キープ・アイズ・オン
闇業者の女と別れ、露店でサフォンにいちごのクレープを買って南西線のロープウェイで中層に向かった。手のひらくらいのちっちゃなクレープなのに、それでも7リブラ弱もするのだ。十分1食分の値段だ。さすが観光都市だ。
エヴァレットは窓の手摺に凭れて空模様を眺めていた。積雲が規則正しい魚の群れのように連なり、塔と風の干渉が生んだ渦によって縦に細長く引き延ばされた
「サフォン、見てごらん。ギグリ様だ」
サフォンはクレープを加えたまま窓に寄ってきて外を見上げた。
「わあ、大きな翼。すごいなあ」
「中層に降りてくるみたいだな。あの向きだと水生生物博か。部屋の件もあるし、行ってみるかい? 邪魔すると怒るかもしれないが」
「それはちょっと……」
「冗談。水生博なら息抜きだろう。大丈夫だよ」
ベイロンの中層には十数の博物施設が立ち並び、そのテーマは歴史、民俗、自然科学、美術など多岐にわたるのだが、中でも約半数を占める大勢力が生物系の施設だった。それは決してフェアチャイルドの嗜好などではなく、同様の学術島に共通して見られる傾向だった。旧文明の人間たちにとってフラム以前の生態系を可能な限り存続させることは文明の知を受け継ぐのと同じくらい重要な命題だったのだ。陸上で生きる動植物は人間と同じようにフラムの影響を受けるし、生き延びるためには「環境」が必要だった。つまり、身体にぴったりの空間があれば生きていけるわけではない。自力で生きていくための生活空間がなければ種に連綿と受け継がれていく生態を残すことはできない。
水生生物博物館は中層の北側にあり、魚類や水棲哺乳類、海藻類の飼育・栽培を行っていた。横のラインを強調した扇形の建物の前に広い池があって、アヤメやヨシなどの水辺の植物が茂り、魚や藻類を求めて水鳥たちが集まっていた。水面にはカモやカイツブリ、オオバンなどが浮かび、浜にはチドリやアジサシが歩き回っていた。
ギグリもそこにいた。池のほとりの芝生に座ってカモメと戯れ……というより翼の羽根をつつかれていた。カモメが羽根をつつくとギグリは翼を振り、それで抜け落ちた綿毛をカモメたちが拾って集めていた。巣材に使いたいのかもしれない。
エヴァレットとサフォンが近づいていくとカモメたちはサフォンのクレープに目をつけて勢いよく
ギグリはそれを見て雨のように細い
「人はフラムの上に陸をつくった。でも海も川も地表に置き去りになってしまった。フラムで一番割を食った鳥は水鳥なのよね。カモメやカモは都市環境でも生きられるけど、ウやカツオドリ、特に潜水する魚食の鳥たちは広い水面がなければ生きられない。他の鳥たちの個体減少数を基準としても絶滅といえるレベル」
「昔はもっとたくさんの鳥たちがいたんですね」
「こんなの比べ物にならないくらいね。こんなに窮屈にたくさんの種類の鳥たちが集まることだってなかったでしょう」
「アルピナだともう少し広々してますね」
「そう?」
「湖があって、冬になるとハクチョウやガンがたくさん飛んでくるんですけど」サフォンは焦ってクレープを食べきりながら言い、包み紙を開いて足元にいたカモメに差し出した。カモメは食べかすを探して地面をつつき、それから包み紙を咥えて食べられるものかどうか確かめた。ただの包み紙だということがわかると興味を失ったように離れていった。サフォンはそれを追いかけて捕まえられるかどうか確かめていた。
エヴァレットはギグリに目配せしてヨシ原の方へ呼んだ。ヨシの背が高いのでサフォンとの間に目隠しができる。細長い葉や茎に掴まったオオヨシキリが「ジャギジャギジャギ」とやかましく鳴いていた。
「まともな親なら12歳の娘を1人でベイロンに行かせるとは思えない――」
「本気で引き取るつもりじゃなかったのね。安心しました」ギグリはふっと息をついた。「アルピナでしょう? 電報を打っておきましたよ。天使の少女が1人で来てるって。本当にアルピナなら母親のところに届くでしょう」
「ああ、これからやろうと思っていたんですが」
「出る前にはっきり言ってくださればよかったのに」
「彼女から離れられなかったんです。でもよくわかりましたね」
「荷物にタグが付いてたでしょう。帰りのチケットも鞄に入ってましたよ」
「帰り?」
「1週間後。家出ではないってことでしょ」
「ふむ。意外と長いですね。ひとつ何か手伝わせてあげれば満足するかと思ったのですが、そういうわけにもいかないか」
「家事は得意だと言ってるんでしょう?」
「ええ」
「それならやらせてあげればいいじゃありませんか」
「まあそうですね。来週の土曜まで彼女を見守って、無事に送り返すのが我々の当面の責務です」
「かしこまりました」
「うん。よろしく頼みます」
シュナイダー体制への移行と引き継ぎはそれはそれで忙しいのだが、先の見通せない側面も多かった。旧領主の側近である我々はどうするべきなのか、どこへ向かうべきなのか、まだ漠然としたビジョンしか持ち合わせていなかった。おそらくそれを考えるには実際の生活が不安定すぎるのだ。短期的な問題と長期的な問題が絡み合って上手く身動きがとれていない、というのがエヴァレットの実感だった。
確かに捉え方によってはサフォンの存在は余計な問題なのかもしれない。でもそれは自分の未来に対して短いながらもしっかりとした指針を与えてくれるのではないか。エヴァレットは内心期待し、サフォンの献身を肯定的に受け止めていた。
エヴァレットとギグリはそのまま池の周りを1周してサフォンのところに戻った。サフォンは羽根を欲しがるカモメに襲われてカモメまみれになっていた。
「ギグリさまー!」サフォンは叫んでいたがヨシ原とオオヨシキリの鳴き声で遮られていたのだ。
ギグリは右手を出して10羽あまりのカモメを正確に狙い、小さなマレウス・ルクスで軽く弾き飛ばした。カモメの羽毛が押し倒されたサフォンの上にはらはらと舞っていた。
「あのね、渉禽が貴重だって話をしたからかもしれないけど、カモメやウミネコくらい遠慮することないのよ。向こうだって遠慮がないんだから」
「はい……」
弾き飛ばされたカモメたちは起き上がって飛び散った羽根を我先に回収し始めていた。まったく頑丈な連中だ。
「それで、部屋を探しに行ってたんでしょう?」
「ああ、そうです。ギグリ様、すごい部屋を見つけましたよ」サフォンは起き上がってポーチから間取りの資料を取り出した。闇業者の女に貰ったものだ。
ギグリはそれを広げて10秒ほどでざっと目を通した。
「結構広いわね。古くもないし、これで西側なの?」
「空港の近くですよ」
「ああ、もしかして騒音がひどいの?」
「すごいですよ。目の前を飛行機が通るんです」
「でもそれを見せるのね?」
「これ以上の部屋はなさそうなんです」
「いいんじゃない、その部屋でも」
「えっ」とサフォン。
「本気ですか」エヴァレットは驚いた。「あの音を聞いたらそうは思えませんよ」
「夜の12時以降は空軍機以外は飛ばないでしょう。朝は6時から。いずれにしても昼間は上にいるのだから。それとも、我慢ならないですか?」
おそらくギグリは城の肩身の狭い生活から抜け出せるなら住環境の質が下がるのは構わないと割り切っているのだろう。そんな言い方をされて引き下がれるわけがなかった。
「いいでしょう。もう一度話をしてきますよ」
食事はエヴァレットの部屋に集まってとることになっていた。7階では唯一寝室と食堂が仕切られていて3人か4人ならぎりぎり囲める程度のテーブルがついていたからだ。夕食のあとマグダがサフォンを連れ出して仕立てたばかりのメイド服をお披露目した。メインは胸の下からダブルの身頃になった黒いジャンパースカートで、スカートもマグダのものより心持ち長く、露出も少なく、飾りのないスラっとしたデザインだった。ブラウスも背中の両側にスリットが入っていて翼を抜くことができた。タイツとメリージェーンパンプスを履き、髪をまとめてカチューシャをつければ立派な小さなメイドさんの完成だった。
「いいわね。このあと食堂でシュナイダーと話すから、お茶とケーキをお願い。待っている間は裏でケーキを食べていていいわよ。マグダは裏で教えてあげて」
「はい、ギグリ様」とマグダ。ギグリの前ではあまり砕けた態度はとらなかった。
「はい、ギグリ様」とサフォンも真似して答えた。
19時、シュナイダーはエヴァレットとギグリの待つ城の食堂に入ってきた。翌日開催されるエアレース第4戦の打ち合わせのためだ。
ハイドリヒ・シュナイダー。打倒フェアチャイルドの旗手を務めた男、本職はエアレーサーだ。彼は領主の選挙を掲げ、各派の候補者たちもそれに呼応した。本投票は先日の日曜日、エアレース第3戦のその日に行われた。報道は熱戦を伝えたが、しかし実際の
世論の熱意を知ってなお彼自身はエアレースの運営に専念したいというのを口実に再選挙への参加を拒んでいたが、実際のところ日がな屋内に閉じ込められる生活は生粋のパイロットには辛いだろう。会議の合間に廊下でシワシワになって溜息をついている彼を見れば明らかだった。
本題は30分ほどで話がついた。会場が移るだけで段取りは1戦1戦さほど変わらない。すでに決まっているシナリオの確認に過ぎなかった。
「でも、グライヴィッツの妹があなたのチームで続投してきちんと成績を上げているのは驚きね。どこから連れてきたのかわからないけど、ヤクシュというあの新しいパートナーも悪くない。平凡だけれど、トップレーサーの中で平凡だものね。いい実力をしているわ」ギグリが紅茶を飲みながら言った。世間話だ。
「うちのチームは割と層が厚いんだよ。前は姉妹がナンバー2だったからそうは思えなかったかもしれないが、あの姉妹は本当に甲乙つけがたい腕前でね。ミア(妹)は時々ループが崩れるんだが、明日はリズキルヒェンだろう。フラットなコースだから案外優勝が狙えるかもしれない」
「あの小娘に盾を渡すのは癪だわ」
シュナイダーは笑った。「小娘といったって歳上じゃないか」
「あんなチンチクリン、歳上でも小娘よ」
シュナイダーはさらに笑った。
「でも、こんな状況でもきっちり12チームで続けられるのは本当にありがたいわね。第3戦で広告を引いたスポンサーも今回はかなり戻ってきているし」
「しかし君も大変なんだろう。クイーン連からは下からつつかれているし、かといって客のことを考えると簡単に退くわけにもいかない、というのは先週聞いたが、君自身はやめたいと思うのか」
「クイーン・オブ・クイーンズの地位にあるのがプレッシャーなのかという意味なら、そんなことは全然ないわね。チヤホヤされて、ヨイショされて、そういうのは気分がいいわ。だからね、グライヴィッツの小娘みたいなのがいると癪だというのはそこなのよ。気分よくやっていられないじゃない。ただのクイーンが人気で勝負しろと言ってるならわかるわよ。ただあの子の場合、言ってみればリングの外から散々罵声を浴びせてくるわけで、私としても組み伏せようがないのよ。私がレーサーをやれるかといえば、そんなことはないのだし、彼女の気が変わってクイーンでもやるというなら話は違うのだろうけど」
「……なんだか、すまないな。明日が終わったらちょっと言っておくよ」
「お構いなく。あなたはもうチームの人間ではないのだから、そんなことをしたって互いに懸念材料を増やすだけだわ。あれが彼女のやり方なのだから、貫かせてあげればいいのよ」
シュナイダーが紅茶を飲み切った。すでにケーキは食べ切っている。そろそろ帰るらしい。
「サフォン」エヴァレットは裏手に声をかけた。
サフォンは厨房の扉から飛び出してきて口の周りの生クリームを指で拭いながら直立した。
「マグダを呼んできてくれるかな。焦らなくていいから」
「はい」サフォンはそう答えてまた厨房の扉に飛び込んだ。
「健気だな」シュナイダーはにこにこしながらサフォンを見ていた。
「そういえばあなたの娘さんもあのくらいでしたか」とエヴァレット。
「ああ、ちょうど同じくらいかな」
「占領軍の方からちょっとした連絡があったので伝えておこうと思いまして」
マグダが出てきたのでエヴァレットは手招きして席の横まで呼んだ。
「ネーブルハイムとアイゼンの件で連絡がありました。カイ・エバートならびにクローディアは無事、軽傷」
「ああ、よかった」マグダが言った。
「その他の被害状況については機密事項のため省略、と」
「被害があった時の書き方だな。新兵に打たせたかな」シュナイダーはそう言って席を立った。「我々の知人に大きなケガがなくてよかった。私も安心したよ。明日は8時半にエタニティを出すから、空港に」
エヴァレットは部屋の扉を開け、廊下の角に消えていくシュナイダーを見送った。
さて、今日はまだもう一仕事残っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます