ラッシュ・プレリュード

 サフォンは見送りに青いビロードのクッションを持ってきてエヴァレットにプレゼントした。

「えっと、私の羽根を詰めたクッションです。気持ち悪くなかったら持っていってください」

「気持ち悪い?」

 そうか、人間で言えば髪や爪のようなものか。形見じゃないか。毎年ギグリが堂々とクッションやら布団やらを詰めているので全然不審に思ったことがなかった。

「いや、平気だよ」エヴァレットは答えた。

 クッションにしてはちょっと痩せているが、押し戻しはきちんと強く、ふかふか・・・・するといい匂いがした。

「あなたの方が気持ち悪いわよ」ギグリはエヴァレットがふかふか・・・・しているのを見てそう言った。例の冷たい目だ。久しぶりの辛辣なギグリだった。

 アネモスの一件から一晩明けたもののギグリの機嫌は戻らなかった。それどころか少しずつ悪化しているように見えた。機嫌の悪いギグリを見ているとエヴァレットも自分の心がすさんでくるのを感じたし、そういう2人を見ているサフォンもとても気まずそうだった。

「ありがたくもらっていくよ。ギグリ様が恐くて仕方ない時は君のことを思い出して抱き締めるよ」

 サフォンは嬉しそうに頷いた。

 ギグリは「ふん」と鼻を鳴らした。

「また来てくださいね」

「次はいい気分で帰れるといいわね」とギグリ。

「私は別にお二人がずっとアルピナにいてくれたっていいんです。来てくれたら私はまたお二人のメイドに戻ります」

 エヴァレットは膝をついて別れのハグをした。そうすると目の高さはサフォンの方が少し上だった。頭の位置を入れ替えて頬に親愛のキスを交わした。一方ギグリは障壁オーべクスをサフォンの足の下に生み出し、それでサフォンを持ち上げて自分の高さでハグをした。

 空港のロビーには相変わらず人気がなくて、見送るサフォンとトルキスの姿は妙にぽつんとしていた。

 さよならサフォン。君のことが恋しくなるほど険しい未来はないって、心から祈っているよ。


 2人の姿が見えなくなったところでギグリは溜息をついた。エヴァレットもギグリももうサフォンのための表情はつくっていなかった。

「本当の問題が何かわかる?」ギグリは訊いた。

「パールヴェーラーでしょう? 研究にエトルキアの金が流れるなら、エトルキアは極めて合法的に技術を盗むことができる」

 ベイロンの停戦交渉でエトルキアはパールヴェーラーの研究施設の開示を要求した。だがルフト政府はそれを突っぱねた。ルフト政府は紛争に関与する姿勢を見せなければ交渉もベイロン主体で行わせたが、その1件だけは断固として譲らなかった。よほどパールヴェーラーの技術が流出するのを恐れたのだろう。ベイロン領がエトルキアに市場開放させられた・・・・・のはほとんどその交換条件のようなものだった。だが約束を取りつけた相手はあくまでエトルキア政府であり、エトルキア企業はその限りではない。単にエトルキア政府の監督義務下にあるだけで、やろうと思えばいくらだってすり抜けようがある。

「私が戻ってエトルキアの出資にストップをかければ問題ない。違う?」

「いいえ。それはルフトの自由競争の原理に背く。占領官がそう言って突っかかってくるはずだ」

「じゃあ、どうする?」

「研究は続けられない。今まで金回りが良かったのは起業家たちがエアレースに継ぎ込んでいたからで、彼らはパールヴェーラーそのものに出資していたわけではなかった。剥き身の研究事業では資金繰りが――」

「あなたはそれでいいの?」

「よくはないですよ。あの薬はフェアチャイルドの希望だった。あの薬は地上の生態系を再生する鍵になる。そうでしょう? 単に呼吸器なしで人間が地上に降りられるというだけのものではない。あの技術は応用が利く。あの薬にどんな意味が懸かっていたのか、アルピナにいるあなたを見てよくわかりましたよ」

 ギグリは頷いた。エヴァレットはまるで面接されているみたいな緊張を感じていたが、どうやら満足のいく答えを返せたようだ。

「研究所がベイロンにある限りエトルキアに盗まれるのは時間の問題なのよ。ノヴァクをせっついて早くソレスに引き取らせるわ。いいわね? 交渉であれだけベイロンに割を食わせたのだから当面の予算も渋らないでしょ」

 アルピナには移せないのだろうか、とエヴァレットは少し考えた。だがあまり現実味がなかった。研究所はフラムを扱う。防護設備は電力を食うし、汲み上げ用のパイプラインも必要だ。建設状態で放棄されたアルピナのインフラにそんな余裕があるとは思えない。


 静かな帰路だった。低高度は厚い雲で覆われていたが航空路の走る高度6000m以上はいつも通り蒸留したような青空が広がっていた。

 ギグリはキャビンの方で寛いだまま操縦室には入ってこなかった。サフォンは決しておしゃべりではなかったけれど、それでも誰かが1人減るだけでこんなに空気の温かさが失われてしまうものだろうか。

 よく見るとギグリはサフォンのクッションを胸の下に置いていた。さっそく抱いているのだ。それをもらったのは僕であってあなたじゃない、と思わないこともなかったが、もしかしたらギグリにとってはもう何か癒しが欲しいほどまずい状況なのかもしれない、と理解できた。でもエヴァレットは操縦席を離れることができなかった。ギグリの方から来てくれればいいのだが、そんな気配はちっとも見られなかった。

 単に信用がないだけなのか、それとも自尊心からくる恥ずかしさなのか、エヴァレットにはわからなかった。

 もしサフォンが相手なら彼女も自然体でいられたのだろうか。込み入った事情を明かせるかどうかは別にして、それでも心に嘘をつかずにいられるならきっとそれはとてもありがたいことのはずだった。

 


 ベイロンの空港と塔本体の間には最下層甲板の下を通る秘密通路があり、それを通れば人目に触れずに空港と城を行き来することができた。

 だが城はもうエヴァレットとギグリの住処ではない。新居の部屋へ戻るにはまともに表を通っていく道筋しかない。

 なぜクイーン・オブ・クイーンズをリリスに任せたのか、その事情を聞くために違いないのだが、ギグリの帰りを待っていた報道関係者たちがスピリット・オブ・エタニティを見つけて空港のロビーに集まり始めていた。

 先頭で待っていたのはマグダだった。彼女が記者たちを押し留めていたのだ。

「おかえりなさい、ギグリ様」マグダはお辞儀した。後ろから飛んでくる記者たちの質問の声など気にも留めていなかった。

「やっぱりこの島は人が多いわね」

 ギグリはそう言って記者の群れのど真ん中にオーべクスを突き立て、それを左右に開いてモーセのように人混みを割った。アルピナを発つ時から白いドレスを着ていたので人前に出るつもりなのだろうと思っていたが、今は相手をしてやる気はないらしい。

 正面のエントランスまで両側をオーべクスで仕切られた閉鎖通路が出来上がり、3人は悠々と歩いて外に出た。マグダが目の前に横付けしてあった黒いバンのスライドドアを開けた。エヴァレットとギグリは旅の荷物を抱えたままドアから乗り込んだ。

 マグダはバンを出して最下層の外環道路に入った。島の北側、つまり新居から離れる方向に向かっているが、まっすぐ帰れば記者たちに新居を教えるようなものだからだ。

「エレベーターは押さえられているでしょう。どこか適当なロープウェイの駅に向かって」ギグリはマグダに注文した。

「はい。城ですか?」

「ミュージアム」

「ああ」

「それはそうと、ありがとう。助かったわ」

 別に指示を出したわけではない。帰りの日程は伝えてあったが、段取りはマグダが勝手にやったものだ。

「まずはおめでとうございますですね」とマグダ。

「……何が?」とギグリ。

「人気投票ですよ」

「ああ、そのこと」

「ギグリ様60パーセント、リリス40パーセント」

「大して差がつかなかったわね」

「そうですか? 不在なのに余裕で勝ってるなと思いましたけど。だってリリスはその場でものすごくアピールできたんですよ」

 ギグリは一度頷いて何か答えようとしたが、結局何も言わなかった。


 マグダは島の北東まで来てロープウェイの駅前にバンを止めた。辺りは至って日常の景色だった。空港の騒ぎなど誰も知らないだろう。

「このバン、誰に借りたの?」ギグリが降り際に訊いた。

「プガッティです。あの男なら多少事情を知っても口を割らないでしょう。新しい部屋の場所も知っているし」

「フム、いい判断だわ」

「ありがとうございます。私は車を返してきます」

 エヴァレットとギグリはロープウェイで中層甲板まで上り、芝生の中の遊歩道を歩いてエアレース・ミュージアムに入った。エアレース・ミュージアムはパールヴェーラー研究施設の隠れ蓑でもある。研究内容はよほど生物系博物館に近いがそれではあまりにあからさまだ。

 ギグリは受付の内線で所長のモールトン教授を呼び出して手が空いているか訊いた。教授もこのタイミングでギグリが来ることに何か意味を感じたのだろう、すぐにOKを出したようだ。

 関係者以外立ち入り禁止のロープパーテーションを避けて階段で階下に下り、廊下を奥へ入っていく。左右にはケミカルハザードのアイコンをつけた分厚いドアが並んでいた。

 モールトン教授は教授といってもまだ30代半ば、長身の凛々しい男だ。ポマードでかっちりと撫でつけた黒髪と銀縁の眼鏡が彼のトレードマークだった。

 所長室に入った時、彼はまだ防護服を脱いですぐだったらしくインナーシャツに短パンという似合わない軽装だった。

「悪いわね、作業中に」

「構いませんよ。それなりの用事なんでしょう?」モールトンはドカッとソファに座り、スポーツドリンクをごくごくと飲んだ。ボトルの半分ほどが一気になくなった。

 研究所はフラムを汲み上げて実験に使っている。何も部屋の中にフラムを充満させるようなことはないし減圧吸引と濾過はかなり厳重にやっているが、それでも作業時は気密性の防護服を着るのがルールだった。エヴァレットも何度か着たことがあったが、中はとてつもなく暑く、1時間も活動すると中に溜まった自分の汗に足が浸るくらいだった。

 エヴァレットとギグリも向かいのソファに座った。

「昨日のレースはずいぶんな騒ぎだったみたいじゃないですか。僕は、まあ、見てないですが。その絡みですか」とモールトン。

「移転準備の進捗を聞きに」

「ああ、……困ったな」

「どうなの?」

「まだ30パーセントってところですね。週単位で動かしている実験もありますし」

「あと1週間で整えられる?」

「ふうむ、なるほど、学者の事情は汲めない、と」モールトンはソファの背凭れに肘を引っかけた。

「あなたはエトルキアに連れていかれて実験室に閉じ込められてもいいのかしら」

「それは嫌だな。兵器転用されたりするのも、嫌だ」

「じゃあ、頼めるわね? ノヴァクには私から話を通しておくわ。必ず」

「みんなにも無理をさせなきゃならない」モールトンはそう言って溜息をつき、両方の手のひらを上に向けた「いいですよ。ギグリ様のおっぱいを揉ませてくれるならね」

 モールトンの顔の横にうちわ大のオーベクスが1枚現れ、ハエタタキのようなスピードで彼の頬に当たって砕けた。眼鏡が飛んで壁に当たり、床に落ちた。

 骨が折れたんじゃないかというくらい首がのけ反っていたが、モールトンは何事もなかったように起き上がった。

「わかりましたよ。口約束が信用ならないんでしょう。揉ませてもらうのはきっちり移転が済んでからでいいですよ」

 モールトンは眼鏡を拾いかけていたが、2枚目のオーベクスが現れて今度はアッパーカットを食らわせた。

 やっと眼鏡をかけ直したモールトンの両頬は赤く腫れていたが、彼は特に痛がる様子は見せなかった。というか彼は別に「1週間」という言葉にも動揺していないのだ。30%といってもそれはおそらく残りの70%を迅速に終わらせるための下準備がメインだったのだろう。

「それで、屋上の鳥籠はどうします。連れて行っていいのか」モールトンは話を戻した。

「いや、あの子たちは私が面倒を見るわ」

「そういうことなら、諸々よろしく頼みます」

「あなたも必ずやり遂げなさい。悪いけど時間がないの」

「わかってますよ」

「戻っていいけど、少し電話を借りられる?」

「ええ、好きなだけ使ってください」

 モールトンが出ていくとギグリは所長席に移って受話器をとった。電話交換手を呼び出しているはずだ。首都にかけるつもりなのだ。


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