シャッタード・ホログラム
ギグリはクローディアが引き剥がしてくれた。
カイはフェアチャイルドと黙って対峙していたが、フェアチャイルドはカイのことなど脅威と認識していないのか、近づいてきて中庭を覗き込んだ。外では剣戟の音が響いていた。
プロストレーターが開けた壁の大穴から中庭の戦闘を一望することができた。エヴァレットとヴィカが激しく剣を打ち合っているのが見えた。周りの兵士たちは勝手に戦うことなくその試合を見守っていた。というか下手に手出しすれば自分の身が危ないとビビっているようだ。
それほど2人の打ち合いは激しく、エヴァレットにしろヴィカにしろ、自分にはよほど手加減していたのだとカイは悟った。
カイは咳をした。フラムスフィアに潜った時の症状がいまさら出てきたらしい。肺の内側が腫れて容量が減っているのを感じた。気管も熱っぽい。
「パールヴェーラーを飲むかね? 本来は事前服用だが、効果が望めないわけじゃない」フェアチャイルドは誘うように訊いた。
「いらない」
「なぜ?」
「俺を突き落としたのはあなたの部下だ」
「だからこその施しだと思ったのだが――」フェアチャイルドは言い終わる前に目を逸らした。
ベレットを乗り捨てたシュナイダーは落下傘で屋根の上に降りたようだ。窓かあるいは内階段を使って前室からフェアチャイルドの部屋に入ってきた。着地が完璧に決まらなかったのか、右足を少し引きずっていた。
フェアチャイルドはポケットに手を差し込んで突っ立っていたが、シュナイダーが拳銃を向けるとゆっくりホールドアップのポーズをとった。
「そうか、優勝者にはより高位のもてなしを、という談判か」フェアチャイルドはおどけた。「どっちなんだ? 君たちは私を殺したいのか、それとも追い落としたいだけなのか」
「場合によるね。大人しく為政者の立場を明け渡すなら、刑によって償うか、命によって償うか、選ぶことができる。もとより俺はファウロスの分を許すつもりはないが」シュナイダーは答えた。
「なるほど。で、次の領主は誰がやるんだ?」
「選挙で選べばよかろう」
「だめだな。そんなことをすれば金で票を買うやつが当たるだけだ。君がやればよかろう、シュナイダー。道理に適っているし、求心力もある」
「俺が?」
「推薦状を書いてやってもいい」
「どうなんだ。自分が下ろしたやつから推薦状って……。いや、冗談はよそう。俺は別に金次第でもいいと思うが。つまり、選挙権は廃墟にも広げる。選挙権を持つ人口は数倍に膨れ上がる。だから廃墟にどれだけ金を落とすかが決め手になる。どうだ?」
「なるほど、そいつはいい。運営に手間がかかりそうだな。せいぜい頑張るといい」
フェアチャイルドは床に転がった椅子を持ち上げて立てようとした。でも脚が1本折れていて自立しなかった。彼は仕方なくその椅子を壁に立てかけて腰を下ろした。
「あなたはなぜクローディアを手に入れなければならなかったんだ。それは単にあなたの所有欲と性的嗜好なのか?」カイは訊いた。
「美しいからさ。君もそう思うだろう? 珍しいという表現はあまり好かないが、それもまた適当だろう」
「あなたは単に自分の所有欲と性的嗜好のためにベイロンを戦に巻き込んだのか」
「それは心外だな。戦を始めたのは君たちの方じゃないか。自分のために彼女を求めるのは君だって同じだ」
「立場が違うでしょう」
「そんな言い訳をしなければならないほど君の大義は薄弱なのかね」
「あなたは彼女を鳥籠に閉じ込めようとしている。俺は違う。彼女の意志を尊重する」
「では彼女は君と一緒にいたいと言ったのかね」
カイは黙った。
そうだ、確かにそうなのだ。
彼女が回復を見届けてくれと願ったわけじゃない。
それはクローディアとの約束ではなく、アルルとの約束だ。
また咳が喉を突いた。
フェアチャイルドはカイの返事を待たずに言葉を続けた。
「ここにいれば彼女はエトルキアとサンバレノから追われることはない。追手からの解放が彼女の望みではないのか? 君はどれほど彼女のことを知っているというのだ。どこで生まれ、何をして育ってきたのか、その心は?」
フェアチャイルドは懐に手を入れて杖を取り出した。
シュナイダーが拳銃を構えたが、フェアチャイルドは手を出してそれを制した。
「攻撃するつもりはない。――ゲフェンレカン・ミーン・アンリクネス、エオク・タル・ステオル(我が想像をこの場に現せ)」
そう唱えると彼の装飾的な杖の先から光が広がり、辺りを包み込んだ。
眩しさに目を瞑り、そして開いた時、フェアチャイルドの部屋は消え、無限とも思えるような草原が広がっていた。
「旧文明以前の大地の姿だ。知識はあっても実物を見たことはないだろう?」フェアチャイルドは言った。
その通りだ。本や映像では見たことのある景色だったが、その景色の中に自分がいるというのは想像が及ばなかった。
一種のホログラムだというのは理解できたが、それでもカイは圧倒されていた。
ホログラムの景色は絶えず変化し、森が生まれ、人々が田畑を拓き、やがて広大な街を築いていった。塔の上の島など足元にも及ばないほどの広大な都市だった。
だが都市は間もなく暗い雲に閉ざされ、木々は枯れ色を失っていった。
「これがクローディアの見てきた景色だよ。肺の状態からしておそらく10年以上フラムスフィアに潜り続けていたのだろう」フェアチャイルドは言った。
「10年……」
「天使という生き物はいったい何なのか、と君は思ったことはないかね」
カイはフェアチャイルドに目を向けた。
「旧文明の図鑑や記録に天使という生き物を見たことがあるかね?」
「いいや」
「では天使は旧文明が滅んでから自然に生じた生物種なのか? あんなにヒトらしく、かつあらゆる哺乳類からかけ離れた骨格の生き物が、何の脈絡もなく生まれたと、あるいはどこからやってきたと、そう思うのかね?」
「いいや……」
カイはフェアチャイルドの語りに流されていた。
ホログラムの中で無数のビルが倒壊して鳥の巣のような構造物を形作り、去り行く人々がその中に残した卵型の光から純白の幼い天使が産み落とされた。
「天使というのは旧文明最後の遺産なのだよ」
「それはエトルキアの言い分だ。天使が人間の創造物だというのは」シュナイダーがフェアチャイルドに言い返した。
「そう。だが事実だ。天使というのはこの世界に適応した新しい人類なのだよ。淘汰によらず、人類が自ら選び取った進化。生物技術の至高の賜物だよ。ごく少数生み出された彼らの末裔が今の天使たちなのだろう」
ホログラムの中に産み落とされた天使は少しずつ成長し、翼を広げると金の鱗粉を撒きながら頭上を飛び去っていった。
「だからといって私は決して人間と天使の間に上下関係や、新しい古いといった格付けを持ち込むつもりはない。そんなエトルキアやサンバレノのような差別的な思想など持たない。天使はその内なる力によって、人間は道具によって同様にこの世界に適応してきた。そこに優劣などない」
「何が言いたい?」とシュナイダー。
「私はそこに人類の進むべき道を見たのだよ。その進化を残りの人類全体に推し広げ、ゆくゆくはフラムスフィアに適応した生態系を再生すべきなのだ、と。それでこそ現代の文明が旧文明を超克したと言えるのではないかね。そう、私がエトルキアを見限ったのはまさしくその点においてだった。旧文明の遺産を享受するだけのあり方の末路は緩やかな絶滅だよ。そうは思わないかね?」
シュナイダーは黙っていた。
「俺はそう思うよ」カイは言った。「このままの世界の先にあるのは絶滅だろう」
「ほう、初めて意見が合ったな」
「だがあなたが俺と違うのはそのために誰かを苦しめてもいいと思っていることだ。それだけの考えと力を持っているならそれをもっと多くの人々のために使うことができたはずだ」
「彼女も同じようなことを言っていたよ。だがそれではだめなんだ。力というのはひとところに集まってこそ力たりうる。分散すれば浪費へと落ちる」
背後でホログラムが乱れ、どうやら誰かがこの領域に割って入ってこようとしていた。
「ストラング・ヘオフォンフュール・グリメタイン(強き雷よ轟け)」ヴィカの声がそう唱えた。
するとホログラムの亀裂からまず長杖が現れ、腕、そして全身が現れた。
中庭から登ってきたのだ。
長杖の先からフェアチャイルドに向かって青白い電撃が走ると同時にホログラム全体が乱れた。
「イエルナン・リェーグ・アケオキアン(流れる火よ焼き尽くせ)」
フェアチャイルドは対抗して火焔魔術を放ったが、ヴィカの電撃はその芯を抜くようにフェアチャイルドを襲った。
だが電撃を受けたフェアチャイルドの姿はホログラムと同じように乱れて掻き消えた。
そしてその少し横で景色の一部が扉のように切り取られ、開いた隙間から一瞬楔形の光が差し込んだ。だが隙間はすぐに閉ざされて元通り継ぎ目のないホログラムに戻ってしまった。
姿を消したフェアチャイルドがホログラムの景色をそのまま残して部屋から逃げ出したのだ。気づいたシュナイダーが拳銃を連射したが手応えはなかった。
ヴィカも動けなかった。電撃に割かれたはずの炎は床の上に広がり、ヴィカの体を繭のように包んでいた。
ヴィカは保護魔法を使って自分を守るので手一杯の様子だった。かなり熱そうだ。
カイはフェアチャイルドを追ったが、扉が見つからない。
そうか、フェアチャイルドには現実が見えていたのだ。もとより2人をここに閉じ込めるつもりだったのかもしれない。
何か、何かないか……?
銃、鈍器、あるいは……魔術。
カイはヴィカが取り落とした長杖に目をつけた。
拾い上げて腰だめに構えた。見かけ通りといえば見かけ通りだが、かなりずっしりと重量のある杖だった。
頼む、力を。
今ここであいつを逃してはいけない!
そうして祈りながら、フェアチャイルドと同じように唱えた。
――というより叫んだ。
「イエルナン・リェーグ・アケオキアアアアン!」
果たして先端の魔素結晶から赤い炎が流れ出し、一拍置いて猛烈な奔流に変化した。
カイは反動で後ろに突き飛ばされた。
炎はホログラムを雲のように突き破り、景色はその一点からまるで破裂する風船のように消えていった。
ヴィカの体を包んでいた炎もにわかに火力を減じて消え去った。
ホログラムの膜が床に溶け込むように消えると、そこにはフェアチャイルドの部屋があった。壁は破られ、プロストレーターの破片が散乱していた。
違うのはカーペットが焼け焦げて真っ黒に変わっていること、そして前室に続く扉が戸口ごと溶解して消失していることだった。
奔流が通った円柱状の領域はもれなく溶け、あるいは炭化し、廊下まで突き抜けて外壁も抉り通していた。
フェアチャイルドの姿はどこにもなかった。彼の持っていた杖だけが前室の隅に転がっていた。
「逃がしたのか?」シュナイダーが訊いた。
「いや、術が解けたということは、おそらく……」ヴィカは息を止めていた分大きく呼吸しながら答えた。
カイはそれを聞いたところで杖を落として床に膝をついた。咳をすると血が出た。
「カイ、あんな魔術が使えたのか」シュナイダーが言ったが、カイの手を見たところで顔色を変えた。
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