魔術と天使

 ラウラに会うのはカイにとっても初めてのことで、タールベルグの最上層に来るのも初めてだった。

 農業区画の温室の屋根を超える高さまで登ってくると横殴りに強風が吹きつけてきた。遮るものがないし、風が避けるべき広い甲板もないので広い空を吹き渡ってきた風がそのままの速さで突っ込んでくるのだ。風が吹く度にまるで塔が揺動しているような不安定な感触だった。

 飛行機で飛んでいる間ならもっと高い高度へだって上がることがある。生身だというだけでこの程度の高度で足が竦むのはなぜなんだ? とカイは思った。

 もしかして落下や墜死を恐れているのだろうか。生身ひとつで飛べる天使ならこんな恐怖も覚えないのだろうか。

 少なくともクローディアにはそんな気配はなかった。気持ち良さそうにずんずん登っていく。

 カイは寒くなってポケットに手を突っ込んだ。指の先に丸いものが当たった。そうだ、訊こうと思っていたんだ。カイはエレベーターの中で血痕から見つけた真珠のようなものをクローディアに見せた。

「これ、君が吐いた血の中から見つけたんだけど、何か大事なものじゃないのかい?」

「え? ああ、これね。別に大事なものじゃないわ」

「そう? なんなの?」

「痰みたいなものよ」

「痰?」

「人間だって『カッ』って吐き出すでしょ」

「おお……。そんな汚いものには見えないけど」

「天使はこういうのを吐くの」

「どうしてまた」

「さあ。痰だもの。生理的なものでしょ。いらないなら捨ててもいいわよ」

「そう言われてもな……」

 結局カイは真珠のようなものをポケットに戻した。


 見上げるともう上には数えるほどしか甲板がなかった。塔の先端そのものはまだ上空まで伸びているが、それでももうすぐタールベルグの最上階だ。温室に影を落としたくないのでそれより上にあるのは気象観測施設くらいのものだった。

 そして実際のところ目的の階まで登っていくと直径30mほどの狭い甲板に頑丈そうな小屋とトラス組みの鉄塔が並んでいて、鉄塔には気象レーダーや風車がくっついていた。

 しかし建物より存在感を放っていたのは大勢のカラスたちだった。カラスは小屋の棟や鉄塔の梁に大挙して並んで時折翼を広げて飛び立ったり「カァカァ」と鳴き交わしたりしていた。小屋の屋根や鉄塔の下は鳥のフンで白く染まっていた。

「ちょっと怪しい雰囲気だな」カイは言った。

「そうね」

 カイとクローディアが玄関扉らしき扉の前に立ってチャイムを探している間に扉は独りでに開いた。

「やあ、よく来たね。アルルが言っていたのは君たちのことだろ?」小屋の主――ラウラは戸口をくぐって軒の陰の外へ出てきた。

 ……魔女だ。

 30歳前後だろうか。長い黒髪で片目を隠し、妙にスリットの深い黒いワンピースを着ていた。綺麗な人だけど、ちょっと陰があって、たぶんそれが魔女的な印象を与えるのだろう。カイはそう思った。

「君がカイ、君が天使のクローディア。……なるほどね。その上着、脱いでもいいよ。ここは私以外人の目はないからね。別に寒くはないんだろ?」

 クローディアはファスナーの取っ手に手をかけたが少しためらった。

「いい警戒だね。でも私を紹介したのはアルルだよ」

 クローディアはジャンパーを脱ぎ、伸びをするように右の翼を伸ばして何度か羽ばたいた。

「ほぅほぅ、これは珍しいね。とても綺麗な色だ。私の好きな色だね」

 ラウラが手を差し伸べるとクローディアは翼の先をそこに触れさせた。

「いい艶だ。カラスの羽根にも引けを取らない美しさだね」

「ねえ、ラウラさん。あなたはどうして俺たちが来るのを知ってたんです?」カイは訊いた。

 塔には電話線が通っているが、タールベルグでは甲板の上の家同士をつなぐ回線までは整備されていない。500m以上離れた離れた中下層と上層でこんな短時間に連絡を取り合う手段はないはずだ。

「おおっと、私としたことが、天使に会うのが楽しみなあまり自分の名前も言ってなかったね。いけないね。そう、私がラウラだよ」

 ラウラは少し下がって髪を耳にかけ、それから小屋の屋根のあたりを探して1羽のハシブトガラスとアイコンタクトを取った。そのカラスは屋根の縁から飛び降りると翼を広げて滑空、ラウラの肩に着地した。「君たちが来るのはこの子が知らせてくれた。少し伝言も頼んだからね、名前なんかも知ってるってわけさ」

 カラスは少し前のめりになるとクローディアに向かって大きく嘴を広げて一声大きく「カア!」と鳴いた。

 クローディアはその音量にびっくりした様子で首をひっこめた。

「カラスと話せるの?」クローディアが訊いた。

「まあ、そんなところさ」ラウラは少し腕を揺すって、屋根に戻るようカラスに促した。「いくら寒くなくても風が鬱陶しいね。そろそろ中に入ろうか」

 

 小屋の中は壁中にメモ用紙が貼られ、棚という棚、窓枠にまで何らかの薬品のビンが並んでいた。奥へ入ると温室に似たガラス張りの部屋があり、暖かい日当たりの中に丸いテーブルが置いてあった。外の殺伐とした景色とはちょっと一線を画した雰囲気だ。

「ここで空を眺めるのが私の仕事さ」

「気象観測士、ですか」カイは呟いた。

「給料なしで仕事というのもおかしなものだけどね」

 ラウラは客人2人を座らせて爪の長い細い手で紅茶をカップに注いだ。

 カイはその間に商店街で買ったバゲットとパンの耳をテーブルに出した。

「アルルから頼まれました」

「うん。ありがたくもらっておくよ」ラウラは2つの袋をキッチンの調理台に置いて戻ってきた。「天使ってことはサンバレノから来たのかい? それともエトルキアのモグリか」

「……塔で暮らしていたのは小さい時だけで、憶えていないんです」

「ふうん」

 カイはクローディアが敬語で答えたことにちょっと驚いていた。単にカイに倣っただけなのか、それともラウラに対して何か感じるものがあったのだろうか。

「なるほど、そういうことなら君は紛れもなく異端だね」ラウラは言い直した。

「あなたは天使のことを知っているんですね」

「この島でなぜ私だけが、かい?」

「はい」

「サンバレノに行ったことがあるんだよ。まあ旅行みたいなものだったけどね。でもこの島の人間は外を知らない田舎者だし、天使がその辺を飛んでるような地域でもない。話したって私の気が狂ったと思われるだけさ。塔って生活様式は人間の情報通信をだいぶ弱らせてしまったみたいだね」

 ラウラはクローディアの目をじっと見つめた。本題に入ろう、とラウラの赤い目は言っていた。

「私、奇跡が使えなくなってしまったんです」クローディアは言った。

「ふうん。輸血でもしたのかい?」

「え?」

「そのケガの様子を見れば察しがつくよ。それに天使が能力を失うとくれば真っ先に思い浮かべるのは人間との交わりだね。で、能力を取り戻したいわけだ」

 クローディアは頷いた。

「待っていて薄まるものでもないだろうし、それなら脱換だっかんだろうね。私がわかるのはそれくらいだ。サンバレノにはその手の奇跡もあるかもしれないが、あの国の性格を考えるとあまり普及させていないんじゃないかな。むしろ君をケガレとして切り捨てる方へ傾きそうなものだ」

 ケガレ、と聞いてクローディアはかなり嫌な顔をした。「脱換?」

「血を入れ替えるんだ。全身、丸ごと。おや、姉さんに聞いてないのかい? それなら彼女の方が思いつきそうなものだけど、もしかしてあまり現実的な方法じゃないと思ったのかな」

「現実的じゃないって?」

「全身入れ替えるんだ。しかも新しい血は全部天使のものでないといけない。そんな数の天使、しかも血液型の同じ天使を集めるなんて、サンバレノでもないとできないはずだ。エトルキアなら技術はあるだろうけど、頭数が揃わないよ」

「結局、どこへ行けば一番治せる可能性があるんです?」

「私の知識にも限りがあるからね。妄信されても困るけど、まあエトルキアの魔術院ってところじゃないかな。天使の血じゃなくても、人の血から完全に魔素まそを抜く方法くらいは知っているかもしれない」

 

「ところで輸血が奇跡の発動を妨げる仕組みはわかるのかい?」ラウラはクローディアに訊いた。

「いいえ、何となくそう思っただけ」

「じゃあ、魔術の仕組みは?」

「いいえ」

 ラウラは溜息をついた。

「私はさっき魔素と言ったね。古い言葉で言うとナノマシンだったか。言ってみれば極小の虫さ。牛や鳥の胃の中だとかに消化を助けるための微生物ってのがいるじゃないか。イメージとしてはそんな感じさ。魔素はエネルギーを抱えて血管の中を流れているんだ」

 ラウラはそこで腰のホルダーから杖を取り出した。ペーパーナイフを少し分厚くしたような木製の杖だった。

「で、肝心なのが触媒さ。杖のことさ。こいつも一種の魔素に浸してあるんだが――『一種』というのも語弊があるか、数種類だな――、そいつは血中の魔素と違ってエネルギーを保持することができない代わりに出力様式を選ぶことができるのさ。私が詠唱すると出力魔素は私の血中魔素から電磁波でエネルギーを受け取って、詠唱に応じた方式で出力する、というわけだ」

 ラウラは杖を目の高さに翳して「フュール(火よ)」と唱えた。

 すると杖の先端にやや空間をおいてライターほどの炎が出現した。小さな陽炎がゆらゆらと揺れていた。

 ラウラはテーブルに置いてあったロウソクに杖を近づけ、芯に火が移ったところで杖の握りを少し緩めて炎を消した。

 ロウソクからはバラのような甘い香りが立ち昇り始めた。

「カラスと話せるのも魔術?」とクローディア。

「広く言えば、そうさ。ただそういった能力スキル系のものは製剤といって、薬を作るんだ。触媒を使ってさらに魔素を操作するなんていうちょっと複雑な工程が必要になるんだよ」

「薬を飲むの?」

「飲んだり、打ったり、塗ったり、色々だよ。でもね、薬を使ったってカラスが他人の言葉で話しているように聞こえるなんてことはあり得ないね。なにせカラスは言葉を持たないからね。翻訳なんてこともしようがないのさ。私の場合はただ彼らの感情と意思の動きにとても鋭敏になるようなブーストをかけて、イエス・ノーで答えられる質問をぶつけているだけさ。名前なんてのはそれこそ手紙を足に結ばせてもらったんだ。そうでもしないと彼らは伝えられないからね。それでも魔術なんか使わない彼らの方がよほど人の言葉を理解しているよ」

 クローディアは窓の外に群れるカラスたちをしばらく眺めていた。強い風で時折カラスの羽根が捲れて軸の白いところが見え隠れしていた。

 そういえばこの高度、この風なのにラウラは薄着で外に出てまるで寒そうにしていなかった。

「寒さ対策の薬も飲んでますね」カイは気づいたことを口にした。

「うん。いい勘だね。私は厚着が嫌いなんだ」

「ああ、そういえば」とクローディアも頷いた。

「魔術に適性があるのは魔素の量やキャパシティに個人差や遺伝があるから、魔薬ポーションが割と人を選ばないのは効果が血中魔素に依存しないからだろうね。さて、私の言いたいことがわかったかな?」

「奇跡もまた方式の違う魔素……のようなものを媒介としていて、魔術の魔素の出す電磁波がその機能を妨げてしまう。そういうこと、かな」カイは言った。

「ふうん。半分正解ってところかな。私も聞いた話で確かなことなんて言えないんだけど、奇跡が媒介とするのはどうも神経細胞らしいよ。本当かどうかはわからないけどね。だからおそらく魔素の信号やなんかが奇跡に悪影響だってのは当たっているんじゃないかな」ラウラはそこで杖を仕舞って立ち上がり、一度前室の方へ姿を消した。今も何かしら製剤の途中だったのかもしれない。

「そうそう、クローディア、君は薬もやめておいた方がいいよ。残念だけど私じゃ天使にどんな影響があるのかよくわからないからね」

「はい。気を付けます」

「そろそろ帰ります」カイは席を立った。「ごちそうさまでした」

「姉さんによろしく頼むよ」ラウラは見送りにパンの耳の袋を持って外へ出て、集まってきたカラスたちに中身を手渡しで与えた。

「アルルとラウラさんはどういう関係なんですか」カイは訊いた。

 するとラウラは声をあげて笑った。なんだかどこかで聞いたことのあるような笑い声だった。

「姉さん、姉さん、って呼んでるじゃないか。私の実の姉がアルルだよ」ラウラは片目に垂らした前髪を掻き上げてそのまま耳の上で押さえた。生え際のところがわずかに黄色くなっていることにカイはようやく気付いた。髪を黒く染めていたのと眉の整え方が違うので顔立ちが似ていることに気づかなかったのだ。アルルより年上に見えたのは化粧っ気がなくて目の下にクマができていたせいだろう。

「てっきりそんなことはとっくに知ってるもんだと思って話を進めてたよ」

「クローディアは気づいてたのか?」

「どうかしら。そんな気はしたけど」

「それは……なんというか……」

 カイは変な焦りのようなものを感じて少し顔を伏せた。

「忘れ薬のようなものは――」

「そんなものないよ。せいぜいその辺の柱にでも頭を叩きつけてみるんだね」


 2人ラウラの小屋を背に階段を下り始めた。

「エトルキア、か……。でもあの国も一枚岩じゃない。こっそり入り込むことができれば魔術院にも話の通じるやつがいるかもしれない」カイは言った。

 クローディアは少しためらいながら頷いた。「そうね。上手く潜り込めればなんとかなるかもしれない。囚われているのとは違うんだものね。そうよね……。飛べるようになったらエトルキアに行くわ」

「俺も行くよ。君を連れていく。飛行機が手に入れば回復を待たずに飛べるし、きっと人間の方が動きやすい」

「そうでしょうけど……」

 クローディアの言葉をかき消すように空気が震え始め、1機の軍用機が上空に現れた。

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