烏羽の天使

タールベルグ

エンジェル・ストライク

「なあ、ファロン空域でエトルキアのスフェンダムが墜とされたって、聞いたかよ」

「ああ、聞いた聞いた。ベイロンだろ」

「それなら一昨日か。ジャヒアルとアルサクルが戻っていくのを見たぞ。1機と2機だった」

「あーやだやだ、きな臭いねぇ、まったく」

 フォート・アイゼンの廃墟上空に5機のハンドメイド機が集結していた。色とりどりの単発液冷レシプロ機たち。旧文明の戦闘機に通じるデザインだが、パワーと最高速度よりも軽さと小ささを追求している。

 その中で異色を放つのは唯一胴体後部にプロペラを持つプッシャー方式の1機。無塗装の真新しい外板はまだ金属光沢に満ちていた。

「銀色の、誰の機体だ?」

 一人の男の声がヘッドフォン越しに訊いた。

「俺だよ」プッシャー機のパイロット、カイは答えた。

「その声。おいおい、新型を作ってるとは聞いたが、それはないだろ」

「うるせー。他に素体がなかったんだよ」

「舐めてると加速に食われるぜ、おっさんたち」別の声が割って入った。

「おい、黙っとけよミルド」とカイ。

「ふーん、加速ね」

 5機は互いに距離を詰め、単縦陣を組んで廃墟の上を旋回した。

 廃墟島フォート・アイゼン。汚染された地表から突き立った数多の塔の一つ。塔は高度1500mから6000mの間にまるでヒートシンクのような甲板を張り出している。甲板は兵舎や弾薬庫、砲台を乗せるための人工地殻として機能している。

 いや、。そう、フォート・アイゼンの場合、もはや居住空間――島としてのインフラ機能は失われ定住する人間は一人もいなかった。

 カイたちはその廃墟の内部をレース場として使っていた。戦闘機の射出口や物資の搬入口といった開口、格納庫と倉庫を結ぶ通路などトンネル状の構造物に恵まれたフォート・アイゼンは絶好のコースだった。

「カイ、先頭で行ってみるか? いつものコース。ロールアウト記念だ」

 カイは機体を降下させた。

 速度超過を防ぐためにスロットルレバーを引く。エンジン・スロー。

 1000mほど高度を下げて速度600km/hで水平に戻した。

 目の前にフォート・アイゼンの層状構造が迫ってくる。

 廃墟の中は暗い。ヘッドライトを点灯。

「速すぎるよ。そのスピードじゃ曲がり切れない」ミルドが忠告した。

 しかしカイは耳を貸さなかった。

 550km/hで格納庫のハッチに飛び込んだ。

 すぐに直角の左カーブ。

 横転してナイフエッジ、カイは操縦桿を思い切り引いた。

 機体は進行方向に腹を晒す。

 そこでフルスロットル。

 1200馬力の液冷エンジンが3翅のプロペラをぶん回す。

 慣性を殺し、突き飛ばされるように四角い通路へ入った。

 反トルクの捻りに任せ正立に戻る。

 あとは10秒ほど直進。

 カイは振り返った。2番手とまだ3秒ほども差がついていた。

「ホゥ!」カイは叫んだ。

「なんだよ今の機動」

 間もなくヘッドライトの光暈こううんに何かが浮かび上がった。

 蛍光スプレーで描いた上向きの矢印だ。コースの方向を示している。

 カイは操縦桿を引き寄せ、すぐに左へ横に倒した。

 機体は変則的なバレルロールを打って通路から20mほど高いダクトの中へ飛び込んだ。

 ダクトは緩く右手にカーブしながら下っている。

 速度と機体の角度に注意しなければ重力に引かれて機体を側壁に擦り付けることになる。

 カイはラダーペダルを左に踏み込んで右へ右へ落ちていこうとする機体を支えた。

 問題は次だ。

 エレベーターの竪坑と通路が交わる小刻みなクランクが来る。

 ここは250km/h以下に落とさなければ曲がり切れない。

 カイはフットバーを踏み込んだ。フラップが上下に開くと同時に胴体側面から制動板が開いて機体を減速させた。

 エンジンパワーを保ったまま機首上げ、クランクをぎりぎりで曲がり切った。

 しかし後続のトラクター機がインコースをとって次々とカイ機を抜かしていった。

 最後尾のミルド機も第3クランクで前に出た。

 カイ機はストレートの加速で追い上げたが、しかしそれ以上に減速が響いていた。

「クソッ」

「やっぱりクランクは苦手だな?」

 低速での切り返しを求める狭隘なコースでは強力なプロペラ後流を舵に当てられるトラクターの方がずっと有利だった。プッシャーは機体の一番後ろにプロペラがついているのであくまでスピードが乗っていなければ舵が利かない。

「空軍が来たぜ」

 誰かがそう言ったのと同時にカイは外に飛び出した。


 レースは暴走族と一括りにされて取締り対象になっている。辺りの制空権を握るエトルキア空軍に追い回されるのは日常茶飯事だった。

 エトルキアの戦闘機・アネモスは強力なジェットエンジンを積んだいわゆるパワーバカであり、狭苦しい廃墟の中に逃げ込んでしまえばまず追ってこられない。

 カイは空の明るさに目を細めながら周囲を見回した。

 すでにチャフとフレアの輝きが空を覆っていたが、その合間にアネモスの灰色の大柄な機影とジェットノズルから噴き出すアフターバーナーの青い炎が見えた。

 3機、いや、4機はいるか。

 レーダー警報装置が着信音のようなアラームを鳴らし始めたのを聞いてカイはチャフ・フレア・ディスペンサーのボタンを押し、機体を切り返して適当なダクトの出口を探した。

 どこに逃げ込む?

「カイ、こっちだ」ミルドが呼びかけた。

 カイはダクトに飛び込む直前に翼を振ったミルド機を見つけた。

 同じダクトめがけて突っ込む。

 追ってきたミサイルが間一髪ダクトの入り口に当たって爆発した。

 しかし――

 その爆発を突き抜けて一機のトラクター機が追ってきた。

 仲間か?

 そう思うと同時にカイは違和感に気づいた。

 ――アラームが消えない。

 視界の端でミルド機を捉えつつバックミラーを注視した。

 機首に開いた環状のインテーク。

 違う。

 仲間の機体に空冷機はいない。環状インテークはほぼほぼ空冷機だ。

 そして主翼の下に吊り下げたミサイルが決定的証拠だった。

 空軍機だ。

「ミルド、空軍のレシプロ機だ。追ってきた!」カイは叫んだ。

「なんだって? 僕はこの道には詳しくないんだ」

「あと4秒で右だ。右」

 ミルド機が右に旋回した。

 その先はコンベアやダクトが這い回る狭い通路だ。

 空軍機も慎重に減速して曲がってきた。

 距離は離れたが、しかし長いストレート。

 再びアラーム。

 直線は危ないが切り返しの多い狭い道なら引き離せるか。

 そう思った時だった。

 ミルドはアラームに気を取られてちょっと振り返ったのかもしれない。

 側壁に寄りすぎたミルド機の右翼がダクトに引っかかる瞬間をカイは目撃した。

 白黒ツートーンのミルド機が手裏剣のように回転し、壁の窪みにもぎ取られたエンジンブロックが炎に包まれながら投げ出された。

 カイ機はその炎をすり抜けて前に出た。

「ミルド!」カイは呼んだ。呼びつつも前方から目を離さなかった。

 返事はなかった。

 だめだ。ここで逃げるのをやめてはいけない。

 左、右、と切り返せばよく通る通路に出られる。

 二度目の旋回の時、カイは後上方を確認した。

 空軍機は追ってきていた。ミルド機の残骸をかいくぐったらしい。

「クソッ」

 カイが前方に目を戻した時、目の前を何かが横切ろうとしていた。

 何か黒いもの。

 ミサイル?

 カイは咄嗟にが主翼にぶつかると判断。

 ロールを入れた。

 しかしが右から左へ移動していたせいでは風防の真ん前に出てきた。

 その目がカイを見た――生き物?

 鳥?

 いや、コウモリか?

 風防に鈍い衝撃があった。

 直後に機体が思い切り右に振られて正立に戻り、そのままつんのめるようにして通路の床に滑り込んだ。

 機体は何度か床の凹凸に引っかかって跳ね上がり、その度にカイの体はシートベルトに食い込んで千切れそうになった。だがそれでも機体は転覆を免れ、カイも頭から潰されずに済んだ。

 空軍機はカイ機が墜ちた上を通り過ぎるとスピードを緩め、満足げに出口を探して去っていった。


 カイはシートベルトが食い込んだ衝撃で数十秒気を失っていた。

 目が覚めると同時に首の鈍痛に顔をしかめた。

「いてて」と首を押さえた。幸い出血はしていない。

 そして風防越しに目を合わせた「黒い何か」の映像が脳裏にフラッシュバックした。

 ……あれは何だったんだ?

 カイはコクピットを降り、飛んできたルートを引き返すように歩いた。

 そして自分にぶつかってきたが地面に倒れているのを見た。

 は一見ヒトだった。

 白い手足が見えた。

 しかし暗さに紛れていた「黒い何か」がその背中から生えた翼だとわかるとカイは考えを改めた。

 少女が身に纏うマントは後ろ側が大きく開き、そこから黒い羽根の翼が左右に広がっていたのだ。

 天使だ。

 作り物なんかじゃない。正真正銘、生身の天使だった。

 カイは血だまりの前に頽れた。

「なんだってんだ……」

 うつ伏せに倒れた天使の背中には肩から腰にかけて斜めに大きな切り傷が口を開き、ピンク色の肉が露出していた。きっと衝突した時にプロペラが切り裂いたのだ。

 それに左の翼と上腕は関節があるはずもないところで変に曲がっていた。

 横向きになった顔に髪がかかっているせいで、見えるのは力なく開いた乾いた唇だけ。背中の傷とその唇からは小刻みな弱い呼吸に合わせて血が流れ出していた。

 いったいどこから湧いてきたのかと思うほどの血液が彼女の周りに血の池を作っていた。そして彼女の肢体の異様な細さは今にも命の灯火が消えてしまうのではないかという不安を抱かせた。

 カイは二重のショックにぶるぶると震えながらも、どうにかにじり寄って天使の傷のない方の肩を揺すった。

「おい、おい、聞こえるか」

 だが天使は返事をしなかった。それどころか痛みに呻く声さえ上げなかった。

 カイは改めて脈と呼吸を確かめた。そうして口元に顔を近づけた時、天使は混濁した意識ともいえない意識の中から言葉を発した。

「たす……けて……」

 あまりに弱々しい声量だったし、発音も曖昧だった。だがそれは確かにカイの耳に届いたし、そしてカイの頭で理解できる言葉だった。

 その言葉はカイが状況を理解しようとするのを諦めさせた。

 カイは余計な思考が頭から抜け落ちるのを感じた。

 どうでもいい。どうでもいいから、とにかく助けろ。助けるためにできることをしろ。

「ああ、わかったよ。助けるから、だから、踏ん張れ」

 カイはジャケットとシャツを脱ぎ、シャツを天使の体に巻き付けて止血を始めた。

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