アイゼン徘徊行
「キアラ」カイは呼んだ。ものは試しだと思って呼び捨てにしてみた。
キアラには確かに人間に対する差別意識があった。でもそれは文化的な刷り込みであって彼女自身の感情とは違うかもしれない。そんな感触があった。
するとキアラは「ん?」と言って振り返った。そこには不愉快そうな感じは全然なかった。
やっぱりそうだ。
「そうか、君は人を嫌っているわけではないんだな」
「何、急に?」
「別に」
キアラは振り返って大きく1歩踏み込み、カイの喉元に2本指を突きつけた。カイは反応する間もなく懐に入り込まれていた。
「私が訊いたら誤魔化さずにきちんと答えること」
近くで見るとキアラの瞳は鮮血のように赤く、肌の白さといい、淡いピンクのつややかな髪といい、人間離れした人形のような雰囲気だった。
でもよく見ると腕や肩にはまだ銃創の痕跡が残っていて、先ほどの戦いでかなりのケガを負っていたことがわかった。
「いい?」キアラは念押しした。
「食べ物を探してくれるなんて、意外と優しさもあるんだと思っただけだよ」
「なんだ、そんなこと?」
キアラはそう言って手を引き、また歩き出した。
「そうね、私だってただ人間だからってわけもなく痛めつけるようなマネはしない。1人1人の人間は無害だわ」
「1人1人は」
「1人なら、無力でしょ?」
「つまり、集団や社会のレベルになると有害だ、と?」
「人間の創造性は神の恵みを超えていこうとするのよ」
その言葉にはサンバレノという国の頽廃的なものの捉え方が凝縮されていた。サンバレノ神話も最初はフラムに侵されて死んでいく世界を受け入れるための哲学の1つとして始まったに違いない。
なるほど、とカイは思ったが口には出さなかった。ツッコミが恐かったからだ。
キアラはエレベーターの扉の前で立ち止まった。もちろん塔の電源が死んでいて動くはずもないのだが、キアラがボタンに手を触れると階数表示が蘇った。
「奇跡か……」カイは呟いた。
「驚いた?」
「ああ、そうか、さっき蛇口から水が出たのも」
「そう。出したのよ」
ワイヤーが錆びているのか、ケージは時折ガタガタと震えながら下りていった。
「中層までは探したの。その下まで行くわよ」
半分ほど来たところでキアラの耳の上あたりに何か三角形のものが現れた。半透明でピンク色。それも奇跡なのだろうか。
「はい、キアラです」
電話なのか。キアラが答えると頭の上の三角形は2つに増えてネコミミのような具合になった。
エレベーターの扉が開き、キアラは相手の声を聞きながら廊下へ降りた。音漏れはまるでなかった。
「……人質は確保しました。はい、順調です。ネロは傷を負いましたが。黒羽を釣り出して仕留めます」
ネコミミはそこで消えた。
「通信用の奇跡もあるんだ」カイは感心した。
「今のは私のじゃない。ペトラルカの奇跡」
「ペトラルカ?」
「天聖教会の司教」
「それってサンバレノの……」
「そう、国で一番大きな教会」
「クローディアのことを命じたのはその人か」
「それ、いろいろと誤解してるわ」
キアラはエレベーター横の案内図を見て倉庫の位置に当たりをつけて歩き出した。
カイはアイゼンには馴染みがあったが、自分の足で内部を歩き回るのはほとんど初めてだった。廊下は薄暗く、死神のようにひんやりした風が吹き渡っていた。
「まず、私は誰かに命じられてやっているわけじゃない。私の方から申し出て、ペトラルカは成功と引き換えに私に高位の聖職を約束した。今の連絡は契約なの。成功した時はいいけど、仕損じたとなったら彼女もその記録をつけなければならないでしょ」
「女の人か」
「当然でしょ? ――というか、人じゃない、天使よ」
「君は軍人ではないわけだ」
「そう。軍の管轄ではない。僧兵ってところね。信仰のために志願して
「カタストロフィ?」
「黙示録に神の予言があるのよ。世界の破滅の前兆となるのは鴉の如き黒羽の天使なりって」
「前兆であって、破滅そのものをもたらすのはまた別の存在ってこと?」
「それはわからない。予言書にもカタストロフィそのものがどんな現象なのかは書かれていないんだもの」
「前兆を始末したところで破滅そのものを止められるとは思えないけど」
キアラは振り返ってカイを睨んだ。
カイは一度しっかりと口を閉じて黙った。
「君は昔からクローディアを知っていたのか?」カイは質問を変えた。
「いいえ。教会に入ってから」
「じゃあ個人的な因縁はなかったわけだ」
「そうね。直接会ったのもここが初めてだった」
「君がそれに志願したのは、地位のため?」
「そう、地位と生活のため。ボク、サンバレノの身分制が厳しいなんてことも知らないでしょう」
「エンジェルとかアークエンジェルとか?」
「まあね。それもある。私は子供の時からネロを育ててきた。今までたくさんの天使が黒羽狩りに失敗してきたけど、ほとんど単独で挑んだんだ。ネロがいれば、きっと違う」
「そのためにネロを育ててきたってこと?」
「逆だよ。ネロがいたからやろうと思ったんだ」
「そうか。……確かにあの魔術は凄まじかった」
「魔術じゃない。奇跡よ」
「でも天使の奇跡にはあんな魔法陣は出ない」
カイはグリフォンの奇跡が魔術ではないというのはヴィカからきちんと聞いていた。でも誤解していると思わせた方がキアラが話してくれそうだったし、実際その通りだった。
「グリフォンってパワーはあるけど、その放出のやり方が天使ほど洗練されてないんだって」キアラは言った。
「洗練されてない?」
「グリフォンというのはね、聖アーバインが天使の下僕として創造した
キアラは倉庫に入った。中の空気はまるでカビと埃が溶かし込んであるみたいに淀んでいた。
「ボク、探してみな」キアラはそう言って明かりのスイッチに手を当てた。天井の明かりがパッと灯った。彼女はそのまま壁に背中をつけて待っていた。
でもその部屋にあるのは布団や制服ばかりで食料は見当たらなかった。
「だめだ。ここには食べ物はない」
「仕方ない。もう1層下へ行こう」
キアラは案外付き合いがよかった。それとも結局干し肉があまり口に合わなくて他のものが食べたいのかもしれない。
「サンバレノを出る時に食べ物は持たなかったのか?」カイは訊いた。
「持ったわよ。でももうひと月以上旅をしているんだもの」
「人の肉よりは人の作った食べ物の方がいいわけだ」
「同じよ。きちんと料理になっていればどっちでも」
2人は階段で階下へ下り、また倉庫に入った。フロアの間取りは上階とほぼ同じだった。
キアラも同じようにスイッチに触れたが、照明そのものが割れていて明かりがつかなかった。そこで彼女は右手を上に向けて手のひらの上に赤い球体を生み出した。
しばらくはかなりグロテスクな色の仄暗い光源だったが、だんだん光の色が白く変わっていって電灯と変らない色合いになった。
「魔術と同じだ」カイは呟いた。
「どこが?」
「なんというか……便利道具的な一面がある。ただ単に戦いの武器ってわけじゃない」
キアラは光源の球体を掲げて手を離した。球体はそのまま空中に留まっていた。
「魔術が術者の手を離れて効果を維持できるの? ん?」キアラは訊いた。
「……訂正するよ。奇跡の方が便利だ」
「便利って何よ。高等なのよ」
「ところでアーバインというのはどれくらい昔の人なんだ?」
「人じゃない。天使よ。……ハァ、なんでそうなんでもかんでも人扱いしたがるの」
「昔の図鑑にもグリフォンなんて生き物は載ってない」
「聖アーバインの記述は約400年前」
「それはフラムスフィアの拡大と同時期だよ。グリフォンはポストフラムの生き物なんだ」
「天使の聖獣なのよ。人間が知らなくたって不思議はないでしょう?」
「つまり、旧文明のバイオ技術が生み出したものをサンバレノは神話に組み込んでいるんじゃないのか」
目の横を赤いレーザーが通り過ぎた。射線の先を見ると床が丸く焦げて煙が立っていた。
「それ以上言うと喋らないようにしてやるわよ」キアラはカイに人差し指を向けたまま言った。
会話が噛み合っていなかった。キアラが科学的なものの見方を拒んでいるせいだ。サンバレノの天使たちがいかに根拠の薄い信仰の上に生きているのか思い知らされた気がした。
カイは積み上がったプラスチックのケースを力ずくで動かしながら食料を探した。キアラが浮かべた光源は上階の倉庫の照明より明るいくらいだった。
そしてついにレトルトパウチが詰め込まれたコンテナを見つけた。印刷が薄れていたがサーモンの切り身であることは判読できた。
カイはパウチを1つ取って掲げた。
「あった?」キアラが顔を上げた。
「でも、どう考えたって20年以上前に作られたものなんだよな……」
カイはまだ自分より年上の食べ物に出会ったことがなかった。
「食べられるかな……」
「そんなの開けてみればわかるわよ」
どこから見つけ出したのか、キアラは小鍋とフライパンを両手に持っていた。
―――――
(2020/8/11:天聖教会司教の名前を「ペトラルカ」に改めました。以前は「コルペトリ」でした)
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