ノイエ・ソレス

ルック・ダウン

「そこにカーラはいる?」

 ギグリは受話器を耳に当てて電話交換手に訊いた。事情が事情だ。信用できる交換手に取り次いでもらいたいのだ。

「ええ、代わって。……ごきげんよう。ノイエ・ソレス10121に。アーヴィング・フェアチャイルドより、と伝えて。こちら持ちで」

 それから20秒ほど呼び出し待ちがあった。

「長官を呼び出してもらえる? そうね、急ぎの要件なので呼んでもらえるかしら。アーヴィング・フェアチャイルドといえばわかるでしょう」

 受付の誰かに取り次ぎを頼んで、今度は少し長く待たされた。

 ノイエ・ソレス10121というのは連邦文科省の番号で、長官というのはつまり文科省長官のノヴァクのことだ。文科省内では大臣に次ぐ権力者ということになるが、大臣は内閣の任期に合わせて任命されるだけのいわば素人。実務上のトップは長官だった。エトルキアとベイロンの交渉に口出ししてパールヴェーラーの研究を守ったのがこのノヴァクだ。

 エヴァレットはあえてドアを開け、戸口に寄りかかって廊下の両方を見通した。誰が通りかかるかわからない。こういう話はとにかく最初くらいは秘密で始めるものだ。


 電話が通じ、ギグリが口を開いた。

「あなたも忙しいでしょう。本題から入るけど、パールヴェーラーの移転先の用意をあと1週間で済ませてもらえるかしら。……なに、選定? ええ、それじゃダメね。設備まで整えてもらわなければ」

 ギグリはそこで受話器を持ち替えた。

「研究の財源がエアレースの収益なのは知っているでしょう? エトルキア企業がエアレースに出資しようと言ってきてるのよ。せっかく交換条件まで出したのに、このままだと結局全部盗まれてしまうわよ」

 ギグリは静かに啖呵を切った。だがノヴァクも切れ者だ。エアレースの財政はギグリが責任を持って守るべきだったのではないかと返してきたようだ。

「でもね、残念だけどこの件にはシュナイダーも噛んでいるのよ。エアレースは領主主催だもの。私の権限では彼の決定は覆せない。それに、過去のことを『べき』で語るなら、あなたたちこそベイロンをエトルキアから守るべきだったんじゃない? ……そう、事情があるのは同じでしょう。とにかく、流出が嫌だったら支度をなさい。いいわね?」

 ギグリはそう言って受話器を置きかけたが、思い直して続けた。

「その移転先、住所は? ……そうよ、だって知りもしない場所に彼らを送り込むなんて、あまりに非情でしょう」

 ギグリはデスクの上でペンとメモ帳を探して相手の声を聞きながら住所を書きつけた。

「明日か明後日か。ええ、じゃあ、返事は電報で。ベイロン58……」

 ギグリはそこで詰まった。新居の電話番号を把握していないのだ。

「58981」エヴァレットは答えた。

「58981。ええ、それじゃあ頼むわね」

 ギグリは受話器を置いた。背凭れに体を預け、受話器に当たっていた左耳を手でぐしぐしと拭ってから髪を整えた。


「ノイエ・ソレスですか」エヴァレットは訊いた。

「ええ。明日か明後日か」ギグリはそこで一拍間を置いてエヴァレットの反応を確かめた。「でもエタニティは出しづらいわね」

 エヴァレットはその言葉を待っていた。自分から言うとまた操縦を嫌がっているみたいに思われそうだったからだ。

 スピリット・オブ・エタニティは依然ベイロン近衛隊が整備と管理を請け負っていた。飛ばすには近衛隊に話を通さなければならない。当然シュナイダーにも報告が上がる。

「しかし研究所の移転をシュナイダーに隠す意味がありますかね。エトルキア資本を避けるために疎開させる。それだけじゃないですか。むしろ彼なら今まで廃墟の人々を苦しめてきたパールヴェーラーとエアレースを分離できると喜びそうなものですが」

 ギグリは歯になにか挟まったみたいな顔でしばらく考えたあと、「それもそうね」と言った。

 エヴァレットはデスクの表側から電話機を引き寄せてシュナイダーの執務室にかけた。

 多少間があったのでエヴァレットは部屋の中を見渡した。厖大な書類(論文だろうか)を収めたキャビネットの上にイルカやクジラなど海棲哺乳類の模型が置かれていた。彼らはかつて地球の海洋を支配していた。巨大かつ強靭な肺を持ち、1回の息継ぎで数十分も水に潜り続け、到達深度は数百メートルに及ぶという。

 パールヴェーラーの研究は今のところ海棲哺乳類とは無縁だが、モールトンは彼らのポテンシャルに惹かれて肺や肺珠の研究をする道に進んだのかもしれない。


 電話を取ったのは秘書だった。前から城に勤めている馴染みの女の子だ。

「エヴァレットだが、シュナイダーのスケジュールの直近の空きを教えてほしい。10分でも5分でもいい。エアレースに関して話したいことがある」

「ちょっとお待ちを……」

 わさわさわさ、と手帳をめくる音が聞こえた。

「11時から15分あります。その次は14時前です」

「それなら11時に行く。行くだけ行って都合が悪ければ出直す。伝えておいてくれ」

「はい、必ず」

 エヴァレットは受話器を置き、手首を返してギグリに腕時計を見せた。

「あと20分あるわね。鳥籠を見て行ってもいいかしら」

「お好きにどうぞ」


 モールトンの研究室を閉めて階段を上がり、ミュージアムのバルコニーに置かれた大きな檻の前に来た。その巨大な鳥籠は内側が小さな区画に仕切られ、ハトやオウムなど白い鳥が2,3羽ずつ入れられていた。モールトンが鳥籠と訊いたのはこの檻のことだ。


 天使の肺はフラムを吸うと肺珠という結晶を生成する。他の生物の肺には見られない機能だ。肺珠はフラムを凝固分解する性質を持った特殊なタンパク質の塊なのだが、天使以外の生物もこの物質の摂取によって一時的にフラム耐性を上げることができる、という説がある。パールヴェーラーの研究の基底にあるのは肺珠の存在なのだ。

 まあ摂取といっても最も効果的なのが経口なのか注射なのか塗布なのかすらまだ判然としていない。ともかく独自研究としてギグリが自分の肺珠を砕いて与えているのが鳥籠の白い鳥たちだった。


 ギグリは1羽1羽檻の前を回って羽根や嘴、足の爪をよく観察して健康状態を確かめた。普段ならたっぷり1時間は使って世話をしてやるところだろうが、今は挨拶程度にしておかなければ時間が足りない。

 見回りを始めて数分経ったところで下の草地からコウノトリが1羽飛んできて欄干にとまった。コウノトリにしては羽ばたき方がバタバタしていて着地も落ち着きがなかった。大人ならもっと風に乗って上からふわりと着地するものだ。下から這い上がってくるようなやり方はしない。ベイロンで見られるコウノトリと言えばシュバシコウだが、嘴は赤というよりまだせいぜいピンクだった。幼鳥だろう。とりあえず高いところに上ってきて一息ついているようだった。

「雛ね」ギグリも同じ結論に達したようだ。手を止めて眺めていたが、ふとそう言った。

 エヴァレットは城の屋根の上に巣が並んでいたのを思い出した。

「城から落ちてきたんでしょうか」

「巣立ちでしょうね。あれくらいの飛び方でも1羽で行動するのよ。普通は屋根の上を歩き回るくらいだけど、ちょっと風に乗りすぎて戻れなくなったのかしら」

「中層まで落ちてきますか」

「毎年1,2羽いるわね。大丈夫よ。そのうち親が様子を見に来て、きちんと飛べるようになるわ。地表が失われて大型の肉食獣に襲われる危険はなくなったのだから」

「けれど落ち続ければフラムに焼かれる」

「そう、世界が変わっても落下を恐れる習性は変わらない。意味が変わっただけで」

「彼らはそれを自覚しているんでしょうか」

「それ?」

「甲板から落ちればフラムに肺を焼かれるということを認識した上で恐れているんだろうか、と」

「あなたは甲板の端に立って真下を見下ろした時、股が竦んだりしない?」

「いいえ、あまり。ギグリ様は竦みますか」

「私は感じないわ。天使だもの」ギグリはちょっと笑った。「でも人間なら大半が竦むのよ」

「そのようですね」

「それと同じでしょう。落ちた経験はないけど、その恐さはなんとなく知っている。鳥にもそういった『経験なき知の感覚』があるんでしょう。だからあの雛も実際には安全なのになんとなく心許なく見えるのよ」

 シュバシコウは渡り鳥だ。秋には南に向かって数千キロも飛んでいく。時速100㎞にも満たない自力の飛行で、だ。それに比べれば飛行機で2時間もかからないアルピナやノイエ・ソレスなど大した旅路ではないと思えた。



 エヴァレットとギグリは先に城の食堂に入って隅の席でシュナイダーを待った。彼は11時きっかりに入ってきて肩と首をぐるぐる回した。

「明日か明後日、一度エタニティを借りたい」エヴァレットは前置きなしに訊いた。

「点検と燃料の分出してくれれば構わないが……」

 借りたいだけなら近衛隊に話を通しておけばいいだろう、とシュナイダーは言いたげだった。実際その通りだが、ここはあえて自分から伝えることに意味がある。信用問題だ。

「パールヴェーラー研究所の移転先視察です。スパルタンのデモンストレーションを見ましたが、エトルキア資本がエアレースにぎ込まれるのも時間の問題でしょう。その金が研究に流れ込む前に疎開させなければ。巻きで進めたい」


 シュナイダーは椅子を引いて腰を下ろした。

「あの研究をエトルキアに渡してはならない理由というのは何なんだ?」

「パールヴェーラーは水溶性です。高濃度の水溶液を霧状に散布すれば大気中のフラム粒子を吸着する効果が見込める」エヴァレットは説明した。わざわざギグリに言わせることもないようなレベルの話だ。

「いいことじゃないのか?」

 エヴァレットは首を振った。

「フラムスフィアの下にもまだ生態系は残っている。あえて『地表』という言い方はしませんが」

「魚か」

「そう。水生生物に対するフラムの影響は地表の生物に比べればかなり小さい。それはフラムが非水溶性だからです。そしてパールヴェーラーはフラムを化学的に変化させられるわけではない」

「……つまり、フラムを抱き込んだままのパールヴェーラーが水中に潜れば、魚がそれを吸って体内にフラムを取り込むおそれがある」

「それだけじゃない。塔が汲み上げる用水の濾過も難しくなる。扱い方を知らない者たちが上辺うわべの効果に釣られてあの薬を濫用すればこの世界の環境はより決定的に破壊されていくことになる」

「なるほどな……」

「我々や政府は必ずしもエトルキアを敵視するがゆえに研究を囲ったわけではない。エトルキアでも誰でも、パールヴェーラーに対して浅はかな興味を持った者の手が研究に届くことを危惧しているのですよ。何なら我々は連邦政府に対しても全面の信用は置いていない。結局、フェアチャイルドが秘密裏にやっていたのもそのためですよ」


 シュナイダーは30秒ほど考え込んでいたが、ふと腕時計を見て腰を上げた。

「わかった。その件は任せよう」

 そこから3人は歩きながら話を続けた。シュナイダーはエレベーターホールに向かっていた。中上層に下りるらしい。

 エヴァレットは少し別の話をすることにした。

「エトルキアに門戸もんこを開くことでルフトの人々もエトルキアの人々も平等にエアレースを楽しむことができる。あなたはそう見込んだのでしょう。しかしそれ以前にエアレースは人間と天使の平等、融和を掲げた祭だったのですよ。ゆえに飛行機であり、クイーンだった。シュナイダー、あなたはルフト国民だ。天使差別主義者ではない」

「むろん、差別を浸透させるつもりはない。審査と取締りは一層厳格に行う」

「つもり、といくら言ったところで天使たちはそうは思わないだろう。天使より人間を優先したのだ、と受け止めるはずだ。規制というのは効果が見えにくい。片方を優遇するなら、もう片方も同じだけ優遇するべきだ。むろんそれもまた新たな不平を生むかもしれないが」

「覚えておこう」シュナイダーはそう言って首の後ろを揉んだ。

 結局、フェアチャイルド統治を破壊した時点でシュナイダーは取り返しようのないスパイラルの中に飛び込んでしまっていたのだ。

「エトルキアの資本があればエアレースの財政は確実に立て直せる。加えてエトルキアのレース産業も活性化できる。研究に回していた分が浮けば廃墟の再生も進められると思ったが、素朴すぎたかもしれないな」

「いいえ。あなたは正しいわよ、民草のための為政者としては。――あるいは、レーサーとしては」ギグリは言った。

 シュナイダーとの会話の中でギグリが発したのはこの言葉だけだった。おそらくシュナイダーに対する軽蔑のせいなのだろう。でもそれを表に出そうとしないのはギグリにしては珍しいことに思えた。たぶんフェアチャイルドを殺したのが志のある人間ならまだ受け入れられたのだろう。だがもしそれが理解不足の無闇な行為だったとしたら許せない。それが何の親しみもない純粋な軽蔑であるがゆえに彼女はあえて言わなかったのだ。それは建設的ではない。


 3人でエレベーターに乗り、中上層でシュナイダーが降りた。エヴァレットとギグリはそのまま最下層まで下りた。

「プガッティのところに寄っていく」途中、何の脈絡もなくギグリがそう言った。

 質問でも命令でもなかったのでエヴァレットは黙っていた。そのあとケージの中で2人は何も話さなかった。緩やかに気圧が変わり、エヴァレットは1度だけ耳抜きをした。

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