インスタント・レーサー
アクロバットチームは5機のアルサクルだった。武装はきれいさっぱり取り外され、ベイロンの紋章と同じ赤黒黃の3色で機首から主翼後縁まで塗り分けられていた。
スピードと大きな動きを活かした伸びやかな演目でスモークを使って空に円やハートなどを描いていった。
カイはシュナイダーチームのテントの前で空を眺めていたが、時折主催席にも目をやっていた。
そこにはクローディアがいた。彼女は特注の衣装を着ていて、顔が妙に白いのはともかく、今までより可愛らしく見えた。
レッドカーペットとピットはお互いの顔が判別できるほどの距離だったが、カイは特に合図は送らなかった。彼女が気づけば周りにも怪しまれる。まだそのタイミングではない。
背後では誘導路に引き出されたシュナイダー機の前でレースクイーンとカメラマンたちが最高の画角を求めて互いに変なポーズをとりながら撮影に明け暮れていた。あんまり没頭しているのでこっそり飛行機を引き抜いても誰も気づかずに撮影を続けているんじゃないかという気がした。
しばらくするとメカニックのチーフが来て彼らを追い払った。エンジンを回すようだ。
シュナイダーのレース機「ニコール」はやや角ばった細い胴体に実直な四角い翼を備えた小さな飛行機だった。1100馬力のエンジンで機首の4翅プロペラを回す。ほぼ胴体下面に埋め込まれたラジエーターは主翼の後端より後ろにある。
そこまではチームメイトのグライヴィッツ機も共通だが、唯一大きく違うのはシュナイダー機が水滴型のキャノピーを使っていることだ。これは空気抵抗の低減より後方視界を優先したことを意味していて、常にトップを飛ぶシュナイダーらしいチョイスだと言えた。
「行くぞ、カイ」シュナイダーはそう言ってカイにヘルメットを投げた。
カイはそれを受け取ってお揃いのカラフルなGスーツの前ファスナーを首まで上げた。
―――――
グランプリツアーは2機1組のチーム戦だ。シュナイダーの本来のチームメイトはグライヴィッツという小柄な女で、シュナイダーの裏の活動にも関わっていたのだが、昨日シュナイダーが飛行場に戻って作戦を告げると彼女は「結局殺さないのか」と言って強く反発した。
グライヴィッツのパイロットとしての腕は抜群だったが、しかし政治はわからなかった。あるいはわかっていてもなお恨みの方が合理的思考を上回っていたのかもしれない。
彼女の父親は高額な報酬を対価としたベイロンの実験に加わり、パール・ヴェーラーを服用して連続30時間フラムスフィアに潜り、そして重度の肺の爛れによりその後20時間呼吸困難に苦しめられたのち、死んだ。
彼女はそうした実験が彼女の島だけでも100人以上に対して行われていたことを知った。それは治験と称した口減らしに過ぎなかった。
カイの登場によって比較的平和的な方法に目途がついたわけだが、それはグライヴィッツにとっては決していい知らせではなかった。シュナイダーがフェアチャイルド殺害を強く拒むとグライヴィッツはチームからの脱退を突きつけた。
「仕方がない。それなら勝手にやってくれ」
カイにパイロットの役割が回ってきたのはそういう事情だった。チームにはもちろん控えの3人目もいるのだが、悪いことにそれはグライヴィッツの妹だった。姉妹は打倒フェアチャイルドの思想を深く共有していた。姉がチームを去って妹だけが残るなどあり得ないことだった。
カイはヴィカとの手合わせのあと、飛行場に急行してグライヴィッツ機を何度も飛ばした。
速成でとにかく飛行特性を体に叩きこんだ。1時間で水平飛行と離着陸は安定、2時間でアクロバットができるようになり、3時間で高速ストールやクイックロールからのスピンなど危険な癖を把握し、そこからの復帰の方法を覚えた。
「なかなか筋がいいな」休憩に降りた時、シュナイダーは本当に感心していた。
「ダテに毎日乗ってませんでしたよ」かなり冷え込んでいたがカイは汗だくだった。
「毎日?」
「俺の島は確かにボロですけど、石油だけは潤沢に湧くんでガソリンはタダみたいなものでしたよ」
一度休憩と給油を挟んだあとはシュナイダーの先導でコースに突っ込んだ。チェックポイントマーカーの設置はまだだったが、幸い早乗りしていたおかげで他のチームと鉢合わせるようなことはなかった。
エリスヴィルのコースは別名「アスレチック」と呼ばれていた。つまりレーサーに必要な各種機動を要する区間がまんべんなく配置されているのだ。
飛行場の誘導路上空でスタートラインを切り、まず中層甲板まで一気に上昇、この前にスピードを溜めておかないと上り切れずに大きくタイムロスすることになる。この区間では加速と上昇力が必要だ。
中層のビルの間を抜けて塔の周りをぐるりと旋回、甲板に開いた穴を抜けて塔を螺旋状に巻いて降下。
そして中層甲板の支柱と突き立った塔の先端部の間を抜けるダブルヘアピンカーブに入る。機体の最小旋回半径がものをいう区間だ。降下だからといってスピードを乗せすぎると曲がり切れないか、あるいは下層甲板に激突することになる。減速性能も試される。
ヘアピンを抜けたあとは甲板の上に横たわった塔上部の内部に突っ込む。直線だが閉所なので機体の小ささと度胸がなければスピードを乗せられない。
トンネルを抜けたところでコース取りの難しい下方へのUターン、そして最下層下面のプラント群を縫うように連続する高速スラロームを抜ける。ここでは横転性能とエネルギー保持でタイムに差が出る。
そのあとは甲板の縁に沿うように大きく旋回してホームストレートに戻ってくる。1周20km弱。グランプリツアーでの基準ラップタイムは3分半。
―――――
そう、そのコースをこれから13周するのだ。昨日も全力で飛ぶことには飛んだがそれでも2機。本番、24機で群れて飛べば当然気流も乱れる。不意の失速で脱落するトッププレーヤーだって珍しくない。
カイはスロットルを押してプロペラの回転を上げた。機首上げ姿勢で前が見えないので右翼の上に座ったメカニックの誘導で誘導路を走り、滑走路に出たところで1人になって滑走を始めた。左前方にシュナイダー機が見えた。
「何度も言うが、チームの順位は速い方が総取りだ。だから君は順位は気にするな。とにかく、落ちずに回り切れ」シュナイダーは無線越しに言った。
あのシュナイダーだ。本番で一緒に飛んでいるのだ。
ずっと夢見てきたテレビの向こう側の世界にいるのだという実感などなかった。いま自分は自分の夢のために飛んでいるわけではない。
各チームの機体が次々に飛び立って空中で整列を始めた。ペースメーカーに続いて連なり、エンジンを温めながら所有ポイント順位に沿って並び直す。
上から見ると観客などケシ粒のようだった。
コース各所のチェックポイントには吹き流しのようなマーカーでゲートがつくられており、場所によっては既定高度で通過しなければ失格扱いになる。
グライヴィッツは前回5位の成績だった。
次のストレートでスタート……。
後ろから聞こえるエンジン音が咆哮のように大きさを増した。
カイもスロットルを押し込んだ。
550km/h。
遥か遠くに見えていたスタートラインが一瞬で足元を過ぎ去った。
上昇。
先行機の起こした乱流が機体を細かく揺さぶっていた。
コースをずらして深く上昇、中層のチェックポイントを抜けた時前に見えたのは3機だった。
順位を上げたのか?
ところが塔を回る次のコーナーで一気に3機ほどに内側に入られた。
さすがにトップレベルのレーサーたちだ。旋回が鋭く、速度管理も完璧だった。
俺もあれくらい攻めなければ、と思った。
だが思うだけで思い通りに動くのが飛行機ではなかった。
1周終える頃には最下位争いをしていた。
5周終える頃には先行集団が見えなくなった。
焦りは焦りを通り越して小便を漏らしそうな気分になっていた。
落ち着け、今さら焦っても仕方がない。
そうだ、これはエンジントラブルなんだ。昨日酷使しすぎたから音を上げてるんだろ?
カイはどうにか自分に暗示をかけてコースと向き合うことに集中した。
スピードを落とさずに、小さく曲がる。
それだけだ。
バックミラーに何かが映った。
最下層下のスラロームで確認すると確かに後ろに飛行機がいた。
周回遅れになるのか?
誰だ?
最後のコーナーで鏡を注視した。
赤黒白のカラーリング。
シュナイダーだ。
1位だ。
いいぞ、計画通りじゃないか。
ゴールラインのマーカーの上でチェッカーフラッグが振られていた。
自分じゃない。シュナイダーがあと1周なのだ。
カイは計器を見直してピッチやラジエーターを細かく調節した。
こうなったら抜かれてなるものか。
甲板の縁をすれすれで抜け、低く飛んだ。
スピードと旋回半径の限界を探った。
できるだけ操縦桿を動かす時間を短くして舵面の抵抗による減速を押さえた。
降下のブレーキはぎりぎりまで待った。
カイは最高に精密な飛び方をしたつもりだった。
それでもシュナイダーは近づいてきた。
最後のコーナーではほとんど真後ろに見えた。
ホームストレートではほぼ横並びだった。
それでも抜かされることはなかった。
気合いではどうにもならないのが機械だ。
ピッチが適切ならグライヴィッツ機の方がスピードが出る。
ゴールライン。
下で歓声が沸き起こり、シュナイダー機は左に逸れていった。
カイがもう1周して戻ってくる頃には盛り上がりもいくらか収まり、何機かは滑走路に下りていた。
カイも旋回して着陸の順番を待った。
ガレージに戻るとシュナイダーが出迎えた。
「よくやったな」
「ボロ負けですよ」
「いや、最後の1周は抜かせなかった。抜いてやろうと思っていたんだがな」
「慰めですよ」
「慰めじゃないさ。本当だ。レース中にそんな思いやりができるほど冷静でいられるかよ」
汗を拭きながら水を飲んでいると、レースクイーンたちがいっぱいの花を手に勝者を迎えに来た。
「さあ、ここからだぞ」シュナイダーは手を引かれながらカイを呼んだ。
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