と同じで、下水に流してしまえば安全に処理できる。フラムに潜った直後のシャワーはいわば除染だ。

 体を拭きながら洗面台に手をついて肋骨の下のあたりを拳で叩く。胸の底にごろごろとした感触があって、げほっと咳をすると舌を伝ってパチンコ玉くらいの肺珠が飛び出してきて洗面台にカランと落ちた。続けてさらに2粒。なかなかの収穫だ。それを石鹸でよく洗ってから乾かし、すりこぎで粉末状になるまでよく擂り潰した。

「おはよう。今日は風が強いわね」

「おはよう」カイはテレビのニュースを見ながらキッチンでパンを温めていた。「この先1週間は強風だって。もしかすると塔が倒れるくらいの風が吹くかもしれない」

「嘘」

「とにかく風が強いんだ」

 カイは冗談っぽく笑った。それから粉末になった肺珠を折り目をつけた紙の上にあけ、ストローを鼻にあてて「ふんすっ」と一息に吸い込んだ。すぐに鼻をつまみ、目をぎゅっと瞑る。くしゃみしたいのを必死で我慢しているのだ。


 天使の肺珠にはフラムによる肺の炎症を抑える効果がある。カイはベイロンの政変に加担した時にエヴァレット・クリュストと揉み合いになって甲板の下へ突き落された。クローディアが掬い上げたものの少しだけフラムを吸い込んでしまって、それ以来肺の調子が悪いのだ。クローディアがフラムスフィアに潜るのを朝の日課にしているのは彼に飲ませる肺珠を生成するためだった。


 カイはくしゃみ衝動の波が過ぎ去ったところで「ああ、苦い」と言いながら涙目の目尻を指で拭った。「ありがとう。ねえ、クローディア、ちょっと翼を広げてみせてくれないかな」

「何?」

 クローディアが言われた通りにするとカイは風切り羽の抜けたところをまじまじと見た。

「歯抜けだ」

 改めてそう言われると少し気恥しかった。

「でも風切り羽が抜けてるのっていい兆候なの。新しいのが生えてきてるってことだから」

 翼を意識したせいか痒みが気になってきた。風切り羽が抜ける前ってすごく痒いのだ。右の翼に指を差し込んで痒みの元を探し、浮いている羽根を掴んでエイッと抜き取った。羽の根元に一滴だけ血の玉がついていた。

「おぅ……」カイはちょっと痛そうな顔をした。

「すぐ綺麗に生え揃うよ」

「元通りになる?」

「うん」クローディアは抜いた羽根の根元を流しで濯ぎ、裏口の土間に立てかけておいた。

 羽根の話題はカイがしんみりしてしまうのでこのくらいにしておこう。彼はキアラに情けをかけたことを負い目に感じているのだ。

 彼の葛藤はとても危険なものだ。私ならそのレベルでは迷わないだろう。けれどそれはきっと私がカイの存在を頼りにしていたからこその落胆なのだ、とクローディアは気づいた。心の支えにするのと頼るのとは全く別のことだ。心の支えにするのは構わない。でも頼ろうとするのは踏み込みすぎかもしれない。頼ろうとするから落胆も生まれる。

 クローディアはカイの肩に手を置いて彼の耳の上のあたりに鼻を近づけた。鼻筋に固い髪が当たった。仄かに汗の匂いと、もっと仄かに機械油のような匂いを感じた。自分の匂いとは違う。全然違う。

 体を引くとカイは目をぱちくりしてこちらを見た。

「ううん、なんでもない」クローディアは微笑して視線に答えた。

「そ、そう……」

 彼は私を生き物たちの時間の中へ連れ戻してくれた。私は生きている。彼も生きている。そう思えただけで十分じゃないか。他者に多くを求めるのは傲りだ。それはきっと自分を弱くしてしまう。


「ナイブスは大丈夫?」クローディアは食卓に着きながら訊いた。

「ああ、そうか。外に置きっぱなしだから、何かが飛んできてぶつかったらまたスクラップになっちゃうな」

「前はどうしていたの?」

「作ったばかりの飛行機だからその辺まだ考えてないんだよ。中層の格納庫に入れておけばいいやと思ってたんだ。でもまだエンジン組んでないから飛べないし、ガレージは父さんの機体で一杯だし……。中層のクレーンが使えれば上げられるんだけど」

「でも、不思議ね」クローディアは天気予報に目を向けながら言った。20インチの液晶テレビが空模様を映していた。

「何が?」

「ヨーロッパの春って昔は穏やかだったんだって」

「毎年春になるとびゅうびゅう吹いてるよ」

「昔は違ったのよ」

「フラムのせいで気候が変わってしまったってことか」

「植生と気温が変わって気圧の配置もズレたってことなんだと思う」

「風は弱い方がよかったな」

「飛べないから?」

「それもあるけど、物が飛んできて機体をへこませたりするから」

「じゃあ今日は風対策ね」

「うん。工場に行って、クレーンが使えるか確かめる。よろしく頼むよ」

「了解。じゃあ、いただきます」

 パンとスープ。このところのいつも通りの朝食だ。塔の脇を通り抜ける風が「びゅううう」と不気味な音を立てているのだけが昨日までとの違いだった。

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