ハウジング・プロブレム

 エヴァレットは脇のホルダーに拳銃と携杖を差し、ダウンコートを着て部屋を出た。サフォンはエレベーターホールでケージの扉を開けて待っていた。中へ入るとボタンを押すまでもなく痺れを切らしたように扉が閉じ、鈍い加速度がかかって降下を始めた。

「でも、本当に出ていかなければならないんでしょうか」サフォンは訊いた。

「ここはあくまで領主の城だよ。主を失った我々が去り行くのは至極まっとうなことだと思うが」

「私はクリュスト様にだって十二分に領主を継ぐ器だと思うんです」

「そう言ってもらえるとありがたい」

「お世辞じゃありません。私が直接知っているのはあの事件の時だけですけど、それからテレビや新聞で活躍は見てきましたから」

 そんなもの、メディアの方が勝手にヒーローのイメージを作り出しただけさ。エヴァレットはそう思ったが少女の夢を砕く不甲斐ない男にはなりたくなかった。

 エヴァレットは耳抜きをした。中層以上の屋内はある程度与圧されているが、それでも最下層と全く同じ気圧というわけにはいかない。

「それに、領主の城ですらないのかもしれない。この城は旧文明の建築家がモダニスム以前の建築を伝えるためにわざわざ甲板の面積を削ってまでこしらえたものなんだ。石造りの荘重な建築は荷重制限のある塔の上ではもはやタブーだ。消えゆく運命にあった。彼はその潮流に竿を立てて逆らおうとしたんだ。それこそ知の遺産だよ。中層の博物館と同じように人々に開かれるべきなのかもしれない。シュナイダーはまだ明言していないが、政府機能を中上層以下に下ろそうとしているのは薄々感じられる」

 中上層を過ぎると外壁が縦長の窓に変わり、早春の眩しい日差しが飛び込んできた。

「城を住処すみかと決めたのはフェアチャイルドだ。我々は彼が始めたことを当たり前のように思い込んでいるだけなのかもしれない」

「クリュスト様はこの城が好きなのですね」

「ああ、そうらしい」


 中層に着いて扉が開いた。チェックのワンピースを着た女の子が待っていた。博物館で働いている子だ。見覚えがあった。彼女がいたのでケージが焦っていたのだろう。エレベーターは1ヶ所に1基というわけではないが、ほとんどは中下層と最下層の行き来に追われていて中層まで上がってこない。

「さて、どの方角へ向かうのがいいだろう?」エヴァレットはサフォンに訊いた。

「一番戸数が多いのは東側ですね。北から東側にかけてなら、家賃も安いし、穴場の物件があるかもしれない」

 塔の北側は日当たりが悪いし、東側は西日が弱く、偏西風のせいでどうしても西側の生活排気を被ることになる。住環境を追及する人間たちは南西を目指す傾向があった。

「確かに。しかしベイロンは今衛星島からの低所得者移民に沸いている。空き家も少なくなっているし、家賃だって相場が安いとは言えなくなっている」

「じゃあ、あえての西側ですか?」

「いや、穴場というのはその通りだ。甲板局に登録されていない物件も多いだろうし、人が動いているからタイミングによっては当たりがあるかもしれない」

 エヴァレットはサフォンを先導して北東に向かって歩き出した。ベイロンには最下層から中層にかけて甲板の端をつなぐロープウェイの路線が6本走っている。中層に博物施設がある都合、格差を生まないという建前でエレベーターを含め上下の移動手段は全て無料になっていた。チケットを買わずに乗ることができるわけだ。

 バスのような大型のゴンドラなので嵐でもなければほとんど揺れることはないが、駅を抜けていきなり眼下に500mの高度差が生まれる感覚は慣れていなければ股が竦むだろう。

「中下層で降りますか?」サフォンが景色を見ながら訊いた。

「そうだな。一応見ておこう」

 中下層の中心部にはベイロンの行政機関や学校その他公共施設が集中しており、周辺部の高層住宅地はそこで働く人々、あるいは中層の博物施設で働く人々のベッドタウンだった。中下層には歓楽街はないのでいくら高所得でも風俗に絡む人間は中下層には上がってこない。かつての学園島を娯楽島に作り替えたフェアチャイルドの改革が階層ごとの微妙な棲み分けになって表れていた。

 中下層の甲板半径は約1キロ。中心部には広い敷地を備えた大きな建物が並び、外縁部へ向かうにしたがって建物の間隔は狭く、高さは高くなっていく。一番高い所で30階といったところだろう。飛行場のない中下層には建物の高さ制限もない。むしろすり鉢状の俯瞰形をとるのがベイロンの中下層の特徴だった。北側を見るとそのデコボコした傾斜に沿って塔の影がくっきりと伸びていた。街並みがまるで手の上に乗るくらいのミニチュアのように見えてくる。近づいていけば次第に拡大されて巨大な建物の群れに変わってくるのだが、不思議なものだ。

「あ、見つけましたよ。あのマンション、私たちが前に住んでいたところです」サフォンが窓に指を当てて言った。「化粧水の看板が立ったやつ」

 確かに屋根の上に広告看板が立っていた。

「なかなか高い。家賃はどれくらいだった?」

「1400か1500リブラだったと思います。ダイニングと他に部屋がもう1つ」

 それはエヴァレットの感覚よりもひと回り高い額だった。日当たりの悪い塔の北側だが、設備の整った家だったのだろう。


 ゴンドラは中下層の駅に止まり、客の乗り降りが済むと空転させていたローラーを噛ませてまた下層に向かって走っていった。

 甲板上の道路は中下層も最下層も放射状・環状に規則正しく整備されている。特に中流以下の住民には自家用車という観念がないので、専らトラックとバスが走るだけの車道は片側2車線とさほど幅はなく、歩道が広く造られていた。その広さも日光を取り入れるための構造で、通りには高層マンションの影が落ちていたが、向かいの棟からの反射光があるおかげでさほど暗さは感じなかった。

「いい風が入りますね」サフォンはそう言って翼を広げた。またいくらか綿毛が舞い、すぐ風に吹かれて流れ去っていった。

 西から吹いてくる風がビルの間に入ってジェット効果で強められるのだ。とりわけ春は西風も強く吹く。風速は10m程度にはなるだろう。

 ふと突風が吹き、サフォンが煽られて5mほど後ろに着地した。翼を広げていたせいだ。彼女はちょっとゾッとした顔をした。

 エヴァレットは手を差し出した。「浮かんでいても構わない。天使は歩くよりその方が楽だろう」

「大丈夫です」

「遠慮するな」

 サフォンは足早に歩いてきて顔を赤らめて両手でエヴァレットの手を握った。今度はぴんと翼を広げる。すると彼女の体はふわりと浮き上がった。エヴァレットは肩の上に手を上げて歩き始めた。まるで凧か風船を引いているみたいだった。サフォンもある程度羽ばたいてくれているので重さも感じない。

 

 不動産事務所は200mほど行ったところにあったが、一面ガラスの中にスクリーンが下ろされていて人気がなかった。表に貼り出されているはずの物件情報もまるで見当たらない。

「臨時休業って書いてあります」サフォンは扉の前に立って貼り紙を見ていた。

「売る家がないんだろう」

「公営じゃないんですか」

「そうなんだが、経営は店舗に任せているんだ。商売にならないなら閉めても仕方ない。闇業者を当たろう」

「はい。……って、いいんですか?」

「この際仕方がないさ。買ってから登記し直せばいい」

 ベイロンの住宅は基本的に甲板局が管理していて、解体や新築には申請が必要だった。各所の不動産事務局の元締めも甲板局だ。ただ小規模の改装となるとどうしても管理から漏れることがあって、特に店舗や倉庫といった事業所の改装で設けられた住宅は私設のブローカー(闇業者)によって取引されるのが常だった。

 取り締まるのは簡単だが、そうすると事業所の空き家が荒廃していくし、元の所有者を追う手間もかかる。甲板局の負担を考えると闇業者を生かしておく方が合理的だというのが旧政府の判断だった。その関係でエヴァレットも闇業者の所在は数件頭に入れていた。

 その1つが路地裏の外階段を上った3階にある事務所だった。扉の横にナントカハウジングとかいう曖昧な名前の小さな看板がかかっていた。

 扉をノックするとワイシャツを着た若い男が顔を出して「何のご用でしょう?」と訊いたが、顔を上げてギョッとした。

「ゲッ、エヴァレット・クリュスト」

「待て、別にガサ入れに来たわけじゃない」

 男は力いっぱい扉を閉めようとしたが、エヴァレットは靴の爪先を挟んで力ずくでこじ開けた。

「ただの客だよ。部屋を探しにきただけだ」

「ならなんで無理やり入ってこようとするんだ」

「客だからな。営業中だろう?」


 男はドアノブを握りすぎて真っ赤になった手のひらにフーフー息を吹きながら2人を中へ通した。デスクが3つあるだけの小さな事務所だった。不動産屋だとわかるような間取りの類はひとつも表に出ていない。

「部屋を探してると言ったか。城から出るのかい?」

「ああ。そのつもりだ」

「あんたも大変だな。でも、残念だが第2層(中下層)じゃ大した物件は入ってないな。一間の屋根裏か地下室くらいだ」

「狭いのか」

「狭い。1人がせいぜいだな。あんた1人か」

「いや、2人か3人」

「じゃあ無理だな。プライベートがなくてもいいなら別だが」

「それは困る」

「第1層(最下層)へ行きなよ。俺もあんたに恩を売っておきたいから、仲間を紹介してやる。ほんとに仕事じゃないんだな」

「ああ。私は信用には背かない」

 男はデスクに座って電話で2分ほど話し、「龍の噴水だ。あんたらは目立つから向こうから話しかけてくれるさ」

「ああ、わかった」

 エヴァレットは事務所を出て階段を下りた。サフォンは3階の欄干から飛び出して先に下りていた。

「龍の噴水って、東街区公園の」サフォンが訊いた。

「ああ」

「小さい時よく行ってたので懐かしいです」

 龍の噴水は最下層東端の公園の中にある。ロープウェイの東線で下りればすぐだ。中下層の駅まで路地から東向きの目抜き通って1キロほど。今度は追い風だ。

「君は飛べばすぐだな」

「一緒に行きますよ」サフォンはそう言って翼を広げ、ぐいぐいとエヴァレットの背中を押した。翼が帆になって体を押しているのだ。一歩一歩が大きくなって半分飛んでいるような気分だった。

 サフォンは次第に腕が疲れてきたらしく肘をつけて背中を押した。エヴァレットは少し背中を丸め、サフォンがつんのめったところで彼女の脚を抱えた。いわゆるおんぶ・・・だ。

「きゃっ」

「この方が合理的だ」

「これじゃ具合が悪いみたいじゃないですか」サフォンはエヴァレットの首に腕を回しながら言った。

「じゃあ、肩車の方がいいか?」

 サフォンは人目を気にした。真昼間のベイロンはもともとさほど人出がない。土曜でも人とすれ違うのは稀だった。

「……はい」

 エヴァレットはサフォンの脇の下を抱え上げ、彼女が肩の上に足を抜くのを待って足首をそっと掴んだ。細い足首だった。サフォンの翼が風を受けると肩が前に引っ張られ、かなり後傾姿勢をとらないとうまくバランスが取れなかった。まるで坂道を下っているみたいだ。歩き方を工夫しているうちに駅に着いてしまった。


 龍の噴水といっても噴き出す水が龍の形になっているわけではなくて、台座の方が龍の彫刻なのだ。胴が蛇のように長く、翼のない龍のブロンズ像だった。

 池の縁になっている擁壁に腰を下ろして待っていると、黒いスーツを着たおかっぱの女が歩いてきて挨拶代わりに手を挙げ、エヴァレットの横に座った。

「あなたの要望に合う物件はおそらく1件。7階、4LDK、バスタブ付き、個室トイレ、インフラ完備、セントラルヒーティング」彼女は声も表情もいたって無感情だった。

「悪くない」

「期待しないで。問題はすごくボロいってこと。他にもあるけど、見た方が早い。すぐそこだから」

「頼む」

 女は道を渡ってすぐのブロックの2軒目のビルに入った。モーターとワイヤーで手作りしたような危なっかしいエレベーターで上っていくと床の抜けそうな部屋に行きついた。水回りの壁紙はまるで心霊現象のように端から真っ黒にカビていた。サフォンが蛇口を捻ると水と一緒にコオロギたちが飛び出し、コオロギが飛び込んだ穴からアシダカグモが出てきてコオロギをワシっと掴みむしゃむしゃと食べ始めた。

 サフォンはそれを見て真っ青になってエヴァレットに飛びついた。

「私この家ムリです」

「さすがにボロいな。これじゃギグリ様も嫌がるぞ。ちなみに家賃は」

「1950リブラ」

「高いな……」

「ほとんど予約待ちのような状況だからね。ここも昨日空いたばかり」

「クモが嫌になったんだろう……」

「残念。お気に召さないようね。私たちが北東側ノルドオストで紹介できるのはここくらいだけど」

「北東で、といったか」

「ええ。こっち側・・・・でお探しなんでしょ?」

「まあそうなんだが、他のエリアでも、いい物件があるなら構わない」

「それなら確か西側ヴェストにも似た物件がひとつ……」

「見せてくれないか」


 女はトラムの駅で電話をかけていた。おそらく担当事務所に連絡して部屋の鍵を開けてもらっているのだろう。闇業者の横のコネもすごいものだ。

 半径約2㎞に及ぶベイロンの最下層にはトラムが走っている。中心部と外縁部を結ぶ貫通線と外縁部を走る外環線があり、貫通線は行き先によって複雑な乗り入れがあるのだが、外環線の方は12㎞の外周を単調にぐるぐると走っているだけだった。

 女は内回り(時計回り)のトラムに乗った。貫通線に比べると外環線の車内は空いていて、ベンチシートに3人並んで座ることができた。業者の女はやはり無口だった。

「エヴァレット・クリュストを前にしても特に何も感じないんですね」サフォンは訊いた。「知り合いじゃないですよね?」

「他のお客さんならもう少し接客するわ」女は銀縁の眼鏡をくいっと持ち上げて答えた。「でもあなたは政府の人間。かといってもう領主の側近でもない。逆らいたくはないけど、かといって変に関わり合って厄介事に巻き込まれるのもご免」

「現実的だな」エヴァレットは呟いた。

 ベイロンの最下層には南辺と西辺に空港兼空軍基地の滑走路が走っている。空港に近づくにしたがって道沿いの建物は背が低くなっていった。上を飛行機が飛ぶわけではないが、滑走路の近くに高い建物があると建物のせいで生まれた乱流が飛行機を巻き込むことがある。揺れや失速の原因になるのだ。周りに高い建物を造ってはいけないというのが空港のセオリーだった。

 女は空港前のひとつ手前の駅で降りた。やはり集合住宅だが高所得者の多い西側だけあってファサードは立派で、エレベーターもほとんど騒音や揺れのない快適なものだった。同じように6階まで上がり、部屋に入った。やや手入れの行き届いていない感じはあるが、床や壁の痛みもさほどのものではない。家具や調度のセンスもかなりハイソだった。なぜこんな物件が空いているのだろうか。

「かなりいいじゃないか。家賃は」

「1800リブラ。ちょうど」

「1800? さっきの部屋より安いのか。どういうことなんだ」

「昔は倍以上取ってたという話だけど、何年か前に南滑走路を伸ばす工事があったでしょう?」

 女はそう言いながら窓を開けた。

「それで旅客機のルートが変わって、10分か20……」

 女はその先も喋っていたが、窓から入る巨大な騒音のせいで何も聞き取れなかった。だが何を言いたいのかははっきり理解することができた。

 飛行機の騒音が凄まじいのだ。とても調度に見合う生活水準は保てない。そういうことだろう。

 窓の明かりが大きな影で遮られた。エヴァレットが外を覗き込むと、通り過ぎた旅客機が滑走路に着陸してタイヤから白い煙を上げるところだった。

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