白銀の2人

 エヴァレットがようやく起き上がれるようになった時、中庭にはもはやエトルキア兵の姿はなかった。味方たちは地面に突っ伏し、息絶え、あるいは痺れや怪我に悶ていた。その中でヒンターラントほか数名だけがかろうじて動き回り、出血の酷い者の手当をしていた。

 エヴァレットは自分の体に携杖を向けたが、貫通痕は電撃に焼かれていて止血の必要はなさそうだった。

 まだ上手く動かない体で四つん這いになってヒンターラントに近寄った。

「ヒンターラント、アーヴィング様とギグリ様は」

「は、先ほど窓から見えましたが、中層におられます」ヒンターラントは慌ててエヴァレットを抱え起こそうとしたが、エヴァレットは遠慮した。

「中層? 誰か向かったか?」

「いいえ、恥ずかしながら」

「構わない。私が行こう。この場は任せる。必要に応じてエトルキアにも助けを求めてくれ」

「は」

「自分の手当ても忘れるなよ」

「は」ヒンターラントは生真面目に返事をして引き下がった。

 城の屋根の上でカラスが鳴いていた。まるで死臭を嗅ぎつけたかのようだ。不吉な連中だ。


 エヴァレットはエレベーターまで這っていって中層に降り、また芝の上を這った。人々はみな建物の中に引きこもってしまったのか、人気はまるでなかった。

 ギグリの姿はすぐに見つけられた。芝の上にぽつんと顔を出した岩のようだった。

 フェアチャイルドは?

 どこだ?

 だが近くでギグリの様子を確かめればわざわざ訊く必要などないのは明らかだった。

 彼女は寝かせた障壁の上に力なく横たわり、灰にまみれて全身真っ黒に煤け、腕や胸は熱で爛れ、手にエトルキア製のサバイバルナイフを握るともなく握っていた。頬の下に敷いた灰は涙に濡れていた。

 彼女自身が目にすれば間違いなく「醜態」と称するような状態だったが、正面に回り込んだエヴァレットを見てなお彼女は体を起こさなかった。

 そんなあなたの姿は見たくない。

 普段の居丈高なあなたはどこへ行ったのだ。

 エヴァレットそう思った。

 だが醜態は自分とて同じではないか。

 どうにか上体を上げて片膝をついた。

「殉死するおつもりですか」エヴァレットは顔を伏せて声をかけた。

「その前にこの熱をもう少し感じていさせて……」透き通った小さな答えが返ってきた。

 エヴァレットはしばらく黙っていたが、ギグリの姿を見ていると喉の奥からぐにぐにと登ってくる言葉を押さえることができなかった。

「あなたはまだ死ぬべきではない」

「口を慎みなさい」

「いや、あなたはまだ死ぬべきではない」

 ギグリは痺れを切らして頭を擡げた。

「主と生死をともにすることの何がおかしいというの?」

「仕える主を持つことがおかしいと言っている」エヴァレットも強い言葉で応じた。「何がそこまであなたを奉仕に駆り立てるのです?」

「あなただって……!」ギグリはそこまで反駁して言葉を切った。

 だがエヴァレットがもはやフェアチャイルドの忠臣として話しているわけではないと悟ったのだろう。その先の口調は一転して穏やかだった。

「それが私のサガなのよ。性分。存在意味。生まれたときからそう刷り込まれてきたから、それが血の定めだから。私は迷信にまみれた天使に仕えるのが嫌だった。仕えるのが嫌でサンバレノを去ったのよ。でも生き物としての髄まで染み込んだ性は抜けなかった。私の不安を癒やし、拠り所になってくれたのがこの方だった」

 ギグリはそこまで言って灰をまさぐった。

「ああ、もう、冷たくなってしまったわ。あなたが煩くしたせいで、私はこの方の最後の火を堪能するまで感じていることができなかった。万死に値するわね」

 エヴァレットは目を瞑った。

「私はあえてそうしたのです。切り捨てられようと構わない。しかし過ちとは思いません」

「存外、残酷なのね」ギグリはゆっくりと溜息をついた。「いいわ。でも、どうしたらいいのかしらね。私は一度ここで終わっているの。終わりの壁の先に何があるのかと言われても、本当にわからないのよ」

「彼に仕える前はあなたとて自由の身だったのですから、その時と同じようにすればいいのですよ」

「新しい主人を探せというの?」

 エヴァレットは再び目を瞑って考えた。

 やはり主か。

 主、あるじ……。

 人はそう簡単に変われるものではないのだ。

「ギグリ様、私にお仕えください」

「はっ」ギグリは口に手を当てて嘲笑った。「変な言葉」

「私は本気です」

「ならば言いなさい。あなたの野望を」ギグリは上体を起こして横ざまに手をついた。

 エヴァレットはまた少し考えた。

「私は強くなりたい。こんな無様な負け戦をするべきではなかった」

「ふん、つまらないわね。面白くない。そんなものは夢よ。子供の夢と同じ」

「では……こうしましょう。私はこの世界で最大の力を手に入れる」

「で、その力を何に使うのかしら」

「ギグリ様、あなたは彼の野望を知っておられるのでしょう」

「本人には及ばないでしょうけど」

「私はあなたほど彼を知らないかもしれない。しかし多くを教わった御恩は決して小さくない。彼の遺臣として、あなたの主として、私がその意志を継ぎましょう」エヴァレットは改めて片膝の姿勢を整えた。

 ギグリは仕方なさそうに頷いた。それから手を自らの肌に滑らせて火傷と煤を消し去った。真っ白くつやのある肌が戻っていった。

 つくづく奇跡というのは魔術以上の神秘だ。そこに何の理屈が作用しているのか全く察しがつかない。

「アーヴィング様、たとえ私が死ぬとしてもあなたは化粧もせずに逝くことは許さなかったでしょうね。危うく気づかずにいるところでした。それに気づけたのはこの男のおかげです」

 ギグリはそうして最後に灰の山をひと撫でした。そして手のひらを上に向けてエヴァレットに立ち上がるよう促した。

 エヴァレットが立ち上がるとギグリは目の前に跪いてエヴァレットの左手の籠手を外し、その甲に軽く、だが長くキスをした。指にぽたぽたと涙の落ちる冷たい感触があった。

「私はこれよりあなたに忠誠を捧げます。エヴァレット様」

「その呼び方は――」

「いいえ、主は絶対なのです」

「ううむ、仕方ない」エヴァレットは違和感で胃がねじ切れそうだったが我慢した。「では早速ですが、私はあなたに自由を命じます」

「ならば気兼ねなく。主に付き従うのが私の役目。命を賭してあなたをお守りします」

「まったく、あなたという人は……」エヴァレットは手を返してギグリを引き上げた。「まあいい。城に戻りましょう」

「エトルキアの空挺部隊は排除したのですか?」

「いいえ、我々の負けです。占拠されていますよ」

「では飛行場の基地に向かうのが良策でしょう。講和を行うにしても相手の占拠下に陣を敷くのではあまりに都合が悪いですから」

 ギグリの口調は至って謙虚だったが、恐る恐る顔を窺うと彼女の目は依然としてエヴァレットを冷たく見下していた。ゾクっとするような視線だった。

 ちぐはぐではないか。 

 一体どういう精神状態なんだ?

 自分がフェアチャイルドのように慕われる日は来るのだろうか……。

 エヴァレットは早くも後悔し始めていたが、とにかくロープウェーの駅まで歩いた。ギグリが何か術をかけてくれたのか、体の動きはいくらかスムーズになり、力も入るようになっていた。

 ゴンドラに乗ると冷酷なほど青い空の手前に飛行場の惨状が見えてきた。直接攻撃こそ受けていなかったが、民間機の発着は全てキャンセルされ、不時着した戦闘機が誘導路の脇で煙を上げ、駐機場には片翼や機首などを失ってひどく傷ついた飛行機がスクラップさながら無造作に並べられていた。

 そしてまたしても黒いカラスたちがその屍を踏みつけるように尾翼の上を渡りながら踊っていた。


 5時間後、エトルキアの使者に迎えられ、エヴァレットはスーツを着て再び城に上った。そこで捕虜になったヒンターラントらの引き渡しを受けるとともに、フェアチャイルドの全権代理としてエトルキア代表のヴィカ・ケンプフェルと降伏文書を交わし、調印を済ませた。

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