死を待つ人々の島

 カイがナイブスの初飛行を終えて旧飛行場に着陸した時、ミルドは駆け寄ってきてまだ機体が走っているうちにコクピットの真横に飛びついた。

「すごいよ。こいつのレスポンスの良さは異次元だぜ」ミルドは興奮してまくしたてた。「見てただけでわかるって。機首の向きがカクカク変わるんだ」

「ああ、それは操縦してても感じたよ」カイも答えた。「ありがとう。おまえが手伝ってくれなきゃ、こんないい仕上がりにはならなかったぜ」

「いいってもんよ。俺の機体を手伝ってくれたお返しだよ。――それにさ、飛んでる姿がトラクターとは全然違うんだ。これがベイロンで飛んでみろよ。そりゃあ目立つぜ。すごいだろうな」

「ああ、俺の飛行機だって一発でわかる」

 ミルドは頭の中でちょっと方角を考えてベイロンの方を指差した。やや大気が霞んでいて隣の塔さえ白いシルエットにしか見えない日だった。それがむしろ想像を駆り立てたのかもしれなかった。

「行こうぜ。これでお前もいっしょに行けるさ」ミルドは言った。

 ほんの4日前の出来事だった。


―――――


 手術が終わったところでクローディアの左翼は創外固定部をぐるりとテーピングされ、その上から包帯を巻いて翼全体が収納状態になるよう留められていた。

 しかし多少は人目のある中層を通るのに天使の翼が剥き出しでは目立ちすぎる。アルルはさっき自分で着ていた赤いジャンパーをクローディアに貸し与えた。それを羽織ると翼の存在感はほとんど消えてしまって、一目で「天使だ」と思われることはなさそうだった。よほどジャンパーそのものの色の方が目立っていた。

 カイとクローディアが診療所を出たのは正午過ぎだった。その頃にはぼちぼち普段のお客がやってきて薬を待っていたのでアルルは短い見送りしかできなかった。


 朝の霧はすっかり晴れて青空が広がっていた。クローディアは物干しの横まで歩いていって物珍しそうに辺りを見回した。

 そうか、彼女がタールベルグの全貌を見るのはこれが初めてなんだ。カイは気づいた。

「タールベルグ。俺の生まれ育った島だよ。向こうに霞んで見えるのがフォート・アイゼン。君はあそこでネズミを追っていた」カイは左の方を指して言った。

 頭上にはまるで空を蝕むように中層の広大な甲板が黒く広がり、その影は数階層上までの甲板をすっぽり暗く覆い隠していた。甲板の端を支えるための半アーチ形の太い支柱が最下層より下まで伸びている。

 甲板の端から下を覗くと旧滑走路とその真ん中に鎮座する飛行機の残骸が見えた。

「あれがカイの飛行機?」クローディアが訊いた。

「そう。少し上に見えるのが俺のガレージと、その横が家」

「飛行機、直りそう?」

「いや、無理だと思う。部品取りにするのがせいぜいってところだろうね」

「それはごめんなさい」クローディアは右手で手摺に寄りかかったまま謝った。

 カイはちょっと意表を突かれた。

「君ってそんなふうに謝るんだ」

「さっきは本当に取り乱してたのよ」

「いいよ。それなら。時間はかかるけど、また作ればいいんだ」カイはエレベーターに向かって歩き出した。「ああ、そうだ。少し寄り道をしたいんだけど、いいかい?」

「いいけど……?」

 カイはエレベーターに上がる階段を通り過ぎて同じ階層の道をまっすぐ進んで塔を半分ほど回った。

 その道の塔側には民家が並んでいたがほとんど空き家、あるいは廃屋で人気はない。その並びにあって黄色い家は少し目立っていた。最近壁を塗り替えたのだろう。ミルドの家だった。

「ここで少し待ってて」カイはクローディアを隣家との路地に置いてミルドの家のチャイムを鳴らした。

 家の中で走る足音が響き、いささか勢いよく玄関扉が開いた。

 期待に満ちていたミルドの妹の表情はカイの姿を確かめた途端に絶望の色に変わった。ミルドと同じ小麦色の髪。長い髪。ミルドと同じ灰色の瞳。ミルドの唯一の肉親、歳は3コ下、14。

 そう、クローディアを見た時、モルと同じくらいの歳だな、と思ったのだ。

「カイ……」ミルドの妹――モルは呟いた。そして何かを悟ったように震える息を吐いた。

「ミルドは死んだよ」カイは言った。こういうことは手短に言わなければならない。そういう信念だった。

 モルの唇はしばらくわなわなと言葉を探していた。

「そう、そうよね。昨日帰ってこなかったんだもの。わかってたわ。どうせ墜落して死んじゃったんでしょ」

「ああ、ただ……」カイは憚った。詳しく話すべきだろうか?

「言って。聞くわよ」

「レース中じゃなかった。空軍がレシプロ機を出してきて、コースの中まで追ってきたんだ。それでも逃げきれそうだったさ。ミサイルに気を取られたんだ」

「じゃあ兄貴は空軍に殺されたようなものね」

「ああ」

「レースに心血注いで、結局人間に殺されちゃうなんて、バカな兄貴ね。ほんと」

 カイはしばらく何も言ってやれなかった。「ごめん。俺も必死で、形見になるようなものは何も」

「形見なんていらないわよ。そんなバカ兄貴の形見なんて」モルは強がって虚ろな目で明後日の方向を見つめていた。「ねえ、カイは死なないでね。そんなことになったら私が知ってる人は誰もいなくなっちゃうんだから」

「ああ」

「伝えてくれてありがとう」モルは「もう早く1人にして」といった感じで言った。

 カイが一歩下がるとモルはゆっくりドアを閉めた。

 カイはその場でしばらくぎゅっと目を瞑ってから踵を返した。クローディアは家の角から様子を窺っていて、カイが歩き出すとそのあとに続いた。

 カイはクローディアが助かったことを初めて少しだけ疎ましく思った。彼女が死んでミルドが生きていたら……。 

 そんな想像をしてしまった自分に嫌気がさした。


 二人はエレベーターの前まで何も言わずに歩いた。ケージは珍しくその場にあった。診療所の客が誰か乗ってきたのかもしれない。柵を閉めて中層を目指す。

「あいつ、普段はあんなじゃないんだ。底抜けに明るいんだよ。ミルドとその上にもう一人兄貴がいたんだ。それもレースで亡くして、とうとう一人になっちまった。でも俺には慰めてやる資格なんかない。俺がレースに誘ったようなものだからな」

「彼――ミルド? 友達だったのね」

「そう、そうだよ。ごめんな。わからないよな。説明してなかったものな」

「カイ……」

「ミルドはエアレースの仲間だったんだ。さっき見せた俺の飛行機、あれもエアレースのための機体さ。練習では方々の島から仲間が集まるんだけど、ミルドはこの島では唯一の仲間だった。昔はもっとたくさんいたんだ。俺と同世代の仲間が10人はいた。でも他の島へ移るとか、軍隊へ入るとか、もちろんレース中に死んだ奴も多くてさ、最後に残ったのが俺とミルドの2人だったんだ」

「……バカ、か」クローディアは呟いた。

「ああ、大バカ者だよ。俺も、あいつらも」

「なぜそこまでして、命を賭けてまでレースに打ち込むの?」

「君にとっては敵だろうけど、ベイロンって都市はエアレースの元締めみたいなところでね、方々で予選をやってるんだ。そこでいい成績を出せば公式レースに出て、トップレーサーになれば名誉が手に入るのさ」

「聞きたいのはなぜその名誉を手に入れなければならないのかってところなんだけど」

「それは……それが誰かの希望になるからだろうな」

「希望?」

「俺の父さんはトップレーサーだったんだ。10年くらい前に事故で死んじゃったけどね。でも父さんは俺に希望を与えてくれた。それはすごいことなんだ、飛ぶのは楽しいことなんだって。もちろん飛ばなくたって、レースなんかしなくたって生きていける。でもそれはたぶんつまらないことなんだ。世界を見てごらんよ。空は広い。なのに人間は塔に閉ざされていて、人間という種族は間違いなく絶滅に向かっている。それでも、俺はさ、緩やかな死を受け入れるんじゃなく、あえて目の前にある死に立ち向かって何かを成し遂げようとした人間がいたんだってことを誰かに聞かせたいんだよ」

 カイは語った。ケージの向こうには永遠の空が広がっていた。


 ケージが中層に着くと視界は一段と明るさを増した。中層より上に大きな甲板はない。多少工場の煙に遮られてはいるが、真上にある太陽が燦々と降り注いでいた。

 目の前に広大なヤードが広がり、そこに有象無象のスクラップやプラスチック片が積み上げられ、その向こうは滑走路、手前の塔側は工場のプラントが密集している。

 資源再生プラントのゲートに昼飯の屋台があって、カイはその周りに集まっている同僚のおやじたちを見つけた。

「カイ、どうした、寝坊か?」相手の方もカイを見つけて声をかけた。

「いや、今日は上層に用があるんだ。仕事は休むよ」

「あとになって無心なんかするなよ」

「わかってるよ」

 カイはできるだけ遠巻きにゲートの前を通過した。

「ちょっと荒っぽいけどさ、いい人たちなんだ。あの飛行機もずいぶん手伝ってもらったからね」

「スクラップから材料を探して作ったの?」

「そう。時々状態のいい飛行機そのままの形で入ってくるやつがあってさ、そういうのをベースにする。あそこ、見えるかな、工場の横にクレーンがあって、そいつで下まで部材を降ろしてもらうんだ」

 甲板の外縁側には滑走路が広がっていて、30分に1,2便は貨物機が発着していた。方々の塔の基盤機能で処理できない大物の廃棄物、特に金属や石油製品はタールベルグのようなヤード島で再資源化処理を受けることになる。貨物機はタールベルグにゴミを積んできてインゴットに積み替えて飛び去って行くわけだ。

 この時もちょうど1機のスフェンダムが目の前の滑走路に向かってアプローチしていた。東風なので進入は西から。フラップと着陸脚を下ろし、前脚につけたライトを灯して近づいてきた。

 接地と同時にタイヤから煙が舞い上がり、甲板全体がぐらりと揺れた。いくら頑丈な塔と甲板でも一度に500トン近い重量がのしかかればさすがに負荷がかかる。

 スフェンダムはゆっくりと減速しながら二人の前を通り過ぎた。エンジンの轟音が耳をつんざき、乱流によるものすごいつむじ風が襲い、機体の揺れは足元を震わせた。

「大丈夫なの?」クローディアは少し声を張って訊いた。

「何が?」カイも叫び返した。

「危なくないかって。甲板が落ちたりしないの?」

「わからない。明日落ちるかもしれないし、あと50年持つかもしれない」

「それでいいの?」

「ここってそういう島なんだよ」カイは笑った。いつの間にか笑えるくらい気分がよくなっていた。

 工場の間に入ると商店街だった。乾物屋や雑貨屋が並んでいる。タールベルグの中心街と言っていい場所だった。

「この島の人って大体ここで買い物をしていくんだ。帰りにここで新しいジャンパーと食材を買っていこう」カイは言った。「何が食べたい?」

「魚がいい」

「ああ……、いいよ」

「どうしたの?」

「この塔、魚の養殖施設が死んでてさ、自分で生簀をやってるがめついオヤジしか魚を売ってないんだ」

「高いのね」

「うん。肉の方がずっと安いよ。でも今日は魚だ。マスを買ってムニエルにしよう」


 パン屋に寄ってアルルに頼まれた手土産のバゲットとパンの耳を買い、塔に向かって歩いた。

 下層より上層の方が甲板が狭い関係で、上層行きのエレベーターは全て塔本体の壁に設置されていた。ケージの造りも下層より都会的だ。きちんと内壁と外壁が分けられ、ガラス窓がついていた。扉が閉まるとケージの中は妙に静まり返ってしまった。

「仕事、行かなくてよかったの?」クローディアは訊いた。その声はツグミの鳴き声みたいに綺麗に聞こえた。

「きちんと言っておけば平気さ」

「ずいぶん緩い、というか、牧歌的な場所なのね」

「インフラも食べ物も基本的には塔が供給してくれるからね。ものを売る人たちもそれを牛耳っちゃだめだってわかってるんだ。だから結構物々交換があるし、お金はあくまでその人にしか作れないものに対して出すものだって、この島の人たちはそういう考え方をしてるよ。――まあ、魚屋のオヤジは別として」

「塔の機能は誰が管理しているの?」

「えっ?」とカイ。まさか、それを知らないのか?

「ええと、私の生まれたところでは奇跡頼みだったから……。でもここには天使も奇跡もないんでしょう?」

「そうか、なるほど……」カイは少し考えた。「塔を管理しているのは塔そのものさ。旧文明の人たちがとても複雑なプログラム、AIというのかな、そういう機械を作り上げて、その先長い間自分自身を、そして自分の上に住む人間たちの生活を守るように命令したんだ。水や地下資源を汲み上げるのも塔の機能だよ。本当は塔のことをよく知っている人たちが生き残るべきだったんだろうけど、そうはならなかった。逃がされた今の人たちは旧文明の人たちの技術を理解できなくて、整備の仕方もわからなくて、ただその上に乗っかって呑気に生活しているだけなんだ」

 カイは目の前のガラスに近づいた。防眩仕様のやや黒いその平面に自分の顔が映った。青みがかった灰色――青毛というのが適当だろう――の髪、目は青いがクローディアほど深い青ではない。

「この塔は確かに死にかけてる。でも完璧な塔というのはきっと人間の創造力をむしろ奪ってしまうんだ。人間は塔に生かされている。でも生かされているようで、本当は何もできない弱い生き物に変えられて、じわじわと絞め殺されているだけなのかもしれない。それは本当はとても怖いことなんだよ」

「緩やかな死、あなたさっきもそう言ったわね」

「そうさ」カイは肩を竦めた。「君に会えてよかったよ。世界にはまだ知るべきことがあるんだ、可能性があるんだって思えた。あんなぶつかり方じゃなかったら、もう少しよかった」

 エレベーターのケージは工場の煙突群の高度を超えた。煙突の口が眼下に見え、中層甲板が股間の竦むほどの距離感になってくる。カイはすでに何度か耳抜きをしていた。

「ねえ、高度は感じないの?」カイは訊いた。

「減圧ってこと? そうね。感じるけど、大したことはないわ。人間はこのくらいの高度だと辛くなってくるの?」

「急に1000メートルも変わればどの高度でもキツイよ。まあいくら慣らしたところで生身で6000メートルを超えるのは辛いだろうね」

「私の生まれたところはだいたい1万メートルだったと思うわ」

「それは……すごいな。アルルの話は本当だったんだ」

 間もなくケージが減速した。最上階だ。高度3000m弱、野菜や穀物の生産、牧畜を行うための温室が広がっている。単にイメージの問題だろうけど食糧生産設備はどの塔でもだいたい最上層に位置している。

 ただしそこが目的地ではなかった。ラウラの家はさらに上だという。もうエレベーターはないので塔の外壁に取り付けられた階段を上っていかなければならない。

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