グラト・アーバイン

 タールベルグとベイロンで久しぶりに塔の上の生活をしていると、自分が他の人たちより旧文明の知識に長けているのだと感じることが何度かあった。

「ねえ、アシカって、なに?」ある人は訊いた。

「アシカっていうのはね、海に棲む哺乳類で、手足がヒレになっていて、タコやイカを捕まえて食べるんだよ」クローディアは答えた。

 アシカくらいならさすがに図鑑やアーカイブに載っているはずだ。だからそれを訊いてきた人間はかなり知識欲の薄いタイプだったのだろう。

 でもクローディアがそれを知っていたのは現代の図鑑や塔のアーカイブを見たからではなかった。地上で見たのだ。もちろん本物は野生では絶滅しているから、情報を、ということだけど。

 地上に広がる街の建物はどれも大きかった。きっとフラムが世界を覆う以前には塔の上とは比べ物にならないほどの人口を抱えていて、そうした建物の1棟1棟にもおびただしい数の人間たちが出入りしていたのだ。それを収容するためのその規模だと思えた。例えば、図書館のエントランスなんて20mくらい上空に庇がついていた。あんなので雨が防げるんだろうか。

 広大な図書館の中には旧文明の書籍が大量に詰め込まれていた。身を隠しながら時間を潰すには一番いい空間だった。クローディアはそうして何年もの間地上のかつての大都市を渡りながら、大きな図書館を探しては中を探検していたのだった。グラト・アーバインの名を覚えていたのもそうして彼の本を何冊か読んだことがあったからだろう。


「そうか、アーバイン、聞いたことがあると思っていたけど、思い出したわ」クローディアは言った。

 キアラの夜襲の翌朝、クローディアは下層飛行場の管制室でヴィカとメルダースと話し合っていた。ガラス張りの部屋の一角が簡易的な会議スペースになっていて、多少は声を気にせずに話をすることができた。クローディアは2時間ほど寝落ちしていたので目が覚めていたが、あとの2人はかなり眠そうだった。というかヴィカに至ってはソファの背凭れに寄りかかって首が折れたみたいな恰好で居眠りしていた。

「どこでそれを?」メルダースが訊いた。

「図書館。地上の都市の廃墟の」

「なるほど」

「でも、それがどういった人物だったのか、詳しいことは何も。あなたは知っているの?」

「アーバインはゲノム工学の権化でした。研究室に1000人以上の学者を抱えていたといいます。それこそ一個の企業のような規模で研究と実験を繰り返していたのです。決してグリフォンだけが彼の作り出したキメラではない」

「キメラ、というのは自然種の生物を生まれる前の段階でかけ合わせて全く別の生き物に変化させたものでしょ?」

「そうです。生殖細胞の段階で遺伝子操作を行って、母胎とは異なる形質を持った生き物として生み出すのです。いや、そもそも母胎を必要としたのかもわかりませんが」

「グリフォンを生み出したのはフラムの発生後でしょうね」

「フラム耐性があることを考えると、そう捉えるのが妥当でしょう。それ以前に培ってきたゲノム操作の技術を応用して、フラムスフィアに覆われた新しい世界への適応を試そうとした。もちろんフラムに耐えるだけならあんなゲテモノのような容姿は必要ない。伝説に範をとったあの姿、彼自身、世界の崩壊に対して何か迷信的な受け止め方をして精神を持たせていたのではないかと思います」

「奇跡もその迷信の一部かしら」

「そうでしょう。ただ、奇跡がゲノム工学と無関係だとも言い切れません。アーバインの一派はフラムへの適応、いわば生物の積極的な進化によって人類を延命しようとしていたのです。人間が奇跡を手に入れれば、何の道具も要することなく、生まれたままの状態であらゆる機能を扱うことができる。それを進化と位置づけるのであれば、考え方の根っこはアーバインと同じです」

「人間個人の力を拡大しようというのは魔術も同じじゃない?」

「今は魔術と呼ばれていますが、それは道具の利便性を追求した結果に過ぎません。魔素というのはあくまで人体にとって外的なものなのです。道具であり、あるいは改造です。アーバインの一派はそういった『外的な処置』を嫌ったのです」

「ゲノム技術も外的なものでしょう」

「そうです。それが彼らの矛盾であり限界だったのです。ただ旧文明の末期に2つの考え方が存在していたのもまた確かです。一方はアーバインのように人間そのものを変えることによって新しい環境に適応していこうとした考え方。そしてもう一方は環境を制御することによりかつての世界を取り戻そうとした考え方です」

「新しい世界のための変化を、人体の内に求めるか、それとも外に求めるか」

「ええ。その通り。塔の技術などは後者による発想でしょう。ただ、いずれの派閥にとっても時間は必要だった」

「『空への退避』に関しては両者利害が一致していた」

「利害というほど対立関係にあったのかどうか……」

「メルダースさん、あなたは旧文明に詳しいのね。それともエトルキアの人とまともに話したことがなかったから、知らなかっただけなのか」

「いいえ、私も詳しい方だと思います。妻の方が上手うわてですが」

「妻?」

「旧文明、というか地上のことを調べるのが好きなんですよ。私はほとんど話を聞かされているだけです。ああ、この島にはいません。今はレゼにいるはずです」

「……あなたの奥さん、天使なの?」

 メルダースは少し躊躇ためらってから頷いた

「ええ、そういうことになります」

「なるほど」クローディアは外を見た。朝の白い光が大きな窓から差し込んでいた。「なるほど。そういうこと」

「私がエンジェフィリストをやっているのは必然ですよ」

「レゼの下にもさぞかし大きな都市があったのね」

「ええ。私は降りたことはありませんが。たまに雲が晴れた時の景色は壮観ですよ」

 メルダースが言い終わらないうちに管制員が1人会議ブースに入ってきた。

「メルダース少将、通信室から内線です」

「ああ、ありがとう」

 管制員が下がるのに合わせてメルダースは電話機に近い席に座り直して受話器を取った。

「ああ……うん、そうか……わかった、それで……」

 キアラの情報が入ったのだろうか。

 クローディアはソファを立って窓の下に腰掛けた。出窓のようになっていて膝高にちょうどいい出っ張りがついていた。管制室は飛行場の1つ上の甲板の床下に取り付いているので飛行場全体をよく見渡すことができた。

 飛行場は静かだった。キアラの襲撃で被害があったのは中層と上層の滑走路だけだったし、発着機もまだなかった。

 あのあと、ヴィカと一緒に要塞まで戻り、シャワーを浴びながらどうすればカイを救出できるか考えた。天使1人でできることはたかが知れていたし、現実的ではなかった。それで改めてヴィカに相談すると、空軍も準備をしているから今は待つしかない、と答えはそれだけだった。何もできないのはわかっていた。それでも眠る気にはなれなくてこの部屋でうとうとしていたのだ。

 自分にとってカイとは何なのだろう。

 2人の間にあるつながりは償いと責任だ。でもきっとそれだけじゃない。自分はもっと好意的な感情を彼に抱いている。彼の親しみは心地がいいし、人として失いたくない。みすみす死なせてはきっと後悔することになる……。


 メルダースが受話器を置いた。クローディアは思わず振り返った。

「クローディア、緋刃の天使レッド・レーザーはアイゼンに戻ったそうです」

 メルダースはそう言ってクローディアの顔色を見守った。そして微笑した。

「あなたが求めているのは天使の情報ではなかったようですね。でも安心なさい。カイも無事のようです。格納庫の前に立っているのを偵察機の超望遠カメラが捉えました」

 クローディアは目を瞑って深く息をついた。肺の奥から無限に空気が湧き出してくるみたいな長い息だった。

「立っている?」

「比較的自由を与えられているようです。生身の人間には廃墟の島から逃げ出すことなどできない。そういうことでしょう」

「そう、よかった。本当に」

 クローディアは窓に頭を預けた。そうすると急に眠気が湧いてきた。五感が淀み、世界の認識が曖昧になっていった。安心したせいだ。やっぱり自分はカイのことが心配で仕方なかったのだ。

  

 しかしクローディアはまだ眠れなかった。

 にわかに管制室が騒がしくなった。管制官が慌ただしくマイクを入れ始めた。見下ろしたけど格納庫にはまだ動きがない。離陸ではなく、飛行機が降りてくるようだ。どちらからだろう、と窓に顔をつけて滑走路の延長線を眺めていると、西の空に機影が見えてきた。

 どうやらアネモスのようだ。ただ、キュッとタイヤから白煙を上げて滑走路に降り立つ姿を見て驚いた。

 そのアネモスは全身が真っ黒に塗られていた。普通のアネモスは空の背景に馴染む薄い灰色をしているものだ。それがどういうことか真っ黒だった。

 先頭のアネモスは滑走路を広々と使って端から誘導路を折り返して格納庫に向かって走ってきつつあった。

「なに、あれ……」

「ブラック・マーダー。グリフォン狩り専門の部隊だよ」ヴィカがいつの間にか目を覚まして横で言った。「中隊長機を見てみな。尾翼のマークが青いのは第4中隊だ」

「ブラック・マーダー」

「マーダーというのはカラスの群れという意味らしい。黒いのは、わかるだろ? あの国は黒が嫌いだからな」

「黒いだけ?」

「いやいや、そんなことはないよ。見せてやろう。ついてきな」

「私はいいよ。少し休ませてもらう」とメルダース。

「では、おやすみなさい」ヴィカは歩きながら軽く挙手の敬礼をして部屋を出た。

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