天使治療の模索
島のインフラや食料供給は塔内部の地下資源汲み上げ装置や備え付けの生産設備が担っていたが、その整備は旧文明の人類が機械そのものにプログラムして自動化していた。ポストアポカリプスに生き残った人類の中で部分的にでも自力でその整備・修理を行える者は世界でも一握りに過ぎず、機械による自己修復のキャパシティを超えて損傷・劣化した設備はそのまま放置されるのが常だった。
むろんそうした人材が辺境に留まるはずもなく、タールベルグのインフラや食料生産設備はすでに半分近くが機能停止していた。あと50年も経てば確実にフォート・アイゼンと同じような廃墟になり果てるだろう。
とはいえ周囲にはまだ完全な機能を保った居住型の島がいくつか残っているので、一度この貧しい島を抜け出すことができた住民がわざわざ戻ってきて居を構えるのは稀有なことだった。
その稀有な一例がアルルだった。彼女はエトルキアの首都レゼで医術と薬学を学んだのち、タールベルグに戻って今の診療所を開業した。基本的には内科医と薬剤師の兼業で、各家庭の診断ロボットが発行した処方箋に従って薬を出すのが日々の仕事だったが、必要があれば外科手術も守備範囲だった。
もちろん外科医としてはヤブ医師だったが、それでも島の人々はこの「心優しいお姉さん」を頼りにしていたし、カイもまた彼女を「姉さん」と呼ぶ中の1人だった。
アルルは寝間着のチュニック姿で扉を開いた。この時間の客ということは当然急患だ。それは覚悟していたようだが、問題はそれが誰なのか、ということだった。彼女は明かりに浮かび上がったカイの姿をまずはじっと確かめ、それから「なるほど」といったふうに頷いた。
アルルは扉を押さえたまま脇に避け、カイを中へ通した。
「わーお、この羽根本物?」
だらりと垂れ下がった天使の翼はどうしても戸枠に当たり、アルルの脚を擦った。
「本物。たぶんね」
「一体どうしたのよ?」アルルは扉を閉めて鍵をかけ、カーテンを引き直した。
「要塞を飛んでたら急にぶつかってきたんだよ」
「あーあ、また狭いとこ飛んでたんじゃないの」
「酷い怪我だから、姉さんに頼まないといけないと思ったんだ。助かるかな?」
カイが奥の部屋へ入って診察台に天使をうつ伏せに寝かせると、アルルは包帯の上から背中の傷を触って深さを確かめた。
「天使、天使か。私も見るのは初めてなのよね」
「どう?」
「まあ、やるだけやってみましょう」アルルはそう言って壁のフックから手術衣を取って一度廊下に引っ込み、ものの10秒で早着替えして戻ってきた。
「時間、怪我をしてからどれくらい?」
「だいたい40分」
アルルはまずポンプを始動し、止血用の包帯を剥がして肺の傷の中に吸引器の嘴管(ストロー)を差し込んだ。
カイはそれを見て首筋がザワっとするのを感じた。
「あ、たぶんサポート必要だから手洗っときなさいよ」
カイはシンクで手についた血を流した。排水口に集まる水が赤く染まり、いくら手のひらを擦り合わせてもその色はなかなか消えなかった。一度固まった血が溶け出すまでに時間がかかるのだろう。
天使の血だ。
この世界には実は天使というものが存在していて、しかも人間と同じような血が流れていた。その事実についてカイは考えた。だとしたらあの翼は何なのだろう。飾りではない。鳥の翼と同じ、骨があり、腱があり、飛行のための構造をしていた。幻でも飾り物でもない。過剰なほどの説得力を備えた質感だった。
顔を覗き込むと天使は相変わらず弱い呼吸を続け、薄く瞼を開いて意識のない目を覗かせていた。
「カイ、これ持ってて」
アルルはカイを呼んで嘴管を支えさせ、その状態で肺の裂傷に気胸用のシートを貼り付け、穴が塞がったのを確かめて背中の縫合に移った。裂傷の左右の皮膚に曲がった針を通し、青い糸を交差させながら傷を閉じていく。針の通ったところから血が滲み出して糸を赤黒く染めていった。施術はほんの15分くらいのものだった。
アルルは結び合わせたところで糸を切って薄い手袋を外し、ポンプの注入管に針をつけた。ポンプをフローに切り替えると透明なホースの中を赤い血が流れ、空気を押し出しきったところで針を天使の腕の血管に突き刺した。ポンプのタンクに溜まった血が少しずつ減っていく。
「カイ、腰と膝の下に枕を敷いてあげて。頭に血を送るから」
カイはアルルの指示に従って棚に差し込んであった四角い枕を天使の体の下に敷きこみ、膝下を立てて上で足を支えた。裸足だった。足首はナイフのように薄かった。
「周りに血だまりができるくらい出血していたから、きっとこれを全部戻してもまだ足りない」カイは言った。
「これだけ大きな傷だもの。そうでしょうね。それに血まみれ」
天使が身につけていた灰色のマントは前側が真っ赤に濡れ、翼の一部にも血が浸みて固まっていた。
「輸血しなきゃいけないだろうけど……」
アルルは嘴管の先端についた血液の雫を指で取り、人差し指と親指でこすり合わせ、匂いを嗅ぎ、そして舐めた。
「うーん、人間の血液と同じ感じなのよね。やっちゃおうか」
アルルは冷蔵庫から全血の輸血液と赤血球製剤を2袋ずつ取り出し、ポンプにセットした。パックの中身はポンプの中で加温されながら注入管に入っていく。採血液ではなく合成液なので血液型は問わない。これも現代の技術では製造できない塔の賜物だった。
「でもこれでせいぜい1リットル弱。たぶんもうちょっと行ってたでしょ」とアルル。
「ああ、たぶん」
カイは血だまりの大きさを思い出した。例えば牛乳を1リットル床にこぼしたとしてあれくらいの大きさになるだろうか。上手く想像できなかったが、天使はそれに加えて何度も喀血していた。
「さて、そろそろ血液型がわかったかしら」と言ってアルルはポンプの天板を覗き込んだ。
天使から吸い出した血液と数種類の検体を小さなシャーレの中で反応させた血液型検査の結果が出ていた。
「へえ、案外人間と同じなのね」
カイもシャーレを覗き込んだが、赤い液体の上に黄色いものが浮いていたりそうでなかったりするだけで意味がよくわからなかった。
「どういうこと?」
「これって完璧なRhD陽性のO型の検査結果なのよ」
「この子の血液型がO型ってこと?」
「論理的にはね」アルルは吸引管の先端を嘴管から新しい針に付け替えて消毒液で自分の腕の内側を拭った。「あなたはD陽性のA型でしょ。私はD陽性のO型。運がよかったわね」
アルルが自分の腕に太い針を刺すとまるで溢れるようにホースの中を血液が走り、ポンプを介して天使の中に流れ込んでいった。
採血が終わるまでアルルは手術台に腰掛けて天使の手首に触れて脈拍を測り、カイは血液が内蔵と頭に行き渡るように足と翼を持ち上げて銅像のように固まっていた。
天使の足首にはかすかに痣のような痕跡があり、それがまんべんなく踝の上下に広がっているのを考えると何か幅の広い硬いものを嵌められていたらしかった。そういえばと思って手首を見ると、やはりそちらにも同じような痣の痕跡があった。手足を縛られていた? どこかに捕えられていたのだろうか。
ポンプが規定採血量を告げるアラームを鳴らした。アルルは管を引き抜いてガーゼで傷口を押さえた。
「いくらか顔色がよくなったわね」
カイも天使の顔を改めて覗き込んだ。確かに唇に血色が戻っていた。
「さて、あとは骨折だけど」アルルは翼と腕の包帯を解いて添え木を外し、どんなふうに折れているのか触診で確かめた。
それが一通り済むと彼女は腕には医療用のプロテクターを巻き、翼には元のリブを戻して包帯を巻いた。
「わりときれいに折れているし、明日目を覚ましてもらってからにしようか。その方がX線も撮りやすいから」
それからアルルが天使の体を洗っている間、カイは部屋の外に出て床や壁についた血痕を消毒液で拭い、血まみれになったジャケットを脱いでシャワーを借り、患者用の羽織を着て、あとはダイニングの椅子に座って待っていた。
アルルはもとのチュニックに着替えてダイニングに入ってきた。
「彼女、とっても軽いのね」
「そう。まるで鳥みたいなんだよ。見かけ以上に軽いんだ」
「でもあの翼はどうしたものか、収まりが悪いわね。結局うつ伏せのままにしちゃった」
「ココアでいい?」
「うん。お願い」
カイはマグカップにココアの粉を入れ、お湯で溶いてアルルに持っていった。アルルはカイの向かいに座って、ウェーブのかかった亜麻色の髪をブラシで梳かしていた。
「それで、アイゼンを飛ばしている時にあの子を撥ねたって言ったわね」
「空軍のパトロールが来て追い回されてたんだ」
「また悪いことしてたのね」
「相手が空軍だからっていつもこっちが悪いとは限らないじゃないか」
「だってアイゼンは立ち入り禁止なのよ」
「それを決めたのだって空軍だよ」
「ああ、そうだ。あの止血の仕方ってことは救急箱が役に立ったのよね」
「そうだよ。それはよかったと思ってる」
ベイロンの公式レースではいくら軽さを追い求めるレーサー機でも救急箱を積まなければいけないという規定があった。むろんそれは公式戦に限った話なのだが、常に積んでおきなさいとカイに言いつけたのは他ならぬアルルだった。
「ところであなた、天使なんて今まで見たことあった? というかあの子、天使よね?」
「ないよ。そんなものがこの世にあるなんて思いもしなかったよ。ぶつかった時だってコウモリの化け物かと思ったくらいさ。姉さんはどうなの? 見るのは初めてだって言ってたけど」
「そうね。本物を見るのは初めて。基本的には神話の中の存在であって、想像上の生き物でしょう。でも、そういえばレゼに住んでいた時に噂は聞いたことがあったのよ。高さ10キロを超える塔の上に住んでいて、とても強い魔術を使うことができるんだって。いつどこどこで見たとか、そういう話を集めると、共通しているのは背中に翼が生えてるってこと。そしてそれが白いってこと」
「白?」
「そう、白。決まって白。黒じゃない。でもあの子の翼は黒い。染めた……のかしらね。洗っていてそんな感じはしなかったけれど」
アルルはあくびをした。
「ごめん、姉さん。こんな時間に治療と、それに輸血までしてもらって」
「そうね。何で返してもらうかよく考えておくわ。でも今日はもう寝ましょう」
アルルは立ち上がってマグカップを食洗器の中に置いた。
「でも、そんなことよりまずはあの子の面倒を見て、治るまできちんと見届けてあげなさいよ」
カイは少し反発を感じた。
天使の方が飛び出してこなければこんなことにはなっていなかったはずじゃないか。
でもそもそもはエトルキア空軍に追われたからあの状況になったのだし、さらに言えばフォート・アイゼンにいたせい、あの狭い空間に飛行機で突っ込むレースのせいなのだ。本来はきちんとコースの周りを封鎖しなければならないわけで、アルルの説教は確かに正論だった。
「姉さん、ミルドが死んだよ」
アルルは明かりのスイッチに手をかけたままカイの目を見た。彼女の鳶色の瞳がカイを見つめていた。アルルはカイのことと同じくらいミルドのことも知っていた。
「死んだ?」
「空軍に追いかけられている間に壁に翼を引っかけてさ、機体も体もバラバラになっちゃったんだ」
「そう……」アルルは目を瞑って眉間に皺を寄せ、溜息をついた。「もう残っているのはあなただけになってしまったわね」
「それもあいつ自身の責任だって、そういうことなんだな?」
「そうね」アルルは少し歯切れの悪い言い方をした。まるで自分自身にもそう言い聞かせているみたいだった。相手に筋を通させるなら自分も筋を通さなければならない。それをわかっている人間の言葉だった。カイはそれを確認した。
「あの天使のことは、わかったよ。きちんと見届ける。俺の責任だからね」
天使はベッドの上ですやすやと寝息を立てていた。峠は越えたようだ。だが天使にとってとても重要な「ある機能」が失われていたことにはまだ誰も気づいていなかった。
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