ドーターズ・アクト

 食堂の明かりを消して4人でエレベーターで7階に上がり、マグダと別れて階段を上った。

「おいで、サフォン」

「8階ですか?」サフォンが心配そうに訊いた。「怒っています? 私が上手くできなかったから」

「そうじゃない。初めてにしては上出来だ。ひとつひとつを焦らず、もう少し相手を待たせても構わないという気持ちでやるといい」

「はい……」

「サフォン、昼も言ったがベイロンは決して君にとって安全な島ではない。アイゼン回廊のせいでエトルキアから観光に来る人間も増えている」エヴァレットはサフォンの肩に手を置いて言った。

「やだ、クリュスト様、嘘をついてます」サフォンは何かを悟った。

「嘘じゃない。本当のことだ」

「本当に言わなければいけないことを隠しています」

「サフォン、君はお母さんにどこへ行くか言わずにベイロンに来たんじゃないのかい?」

「ちゃんとメモを書いておいてきました」

「行く前に言わなければいけないよ。島の渡りを一時の別れと思ってはいけない、だったか。『翼の教え』に確かそんなフレーズがあった。あれはきちんと挨拶をしていきなさいという意味だよ」

「ママの気持ちがわかるんですか?」

「電報でやり取りしたんだ。1人でベイロンに来るのは危ないってことを伝えたら、行かせたつもりはないって返事が来た。直接話したがっている」

「嫌です。話したくない」

「逃げるのは感心しないわね」とギグリが後ろで言った。

「20時に電話する約束になっている。向こうはもう待っているだろう」

「私はお二人のためになりたいんです。お料理も洗濯も掃除もします。お邪魔ですか」

「現状、我々は君を心配しなければいけない立場にあるんだよ。我々よりも君を必要としている人がいる。なら我々は君をここに引き留めておくことはできない。もちろん君は我々やお母さんの気持ちを無視してここに残ることもできる。でもそれは君自身のためであって、誰のための行動でもない」

 サフォンは俯いた。

「説得なさい。あなたが母親を説得できたなら、いくらでもここにいればいいわ」

「でも絶対だめだって言います」

「難しい問題なのね」

「はい」

「ならばこそあなたはそれをここに来る前に片づけておくべきだったんじゃないかしら。あなたは私たちを心配させるためにここまで来たわけではないのでしょう?」



 塔と塔の間の双方向通信はほぼ無線電話に限られる。電話線が引かれた島の上ならまだしも、容量の限られる無線は民間人が使おうとするととんでもない料金がかかる。それこそ1分10リブラなど、島内有線電話の100倍以上の値段だ。しかもだいたい500km以上離れると電波の中継が必要になって、間の局からさらに手数料を取られることになる。無線局が依然として交換手を置いているのは誤発信を防ぐ目的もあるという。つまり、たとえ相手に繋がらなくても発信だけで金がかかるのだ。だから島外につなぐ場合は、よほど相手の在宅に確信がない限り、先に電信、つまり電報でアポを取るのが普通だった。電報なら島内電話で依頼できて、料金も1リブラ程度で済む。

 無線局の配達員がサフォンの母からの電報を持ってきたのは16時頃、20時過ぎにかけて、という内容で番号がつけてあった。

 別に無線機を使うわけではないが居室から一番近い電話機が無線室なのだ。むろん無線機でも電話と同じ周波数を使うことはできるが、信号方式が違うので向こうが電話機だと話ができない。それに民間電話周波数はルフト通信省が専有しているので意図的な使用がバレると法的に問題がある。


 エヴァレットは受話器をとって無線局を呼び出した。

「こんばんは。ベイロン無線局交換センターです」交換手は言った。男の声だった。

「こんばんは。島外無線で、アルピナの38757を頼みたい」

「はい。えー……、バーデシュタット経由です。コレクトで?」

「いや、こちら持ちでいい。名前はエヴァレット・クリュスト」

「は、はい」

 保留音が流れ、20秒ほどで通話に戻った。繋がらなかったのなら交換手が何か言うはずだが、無音だった。

「エヴァレット・クリュストです。サフォン嬢のお宅でしょうか?」

「はい。サフォンの母です」電話の相手はやや固い声色で答えた。「ガザガザ」と風の音のようなノイズが混じっていた。

「8年ぶりだったので驚きましたが、大きくなりましたね」

「覚えていてくださったのですね」電話の声が明るくなった。本物のエヴァレット・クリュストなのか疑っていたのだろう。

「娘を預かってもらっていると聞いたのですが、その、なんとも――」

「ええ。無事ですよ。ベイロンもまだまだ危険な面のある島ですから、彼女がこちらにいる間は城で預かろうと思いますが」

「ええ、ご迷惑をかけて本当にすみません」

「いや、迷惑なんてことはありません。では本人に替わります」

 エヴァレットは椅子を空けて受話器をサフォンに渡した。サフォンは椅子に座り、神妙な表情で受話器を耳に当てた。

 ギグリはカウンターに腰掛け、エヴァレットは扉に背中をつけて事態を見守ることにした。

 そして早速「1人でベイロンに行くなんて何考えてるの」というお説教が漏れ聞こえてきた。ほとんどはっきり聞き取れるくらいの声量だった。

「あのね……」とサフォン。

 しかし母のお説教が続いていてなかなか話に入れない。すぐにチケットを取って帰ってこいとか、そういった内容だろう。

「あのね!」サフォンは強めに言ってお説教を遮った。

「ママ、私は2人に恩返しがしたいの。今2人は大変な時期だから、私が身の周りのことをやって助けてあげたいの!」

「まるで我々が不能者みたいな言い方だな……」エヴァレットは呟いた。

「実際そうでしょう。今までこまごました家事は女の子たちに任せていたのだから」とギグリ。

「黙って出ていったのは、その、ごめんなさい。でも私は大丈夫。2人は褒めてくれるし、きちんとやれると思うの」

 エヴァレットは手を出して受話器を受け取った。

「さっきも言った通り、迷惑じゃありませんよ。しばらく待ってあげたらどうです。我々も彼女が色々やってくれるのはありがたい」

「そうですか、でも城で働くというのは」

「というのは?」

「あの短いスカートを穿かせるのはどうかと思うんです」

「そこですか」

「そこなんです。あの破廉恥な格好をするのが娘だと思うと複雑な気持ちに」

「まあ……でしょうね。でももう好きで着ている子だけですよ。彼女のも膝丈にしておきましょう」

 さすがにすでに作ったとは言い出せなかった。

「普段はシャイな子なんです。自分から何がしたいなんて言うのは滅多にないことで」

「尊重したい」

「ええ」

「いずれにしても帰る時は我々が責任を持って送ります」

「本当にいいんでしょうか」

「ええ。ともかく今日明日は空港も混み合います。無理に帰ろうとしない方がいいでしょう」

 そのあともう少し儀礼的な挨拶を交わしてからエヴァレットは電話を切った。サフォンの翼は緊張のせいか随分薄くなっていた。エヴァレットはその背中に手を当て、それから頭を撫でた。

「よく頑張った」

「私はここにいていいんですね?」

「ああ。よろしく頼むよ」


 サフォンがシャワーを浴びている間にエヴァレットは部屋の掃除をした。布団をはたいてシーツをかけ、棚や机の上を拭いて床に掃除機をかけた。だがあともう一歩のところで先にサフォンが戻ってきてしまった。

「あれ、自分でやりますって」

「かといってそのままじゃあんまりだ。初日くらいいいだろう」

 彼女は髪も翼もしっかりと洗っていた。エヴァレットは用意したばかりのドライヤーをコンセントに挿してスイッチを入れた。エヴァレット自身もブロンドだったが、サフォンの髪はもっと明るく、輝くような色味だった。毛先だけ先に乾かすのもよくないだろうし、かといってまんべんなく当てていると乾いているのかよくわからなくなってくる。髪が長いのも大変だな、と思っていると、ギグリが一度戸口に立ち止まってから入ってきた。

「替わりましょう」ギグリはそう言ってドライヤーを受け取り、サフォンの髪と翼を手早く乾かした。翼から綿毛が舞い、掃除の意味などすっかり消え失せてしまった。

 乾かされている間からサフォンは睡魔に苛まれていて、仕上がる頃には目が半開きだった。

「さあ、もう布団に入りなさい」

「ねえ、ギグリ様」サフォンは呼んだ。

「何?」

「奇跡の使えない天使は役立たずだって、そう思いますか?」

「いいえ。人間並みにできることはあると思うわね。それに、あなたにだって得意なことはある。人の気持ちを察するのが得意でしょう」

「そうなんでしょうか」

「そうよ。それは奇跡ではないかもしれないけど、とても役に立つ能力だと思うわね」

「よかった……」サフォンはそれだけ呟くと2回ほど瞬きをしてそのまま目を閉じてしまった。

「可愛い寝顔」ギグリはサフォンの髪を撫でながら言った。「幼い頃の私を思い出すわ。そうは思いませんか?」

 エヴァレットはとりあえず頷いておいた。なぜそんなことを訊かれるのかよくわからなかったが、考えてみれば確かにそうかもしれない。ギグリがベイロンに来てすぐの頃、フェアチャイルドが彼女を寝かしつけるのを横で眺めていたことがあった。

 ギグリは少しむすっとして立ち上がり、戸口へ歩いて明かりのスイッチに手をかけた。エヴァレットはサフォンの寝顔を確かめてから廊下に出た。


 まだいくらか書類仕事が残っている。近衛隊の再編について考えなければならない。それを終わらせてしまおうと思いながらシャワーを浴びていたが、部屋に戻ると後を追うようにギグリが入ってきた。

 彼女が部屋に入り込むのはフェアチャイルドが死んで2日目の夜以来だった。初日はとても他人といる気分ではなかったのだろう。2日目になるとエヴァレットに仕えるという契約を思い出したようだった。

「主とともに眠るのも私の役目です」それがギグリの論理だったが、エヴァレットは断った。

「私はあなたのことをフェアチャイルドから奪ったわけでもないし、受け継いだわけでもない。私が命じない限り自由にしてください。あなたが思っていたのは私ではなく彼なのですから」

 ギグリは何も言わず、ただ見下すような冷たい視線を向けてきた。

「好きなように罵ればいい。だが私にも貫かなければならないものがある」

 そしてギグリは引き下がった。エヴァレットは自分が正しいのか間違っているのかまるでわからなかった。その夜はほとんど眠れなかった。次の夜からギグリが大人しく自分の部屋で眠るようになったので、エヴァレットも諦めてそれについては考えないようにしていた。もっと考えるべきことがたくさんあったから、それが最善の選択のように思えた。

 そして2週間が経ち、ギグリが再び部屋に入ろうとしてきた。何かわけがあるのだろう。そう思って止めないでおいた。

 ギグリはラジエーターの上に丸まったバスタオルを広げてかけ直した。

「ボディソープを変えましたね」

「駄目ですか?」

「ただ余っていたから使っているのですか、それともリスペクトなのか」

「ああ、嫌なら嫌だって言えばいいじゃないですか。いいですよ。フェアチャイルドのおさがりはやめます」

 ギグリはなんとなくバスタオルの角を掴んだまま触っていた。

 エヴァレットはその時唐突に思い至った。さっきサフォンを見て「幼い頃の私を思い出す」と言ったのはそのままの意味だったのだ。ギグリはサフォンとエヴァレットの関係を見て昔の自分とフェアチャイルドの姿を重ねていたのだ。ひょっとすると自分はかなりひどいことをしていたのかもしれない。2日目の夜だって、ただ寂しくて来たのだとしたらどうだろう。素直に言わない彼女が悪いのか、それとも察しの悪い自分が悪いのか……。

 エヴァレットはバスタオルの角ごとギグリの手を取った。

「思ったことを思った通りに言わないギグリ様なんてギグリ様らしくありません。せめて普段話す時くらい汲みづらい敬語はやめてくれませんか」

 ギグリはエヴァレットの手を強く握り返した。細くて指の長い、そして少し冷たい手だった。

「ではお命じになりなさい。自分の意思で主に対する言葉遣いを乱すなど、道理に反します」

「すでに時々乱れてますが」

「いいえ、記憶にありません」

「つまり無意識にやってるんですよ」

「お命じになりなさい」

「あっ」

「早く」

「わかりましたよ。では、エヴァレット・クリュストが命じる。ギグリ、あなたはアーヴィング・フェアチャイルドの従者として私に接しなさい。ただし私の命令はフェアチャイルドの命そのものとします」

「仰せのままに。主の命によって誓います」ギグリは一度跪いて頭を下げた。そして立ち上がる時には例の冷たい目をしていた。

「死者の威を借りておいて都合のいい時だけ自分が出しゃばろうなんて、なんて酷な命令なのかしら」

「安心した。それでこそギグリ様ですよ」

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