砕かれた翼

 たとえば、道を歩いている最中に気づかないまま宝石を踏んづけて割ってしまったとして、いくら破片を集めてももうもとの綺麗な形や輝きを知ることはできない。それを割ってしまったのは自分だ。どうしようもなく取り返しのつかない気持ちになるだろう。

 カイの心境はそんな状態だった。

 天使を治療するためにはホームの島に連れて帰らなければいけない。帰ることさえできればアテはあった。その前に搬送のために応急処置をしなければ。

 カイは一度機体のところまで戻って胴体側面の小さなハッチから救急キットを取り出した。包帯を千切って3重くらいになるように背中の傷口に重ね、スプレータイプの止血剤を吹きつけた。白い泡が血を吸って赤く染まり、蝋のように固まっていく。

 出血が止まるのを待つ間に添え木になるものがないか辺りを探した。だが廃墟のくせに妙に片付いていて手頃なものがない。

 そういえばミルドは?

 カイは飛んできたルートを走って戻り、まだ燃え盛るミルド機の残骸の間を探した。炎が辺りの空気を舐め回して、顔の前に腕を翳さなければならないほどの熱気だった。

 いた――。

 いや、あった。

 ミルドの亡骸も機体と同じようにバラバラになっていた。きっと衝突の衝撃でひしゃげた機体のどこかに擂り潰され、あるいは鋭利な破片で断ち切られたのだろう。無残な状態だった。墜落で死ぬとこんなふうになってしまうのだ。

 仲間の中で最後に残った同郷の友人をこんな形で失いたくはなかった。

 カイはミルドの胸部に恐る恐る手を当てて鼓動を確かめた。

 そんなものあるわけがなかった。

 鳩尾のあたりから下はなく、左腕は手首から肘にかけてまっすぐな断面が露わになり、右手は上腕の半ばで肉がなくなって骨がむき出しになっていた。首は皮だけが耳の下あたりまで残っていた。しかも肋骨が砕けているのか胴体自体も妙に細長く歪んでいた。

 カイは何の前触れも感じないまま嘔吐した。地面に手をついて自分の口から流れ出していく吐瀉物を眺めることしかできなかった。

 酷い光景だった。

 もう少し探したが結局頭部は見つからなかった。

 だめだ。ミルドのことは諦めるしかない。今は助けられる命を助けなければ。


 カイは散乱した部品の中から比較的曲がりのない主翼のリブを何本か選び出し、天使のもとに持ち帰って翼と腕の添え木に使った。幸い折れているのはその2ヶ所だけのようだった。

 天使を血だまりの外に移したあと、カイは機体に登って舵が動くか確かめた。何しろ機首の先端から50cmくらいがすっかり潰れてしまって回りの外板もかなりひしゃげていた。前翼の昇降舵が一番不安だったが、奇跡的に正常に作動した。ラダーとエルロンも大丈夫。エンジンのイグニッションランプも生きている。プロペラは主翼の下に突き出した一対の垂直尾翼が守ってくれた。思ったよりソフトに不時着できたようだ。

 カイはどこを支えれば傷に障らないか少し思案してから天使を担ぎ上げた。

「……軽い!」

 たっぷりとした羽根の印象とは裏腹に、力がすっぽ抜けて後ろに倒れそうになるほど天使の体は軽かった。カイは天使の右側から体の下に手を差し込んで担ぎ上げ、飛行機の主翼の上に一度寝かせた。

 カイはそれから飛行機の機首を持ち上げた。機体の空虚重量は1トン足らず。その大半を占めるエンジンモジュールなどは機体後部に固まっている上、その重量のほとんどは垂直尾翼(本来は主脚)が支えているので機首だけなら多少力を込めれば持ち上がるのだ。

 それに垂直尾翼の下端に小さなタイヤ(本来は滑走中にプロペラを路面との接触から守るためのもの)がついていて移動も支障ない。

 カイはその状態で機体を通路の出口まで後ろ歩きに引っ張っていった。

 夕空の下に出た。

 ついさっきまで傍若無人に暴れていたエトルキアの戦闘機は姿を消していた。全天に響き渡っていたエンジンの轟音もまるで聞こえなかった。オレンジジュースのように染まった空に巻雲が薄く広がり、水平線に暗い積雲の峰々が連なっているだけだった。

 仲間は?

 レシプロのレーサー機の姿も見えない。きっとどこかへ逃げただろう。自分たちと同じように墜とされたとは思いたくなかった。

 カイは甲板の崖っぷちまで機体を持っていってぎりぎりのところで下ろし、天使を抱えてコクピットに上った。

 天使を機体のどこに乗せるかについては機首を引っ張っている間に色々考えていた。一番広いのはコクピット前から機首にかけての空洞だが、操舵用のロッドが剥き身で通っているし衝撃から守るものもない。結局抱きかかえたままコクピットに収まるしか手がなかった。ゆっくりとシートに腰を下ろし、天使の羽根を挟まないように押さえて横開きのキャノピーを閉めた。格好としては丸くなった猫を抱きかかえているようなそんな具合だが、天使の方がずっと大きいし、翼もかさばる。そんな体勢ではシートベルトも締められなかった。

 エンジンをかけ、全力までスロットルを押し込んだ。

「もう少しだ、頑張れ」カイは独り言を言った。

 機体が滑り出して機首が下がった。顎下をガリガリとこすりながら進んでいく。

 そして落ちる。

 虚空に投げ出される直前に「ガッ」と衝撃が走り、間もなくがたがたとした振動が始まった。全く収まる気配がない。きっとプロペラの先端をぶつけたせいで回転軸がブレているのだ。

 しかしどうにか飛んでいた。

 200km/hに達したところで操縦桿を引いて水平に戻した。

「何とか頼むよ。あと20分でいい」カイは左手でスロットルレバーを撫でたあと、横にあった天使の足に少し触れた。「君もだ。あと20分……と少し。頑張れよ」


 天使はシートに深く座ったカイの体の上に覆いかぶさるように乗っていた。体の右側を下にして折れた左腕と左翼を圧迫しないようにしていたのだが、とにかく翼が大きくてガラスの半分くらいを覆ってしまっていた。カイはまるで遠眼鏡を覗き込みながら操縦している気分だった。

 天使が咳き込んだ。

 咳と一緒に吐き出された血の塊がカイのジャケットの肩にかかった。

 喀血だった。

 ということは背中の傷が肺まで達していて、さっきの止血では肺の傷までカバーできていなかったのだ。外側の傷だって完全に出血が止まっているわけではなかった。

 フォートアイゼンとカイのホームのタールベルグは一応隣り合った塔だが、距離にすれば約60km。カイの飛行機の最高速度620km/hで風を無視したとしても5分はかかるし、損傷した状態で完全な性能を発揮できるわけがない。着陸やそのための減速などを考慮すれば20分が妥当なところだった。

 カイは焦った。結局その20分の間に天使は何度も喀血を繰り返した。そして唇は青く、呼吸は弱くなっていった。


 タールベルグはフォート・アイゼンに比べれば水平面に広く縦方向に薄い構造で、横から見た姿を比べると、フォート・アイゼンが瓢箪型とすればタールベルグは幅広の独楽型だった。というのも用途が異なるためで、前者は低空から高空まで対応力を求められる基地型、後者は物資の保管と入替えの利便を要するヤード型だった。

 タールベルグの場合、最大面積の中層甲板より上は石油精製と資源リサイクルのための工業区画で占められ、居住区はそれらの排煙を避けて中層以下に形成されていた。

 中層甲板には全長3kmの滑走路があるのだが、貨物機の往来が多く自家用機が自由に発着するのは難しい。そのためカイが普段使いしているのは最下層にある1.5kmほどの古い滑走路だった。居住区からのアクセスも悪くほとんど人気はない。周りに明かりがないので遠目でもわかった。

 だが下層は暗い。日没も過ぎていた。ヘッドライトも死んでいた。

 フラップを下げ、着陸脚を展開した。

 前脚と一対の主脚を示す3つのランプが赤く点灯して展開中であることを告げる。やがて主脚の2つが先に緑のランプに変わり、展開位置でロックされたことを知らせた。

 そして――。

 前脚のランプは赤いまま、一向に緑に変わらない。

 それもそのはず。不時着によって機首が潰れるほどの衝撃を食らったのだ。その直後にある前脚のサーボが影響を受けていない方がおかしかった。

「クソッ」カイはそこに思い至らなかった自分を呪った。

 そして着陸脚操作レバーを再び上げ位置に戻して主脚を格納した。

 胴体着陸しかない。

 とすれば主脚だけ出しておくのは危険だ。接地と同時に過度なつんのめり姿勢になってそのままひっくり返るおそれがある。

 一度低空でパスして高度を測り、2度目のアプローチでスピードをぎりぎりまで絞って相当な機首上げ姿勢で接地した。

 そのせいでまず主翼の下に突き出した垂直尾翼が衝撃を受け止めてとうとうへし折れ、次いでプロペラが全部曲がってお陀仏になり、機体は腹下をぺったりと地面につけて滑り込みながら減速した。

 カイは足を上げて計器盤に突っ張り、天使をしっかりと抱き寄せて衝撃に耐えた。2人の体はほとんど尻と頭が逆になるくらいまでシェイクされた。

 機体が停止したところでカイはそのままキャノピーを蹴り開け、風防の枠に足を引っかけて体を起こした。

「よし、生きてるぞ!」

 カイはすぐに外へ出て滑走路の脇へ走り、天使を背負い直して階段を上り始めた。

 ふと後ろが明るくなった。振り返ると飛行機のエンジン部分から炎が上がっていた。プロペラが止まった負荷で異常燃焼を起こしてそのまま失火したんじゃないだろうか。

 丹精込めて作り上げた自分の飛行機が燃えていく。

 カイはとてもやりきれない気持ちになったが、今はどうすることもできないとも思った。眺めていても仕方がない。行かなければ。


 カイが目指しているのは中下層にあるアルルの診療所だった。まるで生活の気配のない甲板をいくつも通って10階分ほど階段とスロープを上り、やっと生きているエレベーターに行き着いた。

 ボタンを押してケージを呼んだ。ケージはとても気怠そうなモーターの音を立てながらのそのそと下りてきた。手動で柵を開き、乗り込んで行き先ボタンの14を押し込んだ。上限は20。中層甲板がこの個体の最上階だった。きちんと網で囲われているが完全に外気と遮断されているわけではない。ガコガコと不気味な音を立てながら上っていく。

 島そのものもそんな不安定な造りで、旧文明の高度な技術で建てられた塔の躯体に今の人類が至って素朴かつ乱暴な方法で骨組みを突き刺して地殻となる甲板を乗せ、さらに技術を持たない住人各々がその上に適当に家などを建てて生活しているに過ぎない。高度1500~3000mの風と冷気も吹きっ晒しだった。

 ウィンチの巻き上げが遅く、たっぷり2分くらいもケージに閉じ込められていた。その間に天使はまた一度喀血した。彼女の吐いた血はケージの床にべったりと飛び散った。

 降りて柵を閉め、右手に行って少し階段を上ったところにアルルの診療所はあった。看板も「診療所」とだけ書いた最低限のものだが、今はそれも明かりが消えていた。営業時間外だ。

 カイは診療所の扉についたベルを何度か鳴らした。ノックもしてみた。相手が必ず出てきてくれることはわかっていたけど、それでも気持ちが急いて仕方がなかった。

 やがて小窓の中に明かりが灯り、扉が開いた。

 カイはほっと一息ついた。

 

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