スピリット・オブ・エタニティ
スピリット・オブ・エタニティ。大層な名前だが、普通の空挺機――タニンの改造機に過ぎない。ただ装飾がゴテゴテしていて、外観はクリーム色の外板に金色の彫刻が貼り付けられたロココ調、中にはソファやテーブルやちょっとしたバーカウンターまで設えられていて、まるで空飛ぶリビングといった感じだった。ある意味ではフェアチャイルドにお似合いの専用機かもしれない。
エアレースの第2戦が開かれるエリスヴィルへ向かうためにそんなものに乗っているわけだが、しかしクローディアには快適な空の旅を楽しむ余裕などなかった。
乗り物酔いなんかじゃない。……二日酔いだ。
前日フェアチャイルドに連れ回されてキャバレーで飲んだ酒が残ってしまったのだ。
「まったく、天使は人間に比べて肝臓が小さいのよ。何の考えもない人間みたいにがぶがぶ飲んだら当然潰れるわ」ギグリは向かいの席で脚を組んでいた。
「い、今まで飲んだことなかったんだから加減とか、わ、わからないよ」とクローディア。
「いや、そう思って彼女のボトルはかなり薄いのを用意させたんだが……。あるいは店の意地悪だったか」フェアチャイルドは全く何食わぬ顔で後ろのソファに座ってワイングラスを回していた。
エヴァレットは今にも貰いゲロを吐きかねない顔をして横で見守っていた。
「二日酔いが治る奇跡とか魔術ってない――」
「そんな都合のいいものあるわけないわよ」
「そんな都合のいいものあるわけないだろ」
ギグリとエヴァレットはほぼ同時に答えた。
クローディアはなぜかそこでまた吐き気に襲われた。精一杯えずいたが胃の中身は出てこなかった。
「み、水」
クローディアはエヴァレットが口元に寄せたビンを咥えて少しずつ水を流し込んだ。
「……いや、効くかもしれんな」フェアチャイルドが立ち上がった。
「二日酔いというのはアルコールによる離脱症状とホルモン分泌の不均衡などが複雑に絡み合った症状だからね、ひとつずつほどくように……」
フェアチャイルドは説明しながらこれまた装飾的な細い杖を取り出してクローディアのこめかみや首筋に当てて長い詠唱をいくつも唱えた。
クローディアはすぐそばでそれを聞いていたわけだが、ひとつひとつがあまりに長いし、それに酔のせいで頭がぼやんとしていて内容を上手く認識することができなかった。
何という意味の呪文だったのだろう……。
それでも術のおかげか少し頭が軽くなって、現実と意識の間に固く透明なフィルムが挟まったような違和感も少しばかり薄れていった。
フェアチャイルドは最後にクローディアの頭を撫でて髪の匂いを嗅いだ。
残念ながらそれを気色悪く感じる感性はまだ戻ってきていなかった。
クローディアはカーペットの上を這って壁に取り付き、目が窓の高さになるまで体を持ち上げた。
なんて憂鬱な気分なんだろう。
せめて自分の翼で飛んでいたらもう少しマシな気分だっただろう。この密閉された空気がいけないのだ。
オレンジ色の柔らかそうな雲の上に塔の重々しい歪なシルエットが突っ立ち、太陽を背にした長い影がその根本から横たわっていた。
「この景色を誰が作り出したか知っているかね」フェアチャイルドは訊いた。
クローディアは自分が訊かれているのだとわかったがすぐに答える気力はなかった。
「この娘、神話の内容は知らないわよ」ギグリが口出しした。
「人間でしょう」クローディアは声を絞り出した。
「あの塔も、この雲海も、そう、旧文明の産物だ。人類はこの星の核からエネルギーを取り出そうとした。その時長さ1000キロを超える竪坑を伝って噴出したのがフラムのもととなる重元素だった。その元素は自然に大気と反応して徐々に地表を覆いつくしていった。人類はその反応を止める術を持たなかった。結局元素の噴出を塞いだのはフラムそのものだった。旧文明は自分で始めたことの終わらせ方をとうとう見つけることができなかった。そして逃げることを考えた。大気より重いフラムが流れ込む地表と地中は選択肢にならなかった。上だ。だが塔に収容できた人口は全体の1割にも満たなかった。他の生き物の生存率はさらに低かった。人類はその文明の代償を後世のこの星全体に負わせたのだよ」
フェアチャイルドは奥のソファに戻った。
「我々はいつかあの雲の下に帰っていくべきだとは思わないかね。……いや、これは質問ではないな。つまり、私は信じているんだよ。今の文明、現代人の技術はいつか旧文明を凌駕することができると」
「フラムスフィアを消し去ろうというの?」
「あの塔、あの雲、今の人類にとっての世界を作り出したのは旧文明だ。我々にとって旧文明というのは、神のような、創造主のような存在なのかもしれない。創造主が与えた世界を変えることなど、壊すことなどできないという諦めが多くの現代人の思考に陰を落としている。旧文明すら制することができなかったこの雲を我々の手で扱うことなど到底かなわない、と。なぜ私がベイロン復興の足掛かりにエアレースを選んだかわかるか?」
「何?」
「エアレースには空と塔が不可欠だ。それはこの雲と塔の世界に贈る讃歌であると同時に、また旧文明への挑戦でもあるのだよ。現代の技術でどれほど広く、深く、この空を制覇できるのか。旧文明の知を忘れたからといって我々がその後塵を拝し続ける必要などどこにもない。旧文明の絶対視、塔という牢獄の甘受など緩やかな
「その言葉、私知ってるわ」
「ほう」
「彼は、でも、あなたのように傲慢ではなかった」
スピリット・オブ・エタニティは旋回を始めた。
旋回の内側にエリスヴィルの廃墟が見えた。それはまるで巨大な瓦礫だった。塔はぽっきりと折れて撓んだ甲板にしなだれかかり、甲板に突き刺さった先端部分も傾いて根本の部分によりかかるような具合だった。最下層甲板には上の甲板から降ってきたらしい破片が点々と沈み込んで建物を潰していた。中心部の煙突からは燻りのような煙が立ち上っていた。
ベイロンとはまるで違う。レースの会場となる飛行場の周りだけがあたかも花壇のように飾り立てられていた。
スピリット・オブ・エタニティはなめらかに高度を下げていつの間にか着陸滑走に移っていた。
レース開始まであと1時間。
誘導路には各チーム12の特設ガレージが並び、その向こうにダムのように立ち上がった客席の雛壇はすでに大勢の客でいっぱいだった。会場の様子を移していた方々のカメラは金装飾のタニンを見つけるなり次々とレンズを向けてきた。
会場は盛り上がっていた。人々は紙吹雪や花びらを投げ上げ、肩を組み、あるいは応援チームの違いや賭けの倍率で喧嘩をしていた。
甲板の外側にある駐機場には大きすぎてエレベーターに載せられない自家用機や団体のチャーター機が互いに翼端を触れんばかりに詰められていた。
地下の小型機用格納庫区画も同じようなものだったが、スピリット・オブ・エタニティはさらに下、かつての軍用区画まで下りて駐機した。
「あなた、人前に出られるでしょうね」ギグリが訊いた。
「大丈夫。だいぶ良くなったわ」
「ちょっと白いけど、いっそその方が印象がつくでしょう」ギグリはクローディアの顔を覗き込んでそう言ったあと、コンパクトを開けて刷毛で目の下にチークを乗せた。
クローディアとギグリ、それに前回のコンテスト優勝のディフェンディングクイーンと今回第1戦の勝利チーム(つまりシュナイダー機)についていたウィニングクイーンでフェアチャイルドを囲んでエレベーターに乗り込んだ。
甲板まで上がってドアが開くと太陽の光がなだれ込んで全員の顔を照らした。朝まで雨だったのによく晴れたものだ。
主催席までまっすぐに敷かれたレッドカーペットに踏み出すと観客の歓声がざぶんと波のように覆いかぶさってきた。
クローディアは客席の向かいに立てられた巨大なディスプレーに写された自分の姿に気づいた。
これが自分?
こういう顔立ち、こういう髪の色、こういう翼の色をしているんだ。こんな歩き方をするんだ。
第三者の目から見た自分を意識した。画面の中でギグリは方々に手を振り、でもかなり無表情なままどこかにフェアチャイルドを狙う輩がいないかきちんと見張っていた。
クローディアもギグリを真似して手を振った。振り方が様になるように時々画面を見て自分とギグリを比べた。
知っている人なんていないけど、適当に目が合った人に向かって振っているふりをすればいいのだろう。
この観客たちはどうなのだろう。旧文明を超える未来を望んでいるのだろうか。
それともこの世界を甘受しているだけなのだろうか。
諦めたことを忘れるために娯楽に興じているだけじゃないのか?
エアレースが与える解放の幻覚に酔っているだけじゃないのか?
フェアチャイルドがガラス張りの主催席に入って椅子に座ると、待ちかねたようにアクロバットチームが飛んできて展示飛行を始めた。
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