11色のクレヨン

 クレヨン11色セット。

 両手に乗るほどの箱の中には黒のクレヨンは入っていなかった。

 キアラがネロを描こうとすると茶色や紫色をぐりぐりと塗り重ねるしかなかった。べったりと顔料の乗った絵を見て、「こんなふうにたくさんの色を混ぜてはいけませんよ」と幼稚園の先生は言った。

 他の天使たちの絵は色数も少なく、余白も多く、全体的に淡白だった。雲やハクチョウを描いた絵に金紙や銀紙で折ったメダルが貼られていった。

 私の絵の方が本物みたいに描けているのに、どうして?


…………


 サンバレノには20基あまりの塔が互いにわずか数キロの間隔を空けて密集して立っていた。他の地域では60km程度を基準としているらしいことを考えれば、「林立」と表現しても過言ではなかった。天使たちは自分の翼でその島々の間を自在に飛び回って生活していた。

 キアラが生まれた牧場もその中の1基だった。牧場といっても草原が広がっているわけでもなければ、そもそも広大な平面さえありはしなかった。白亜のコンクリート製の箱を積み上げた、いわば巨大なキャットタワーのような代物だった。

 グリフォンたちはその周りを自由に駆け回りながら育ち、やがて十分に成熟すると軍に引き取られていった。

 あまり寒さ耐性の高くないグリフォンにとって高度7000m以上は辛い環境であり、10000mまで伸びる塔の上層は他の聖獣のためのスペースや倉庫として使っていた。キアラがネロを隠したのはその7000mを少し超えた倉庫の中で、藁などを敷き詰めて少しでも寒さをしのげるように手入れしていた。朝と夕方にごはんを持ってきて、暗くなってから外で遊ばせるのがキアラの日課だった。


 ある日ペトラルカが牧場の視察にやってきた。大勢の天使たちが「桟橋」に降りてきたので、キアラも何かイベントがあるのだと思ってネロの部屋から降りていった。

 彼女が強大な奇跡を操ることができるのは一目でわかった。大勢の従者、高位の聖職者を示す金縁の白いローブ。それだけで高位の天使だということは明らかだった。そしてしかも彼女は若かった。20にも届いているとは思えない。もはやあどけないくらいのものだった。それは彼女が経験や功績でその地位を手にしたわけではないということを示していた。

 ペトラルカは数人の天使を従えながらグリフォンの厩舎に入って1頭1頭の毛並みや嘴の色つやを確かめた。グリフォン白や鳶色のたちは恭しく彼女の手に嘴を預けた。

「勇ましくも恭順な聖獣たち。素晴らしいわ」ペトラルカは言った。

 上下関係に年齢は関係ない。母は深く頭を下げた。

「黒いグリフォンがいると聞いたのだけど、本当かしら?」ペトラルカは訊いた。そして母の後ろに立っていたキアラに近づき、腰を屈めて手を伸ばした。

 キアラは思わず目を瞑った。首元になにか温かいものが近づき、そして遠のいていった。

 キアラが目を開けると、ペトラルカの右手に小さな黒い綿毛が抓まれていた。ネロのものだ。襟にくっついていたので自分では見えなかったのだ。

「その子を絵に描いたというのは、あなたね?」

 キアラは言い逃れできなかった。どんな酷い仕打ちを受けるのだろう。黒い聖獣は不吉の象徴として疎まれている、という話を母から聞かされていたキアラは恐れた。でも逆らうことはできない。大人しくネロの部屋に案内するしかなかった。

 ペトラルカは部屋の前でお付きを下がらせ、1人でネロの部屋に入った。

 当時まだ体長5mほどの幼獣だったネロは怯えたように頭を低くして全身の羽根をぺったりと体に撫でつけた。

 ペトラルカはネロの反応など気にかける様子もなく堂々と部屋の中を進んでいった。そしてネロの目の前に立って呟いた言葉はキアラの予想とは全然違うものだった。

「美しいわ。なんて艶のある黒なのかしら」

 キアラは冗談だと思った。

「触れてもいい?」

「……あっ、はい」呆気に取られていたキアラは反応が遅れた。

 ペトラルカはネロに手を伸ばし、ネロも少し警戒しながら彼女の手の匂いを嗅ぎ、それでも下のグリフォンたちと同じように嘴をつけた。そして感触を確かめるようにすりすりと頭を動かした。額の羽根が柔らかく膨らんだ。

「よしよし、頭がいいか。おまえは素直だな」ペトラルカはネロの羽根の間に指を入れてわしわしと撫でた。

 それは確かに動物の扱いに慣れた者の手つきだったし、ネロも気持ちよさそうだった。キアラは安堵した。彼女はネロを捕えに来たわけではないようだ。

「あなたは黒が好きなのね?」ペトラルカはネロに舐められながら訊いた。

「でも、黒は不吉な色だと言われました」

「誰がそう言ったのかしら」

「先生です」

「そうね。とてもとても不吉な色だわ」

「では、どうして美しいなんて……」

「もし黒が好きなら、クルキアトルになりなさい。クルキアトルだけが黒を身につけらることを許されているのだから」

 ペトラルカはキアラの目の前に立って目線を合わせた。空色の目だった。髪と翼の色はキアラに似ていたが、より淡く、少し青みが差した長い髪だった。

「……なぜ?」キアラは訊き返した。

「白は純潔と正義の色。でもそれゆえに汚されやすい。外の世界に出て多くの色と混じらなければならないクルキアトルは決して何色にも染まらない黒を身につけるのよ」

「あなたも黒が好きなの?」

「どうかしら。でも、もし好きだったとしても、他の天使には言わないと思うわ。それは変なことだって、みんなが信じているもの」

「あなたがネロは悪い子じゃないって言ったら、みんなもそう思わない?」

「それは過信だわ。私にだって材料は必要よ」

「材料?」

「あなたが功績を立てなさい。この子を駆って、何か偉業をなすの。そうすればみんなも信じないわけにはいかないでしょう?」


 キアラが13歳で教会に入った時、ペトラルカは個人的に自室に呼んでキアラのその意志を褒めた。

「あなたはきっといいクルキアトルになれる。頑張りなさい」ペトラルカはキアラの額に手を翳して祝福を贈った。

 キアラは僧兵部門で剣と銃器の扱いを学んだ。5年かけてクルキアトルの称号を手にするまで、黒い絵を描くことも、黒い服を着ることもなかった。


―――――


 そう、懐かしい夢を見ていたようだ。カイに起こされた時はそれどころじゃなかったけど、巡航ミサイルの迎撃を終えたところでちょっと一息つくことができて、それで思い出したのだ。

 キアラは大ディスプレイの戦術マップを見上げた。敵は戦闘機が8、輸送機が2、人間サイズのユニットが3。人間サイズはクローディアとあとの2つはジェットテールだろう。昨日の夜襲でも2機出してきた。天使より鈍いし足も短いが、単純なスピードとある程度の小回りは脅威になる。

 燃料切れを待つか?

 いや、それではネロがかわいそうだ。できれば戦闘機を先に追い払ってクローディアとの戦闘に集中したい。

 キアラは火器管制システムの自動迎撃をオンにしてカイを格納庫に連れていき、縄できつく腕を縛ってできるだけ重そうなもの(エンジン用の架台だろうか?)に括りつけた。少し奥まっているが、格納庫なら外から見える。囮としては申し分ない。

「こんなことしなくたって、べつに逃げないよ」カイは言った。

「逃げなくても、勝手に魔術砲使われたりなんかしたら困るでしょ」

「……それもそうか」

「いや、それくらいは否定しなさいよ」

 キアラは一度ネロを呼んだ。

 ネロは誘導路の脇から甲板によじ登ってきておすわりした。息が上がっていた。キアラはネロの頬をたくさん撫でた。ネロは額の羽根を膨らませ、気持ちよさそうに目を細めた。

「もう少し頑張ってね。疲れたら隠れていいから」

 ネロを送り出し、格納庫の開口部に架かる梁の上で待っていると、期待通りクローディアが姿を現した。

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