ミューチュアル・イントロダクション
アルルの診療所は個人の家としてはタールベルグでは比較的大きな部類で、表から待合室、診察室、病室、手術室、放射線防護室、納戸と設備が並び、廊下の突き当りにある階段を上って2階にキッチンやアルルの部屋など生活空間が乗っかっていた。
カイは日の出前に病室のベッドで目を覚ました。
瞼の裏に炎上するミルド機の光景が焼き付いていた。
昨日の出来事は現実だったのか?
カイは起き上がった。
天使はまだうつ伏せのまま向かいのベッドで眠っていた。貫頭衣で背中は隠れているが、黒い大きな翼がベッドの両脇に垂れ下がっていた。
現実か。
目覚めというのはいつもそうだ。満たされたものを奪い去り、取り返しのつかない現実を突きつける。
はあ。溜息。
カイは血の浸みたジャケットとズボンを持って下層にある家に戻った。道やエレベーターのケージには天使の吐いた血が残っていて、せめてエレベーターだけでも綺麗にしておくかと思ってウェスを持ってきて鉄板の床を拭った。
すると半ば固まった血の中に何か小石のような硬いものが混じっていることに気づいた。血を拭ってみると指先で抓めるほどの大きさで形はほぼ真球で真珠のような光沢があった。何か飲み込んでしまったのだろうか。一応とっておいた方がいいだろう。あとで訊いてみよう。
カイは一式新しい服に着替えて飛行場を見に行った。空気は氷のように冷たく、深い霧がかかっていた。
ナイブス――カイのハンドメイド機はそのまま滑走路の真ん中に放置されていた。機体後部は黒焦げになり、プロペラは花びらのように曲がり、垂直尾翼は両方とも脱落していた。無事なのはコクピット周りだけだ。むしろそのあたりの外板が真新しく磨き上げられているのが違和感を催すくらいだった。エンジンを積みかえればまだ飛ぶかもしれない。だが機体構造が歪みまくっていてろくすっぽまっすぐ飛ばないだろう。スクラップだ。お披露目の前に何度か試しに飛ばしてはみたが、結局まともなフライトは仲間内の1回きりになってしまった。
カイは主翼に上って内翼の燃料タンクが焼けていないのを確かめた。スロットルを切っていたので火が回らなかったようだ。エンジン回りの外板の剥がれ方を見ると胴体タンクの方は爆発していた。こっちはだめだ。
ドラム缶とサイフォンポンプを持ってきて主翼の給油口から燃料を抜き取り、一応の保安措置を済ませた。カイはそのまま翼に座って死んでいった仲間たちにしばらく思いを馳せた。
カイがいくらか食料を持って診療所に戻ると、アルルは表の物干し竿に手術衣やシーツを干していた。赤いジャンパーを着ているのでエレベータを降りたところから見てもすぐにわかった。
「あの子は?」カイは訊いた。
「まだ寝てるわ。――ねえ、何を持ってきてくれたの?」
「ベーコンとソーセージ、卵と食パン、あとはリンゴ。今日明日食べようと思ってたんだ」
「いいの?」
「缶詰でも何とかなるさ」
「いいわね。じゃあそれで朝ごはんにしましょう」
2人が話しながら診療所に入ると奥から物音が聞こえた。
「あ゛っ……っった!!」
それはきっと天使の叫び声だった。
2人は足早に病室に入った。
天使は部屋の隅に背中を押し付け、片足をベッドにかけてまるで追い詰められたネズミのように脱走するタイミングを推し量っていた。それでも天使の右手はそろそろと左肩に伸び、それから左の翼に触れようとしていた。先ほどの叫びは腕か翼を無理に動かそうとして痛みが走ったせいだろう。
「恐がることないわ。私たちがあなたの傷を手当てしてあげたんだから」アルルは笑いながら言った。
「エトルキアか、ベイロンか」
「え?」
「私を追ってきたんだ」
「違う違う。どちらかというとエトルキアだけど、その手の者ってわけじゃないわよ」
「中立」カイはアルルの説明に付け足した。
「そうね、中立。この島はエトルキアの領域にあるけど、人口が少ないから軍事務所や行政機関も置かれていないの。エトルキアともルフト同盟とも同じくらい、それこそベイロンとも交流があるし、本当に中立」
天使は「むーう」と息をついて少し力を抜いた。
「あなたの顔、どこかで見た」
天使の透き通った青い目がカイを睨んでいた。
カイは持っていた袋をゆっくりと壁に立てかけた。
「そのケガは俺のせいだ。だからここまで連れてきた」
それを明かせば相手は自分を恨むだろう。だが伏せておいて禍根を残すよりマシだ。カイはそう考えた。
「ケガ? そうか、あの飛行機の……」
天使はカイを睨んだまま、カイはその目を見返して拳を握り締めたまま、何も言わずに固まっていた。
「ねえ、まあ、その姿勢も傷に触るから、とりあえずベッドに戻ったら?」
アルルがそう言ったので天使は再び息をついてベッドの縁に座り、右の翼を広げ、また閉じ、それから垂れ下がったままの左翼を見て、添え木の上から2ヶ所の骨折部位に触れた
「骨が折れてるのよ。今日はレントゲンを撮って、それからきちんと固定しましょう」
「平気、これくらい治せるから」
「治す?」
天使は右手を左腕に当てしばらくそのままじっとした。
カイとアルルは何が起こるのかと注意深く見守っていたが、視覚的にそれらしいことは何も起こらなかった。
もしかして彼女の中では静かに骨折が修復されているのだろうか?
だが違った。
天使は右手を見下ろして閉じたり開いたりした。そして壁に向かって掌を突き出したが、やはり何も起きなかった。
天使は唖然とした表情で顔を上げ、「使えない……」と呟いた。
「使えないって、何が?」アルルが訊いた。
「奇跡」
「奇跡?」
「うん。天使にはそういう力があるの」
「奇跡って魔術とは違うの?」
「違うわ。全然違う。魔術ってただの旧文明のロストテクノロジーのことじゃないの」
「そう、知らなかったわ。天使って、あなたが初めてだから」
「どうしよう、奇跡も使えないなんて、それじゃエンジェル以下、ただの羽根の生えた人間じゃない」天使は真っ青になって手で顔を覆った。
「今はとても体力が減っているから使えない、というんじゃなくて?」
「ない。今までそんなことなかったわ。ねえ、どんな治療をしたの?」
「背中がざっくり切れていたからそれを閉じて、出血も酷かったから輸血をして、骨折はまだ特に何も」
「じゃあきっと輸血だわ。人間の血を入れたんでしょ?」
「奇跡の仕組みってよくわからないけど、血が重要なファクターなのかしら」
「放っておいてくれればよかったのに。そうすれば全部自分で治せたのに。ケガさせて、気絶させて、その間に余計な治療までして、もとはといえば全部あんたがぶつかってきたからじゃないの!」
天使はベッドに乗り出してまたカイを睨んだ。
カイは息を吸った。「そんなのわかるわけないだろ」と怒鳴り返したかった。天使の治療の仕方も、命の刻限も、それにそもそもあの時通路の脇から飛び出して来ることだって予見のしようがなかった。わかるわけがない。だが必死で気持ちを押さえた。
「それは彼もわかってるわ。でもね、避けられる状況で避けられないほど下手なパイロットじゃないってことは私にもわかるわ。あなたの方で衝突を避けることは絶対に不可能だったの?」アルルは間に入って至って落ち着いた調子で訊いた。
天使は興奮で紅潮させた顔を伏せた。
「ネズミを追いかけてて……」
「ネズミ?」
「食べようと思って」
「建物の中に飛行機が入ってくるなんて思わなかったのね?」
「……うん」
「それならおあいこってことで流してあげなさいな。彼だってね、まあ、あなたみたいにケガをしたってわけじゃないけど、あなたのせいで完成させたばかりの新しい飛行機をオシャカにしたんだって、咎めることはできるんだから」
天使は今度は呆気にとられた目でカイを見た。よく表情が変わるものだ。カイはアルルが言ってくれたおかげで自分の憤懣が収まっていくのを感じていた。
「あなたは自分でも信じられない災難が降りかかって取り乱していただけ。今の状況を落ち着いて考えれば、きっとそういう言い方はできない。そうでしょ?」
アルルの言葉には微妙な軽蔑と脅しが含まれていた。
そう、天使に輸血したのはアルルだ。治療のことをとやかく言われて一番ショック――というか侮辱――を受けたのは自分ではなくアルルだ、とカイは気づいた。
「私はアルジェント・クレスティス。みんなにはアルルって呼ばれてるわ。彼はカイ・エバート。あなたは?」
「私の……名前?」
「そう」
「クローディア。でも
「それって名前じゃないわね。あなた次第だけど」
「じゃあクローディア」
「いいわ。お腹空いてるでしょ。とりあえずごはんにしましょう」
カイは2階のキッチンで持ってきた食材をフライパンにかけてベーコンエッグとトーストをつくった。
その間にアルルはクローディアの服を見繕ってきた。それはグレーのだぼだぼのセーターとウエストのボタンが縦にいくつも並んだハイウエストのジーンズで、カイが見たところ、上はともかくジーンズの方はとてもアルルの下半身が収まるサイズではなかった。
「アルル、そんなズボン持ってたっけ?」
「失礼ね。子供の時のやつを取ってあったのよ」
「別に失礼なことは何も言ってないでしょ」
ジーンズがハイウエストなのは腰回りを隠すためだ。セーターが長いので前は隠れているが、後ろは翼の付け根に引っかかってそれでも背中が少し見えていた。きちんと翼のところが開いたものでないと天使の体に合った服を選ぶのは難しそうだ。左腕は首から三角巾で釣って袖には通さず服の中に入れていた。
クローディアは食卓に着くなり何度も涎を飲み込みながら支度ができるのを待っていて、3人で手を合わせるなりものすごい勢いで食べ始め、ベーコンエッグもトーストもまるでシュレッダーみたいな早さで完食してしまった。カイもアルルもその光景に見入っていて、アルルは「先にリンゴ剥こうかしら」とトーストを2口食べたところで席を立った。
「卵、もう2つくらい食べるかい?」カイも訊いた。
クローディアは少し恥ずかしそうに頷いた。
カイはもう2つ目玉焼きを作って再び席に着き、今度は少しゆっくり食べ進めるクローディアを眺めた。全く早食いが似合わない痩せた体で、顔も小さく、目は発光しているんじゃないかというくらい濃い青色をしていて、黒髪は首元くらいまでの長めのボブだった。
右翼は綺麗に畳んで背中にぴったりとつけられ、今までのイメージよりずっと小さく見えた。本人が小さく畳もうとすればそれなりにコンパクトになるものらしい。
髪と翼は同じような光沢があって、確かにその質感はカラスの黒い羽根に似ていなくもなかった。さっき上がってきた時の感じだと身長は150cm台半ば、歳は14歳といったところじゃないだろうか。
食後カイはテレビを流しながらコーヒーを粉から淹れた。クローディアはチャンネルを回してルフト公共放送(LRF)のスポーツ局で止めた。ベイロン公式エアレースの表彰式の映像で、選手たちがレースクイーンに渡された発泡酒をこれでもかと振って互いに頭の上でぶちまけたりレースクイーンにかけたりしていた。若干痴情じみた映像だった。
「このあいだのシリーズ初戦さ。1位になったシュナイダーってパイロット、ベテランでね、ルフトの独立前はエトルキア空軍にいて、俺の父さんの同僚だったんだ」
クローディアはぼーっと画面を眺めていたが、少し経ってからカイを振り返った。
「あなたの飛行機もレーサーなの?」
「まあね。でも俺はまだ試合には出たことはないよ」
「あなたもあそこに立ちたいの?」
「どうして?」カイは答えるより訊き返してしまった。クローディアの問いかけに微妙な含みを感じたからだ。
「いいえ、別に。少し気になっただけ」クローディアはそう言って次の局にチャンネルを回した。
カイは少し考えたあと、ベイロンはクローディアを手に入れてレースクイーンにするつもりなのかもしれないと思った。彼女をマスコットにすれば視聴率のテコ入れになるだろう。連中の狙いは興行収入だ。
クローディアはかなりがっついて朝ごはんを食べていたけど、体重はそれでもなんと25kg弱だった。人間でいえばたとえ子供だとしても痩せすぎだ。というのも食事のあとX線写真を撮ろうということで1階の放射線防護室に連れて行ったのだが、その時アルルがさりげなく体重計を置いておいて、「まずはこの上に乗って」と促したのだった。
自分の半分以下じゃないか、というのがカイの抱いた感慨だった。それだけ軽かったらレーサーとしても有利だろうな、とどうでもいいことも思った。
「どうして体重を測るの?」クローディアは訊いた。
「麻酔とか薬とか、その投与量に色々と関わるところだから」とアルルはしれっと答えたが、どちらかといえば興味本位で測ったのだろう。
手術室で待っているとアルルは現像したX線写真を持って妙に楽しそうに入ってきた。
「ねえ見て、これすごいわよ。まるで肩がもう一対あるみたいなの」と言いながら照明板にフィルムを差し込み、「天使の体ってこんなふうになってるのね。これが肩甲骨で、こっちが翼の方のいわば上腕骨と肩甲骨、それに鎖骨で……」と指で差しながら説明した。
「それで、骨折の方は?」とクローディアが訊いた。
アルルは咳払いしてもう2枚写真を差し込んだ。
「腕の方は1ヶ所ぽっきり割れてるわ。このまま固定しておけば綺麗につながるでしょう。翼の方は残念だけど2ヶ所、ちょっと斜めにいってるわね。ボルトで留めた方がいいでしょう」
「ボルト?」クローディアはかなり気色の悪そうな顔をした。
「骨がつながるまで金物で固定しておくの。翼の羽根って生え変わるの?」
「うん。この辺のもさもさした羽根は何ヶ月かすれば生えてくるわ。風切り羽は年に1回だからできれば抜かないでほしいけど」
「それなら綺麗に戻ると思うけど、それとも適当にくっつけておいて、奇跡がまた使えるようになったらそれで治した方がいいかしら。もしそれで結局治せないってことになると、かなり動かしづらくなってしまうと思うけど」
「手術だとどれくらいかかるの?」
「いろいろ薬で促進して理想的な条件でひと月ってところかしらね」
「ひと月か……」
「奇跡が使えればそんなにかからなかったのね」
「うん。骨の癒合に一晩、2日くらい様子見して、一週間もすればだいたい全快」
「それなら迷って当然かしらね」
クローディアは悩んだが肯いた。
「でもやるわ。その方が確実なんでしょ?」
アルルは適当な長さのボルトとプレートを選んでから再び手術衣に着替え、手術台にうつ伏せにしたクローディアの左翼の羽根を捲って皮膚を露わにすると、局部麻酔をかけて手術を始めた。今度はクローディアも目を覚ましたまま右腕を枕にして時間が経つのを待っていた。
「ねえ、君はエトルキアとベイロンから追われていたってことなのかい?」カイは訊いた。「だとして、なぜ?」
「私のこの羽の色が特別だからでしょうね」
「黒いってやっぱり珍しいんだね」
「でも珍しいってだけでそんな躍起になって追ったりするかしら」アルルが言った。
「ベイロンは裏で人身売買をやってるよ。珍しいっていうのは十分な理由になる」カイは言った。
「そうね、ベイロンの方は割と単純。エトルキアはちょっと複雑だと思う」とクローディア。
「あなたはそのどちらからも逃げたいのね」
「そう。誰かのものになっていい生活が送れたことなんて一度もないもの。でもこのままじゃ、奇跡が使えないままじゃきっと逃げられない。何とかして力を取り戻さないと」
「ねえ、それならラウラのところへ行ってみたら? 奇跡のことは知らないかもしれないけど、私よりずっと魔術に詳しいわよ。奇跡がなくなった原因と戻す方法もわかるかもしれない」
「その人ってこの島にいるの?」
「そう。最上層に。行くのはちょっと大変だけどね」
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