咲かずの凡才


土曜の昼下がり、俺と保阪は体育館のステージ裏にいた。保阪を呼んだ文化祭実行委員と、教員たちと軽く挨拶をして、文化祭の出し物のお好み焼きやらマジックジュースやらをごちそうになった。


そして、いま、黒の厚手のカーテンの裾からステージを眺めていた。ステージでは、実行委員らしきふたりの生徒がてきぱきと、イラストレーター脇役のために準備をしていた。


「保阪」


ステージの様子を眺めながら隣にいる保阪に声をかける。保阪は自分が手にするA4の紙に視線をおとしていたようだったが、俺の声につられて顔をあげた気配がした。


「ん?緊張してるの?」


「吐きそうなぐらいにはな」


「お酒呑んだわけじゃないからだいじょうぶだよ」


「その理屈はなんなんだよ」


なんて言いながらも、くだらない話で笑ったおかげでわずかに吐き気は収まる。


ステージにはテーブルと椅子がひとつ、ステージの真ん中よりやや左側に置かれる。テーブルの上には、名前の知らない機材が置かれている、おそらくカメラだ。そしてスタンドマイクが対になるように真ん中より右側に置かれている。


「お前、あの脇役の老人の言葉に救われたって言ったろ?」


「え?あ、うん」


ステージの後ろには大きなプロジェクターが映し出されている。テーブルの上が無造作に映っている様子から、保阪が描く絵をリアルタイムで見られるのだろう。そうか。あの頃、俺は保阪の生み出す世界を独り占めしていたのか。


ステージ上の生徒が捌ける。すると、体育館全体の照明が落ちる。もうすぐ、はじまる、その前に。


「脇役のあの台詞は、当時読んでた小説から引っこ抜いただけだ」


隣の保阪を見下ろし、片方の口端をあげて、笑う。暗いそこで、保阪がどんな表情をしているのかは、わかるようで、わからない。でも、どっちでもよかった。


「マジか」と保阪の呟きが聞こえる。数年越しに知らされるなんともあっけない告白に、ころりと零された声だった。


「マジだよ。脇役の台詞なんてどうでもよかったからな」


ステージの照明がばっとつく。オレンジまみれの世界は、あまりも眩しい。「拍手でお出迎えください」というアナウンスに、慌てて「行こう」と歩き出した保阪。


その弱者代表みたいな、保阪の背中を見て、呟いた。


「お前、やっぱ天才だなあ」


自分でも驚くぐらいその声は、明るかった。


言葉を求めているひとがいる、ということは、言葉を授けるひとがいる。



薄暗い体育館から大勢の生徒たちが地べたに座り込み、ふたつの目をこちらに向けている。俺が、『脇役』の「脇役」という立場で挨拶すると、「もはやだれ」というアナウンスの突っ込みによって会場は笑いに包まれる。


俺は右端のスタンドマイクのところへ行き、左端の椅子に腰かけた保阪を見て正面を向いた。スタンドマイクに口を寄せる。教師ってすげえな。そう思うのに、こんなにも時間がかかってしまった。


「それでは、もはやだれかもわからない脇役から“夢のために大切なこと”についてお話させていただきたいと思い出す。はっきり言って俺の話は、昼飯後の授業ぐらい眠くなるものなので、スクリーンを見ながら聞き流してもらえたらと思います」


俺は、凡才である。そのことをまずはじめに伝える。


薄暗いなかでも、無数のふたつセットの目がこちらに向けられているのはわかる。ふしぎと、こんなに注目されていても、高揚感はなかった。もう、保阪を通して世界を見ることをやめたおれだから、感じる世界だった。


「夢と聞いてここにいるみなさんが思い描くものはそれぞれでしょう。夢は大きく二面性を持っていて、いわば、光と影です。光はさきほどみなさんが夢に対して思い描いたもの、対して影とは、“夢を叶えられるのはひとにぎりの人間だけだ”“夢はかんたんには叶わない”そんな言葉を、きっと、みなさんは今まで幾度となく耳にしてきたことでしょう。それは実際に言われたり、映画や漫画、ドラマや、作品を通じて聞いたかもしれない」


言いながら思う。夢が叶わないと嘆いた作品は、それでも俺たちのもとへ届いてる。じゃあ、いったいそれはだれの声だ?


でも、すぐに気がついた。凡才の隣にいるのは、天才だ。俺が保阪を通して世界を見たように、保阪も俺を通して、夢が叶わないと嘆いた俺の世界を見ている。


良くはないけど、けっして悪くはない。


マイク越しに耳に入ってくる俺の声はふだんよりもくぐもっていて、それこそ本人でさえももはやだれだよと思うような存在だった。


「私から、みなさんにお伝えしたいこと、それは、やはり、夢はかんたんに叶わない、ということです。なぜなら、私も、そのひとりで、夢を叶えられなかった側の人間だからです。そして、私はよりによって諦めの悪い人間でもありました。あきらめなければ夢は叶うという言葉もありますね。いい言葉です。ですが、みなさん、すべての夢があきらめなければ叶うわけではありません。今までみなさんも、数多く目にしてきたことでしょう。物語のなかで、正義と対峙する敵の野望、つまり、彼らの夢はことごとく潰えているのです。もちろんみなさんの夢を悪党呼ばわりするつもりはない。けれど、私はどうしても、悪党たちの夢も完全に否定することができません。おそらく、自分自身と似ていたからでしょうね。今なら、そう思えます」


左端で保阪がテーブルに視線を落とし、絵を描いているのはわかる。あの頃は、後ろだった保阪が今は、となりだ。今さらながら気がつく。縁を切ったつもりの、家族も、友人も、何もかも。俺は切ったふりをしていた。その証拠に、保阪と高校のときに交換した唯一のつながりである携帯の番号は今日まで同じだったのだ。


「夢を叶えたいと思うあまり、あまりにも多くのものを蔑ろにしました。夢は叶うと信じ、そしてその果てに得たものは、虚無でした。大人が夢に対してシビアなのも、我が子に失望させたくないという優しさからなのかもしれません」


これが終わったら、実家に顔を出そう。思い出すのは保阪のへらりと笑う顔と、『もっかい拾えばいいんだよ』という言葉。拾うためには、いま抱えているガラクタの宝物を捨てなければな。頭のなかの宇宙を乱暴に扱うのはもう、終わりだ。


「私は『夢はかんたんには叶わない』と声を大にして言えます。それは私が夢を叶えられなかった者だからです。どんなに努力しようが、真面目に生きようが、善行を行い続けようが、叶わない夢もある。夢は寝て見るもんだ。夢を追うことは、現実を生きることよりつらく、難しい」


オレンジのライトが熱い。頭頂部に突き刺さる光が、眩しいを通り越して熱い。前髪の生え際からじわりと汗が滲む。


俺は、一度マイクから口を離し、スクリーンを挟んで隣の、遠い世界の、隣人の『脇役』を見る。彼は、体育館に訪れた静寂のなかで、絵の世界に浸っていた。おまえは、そのままでいい。俺は再びマイクへ口を寄せた。



「……夢は、かんたんには叶わない。どうか、そのことをみなさんにも肝に銘じてほしい」


高校3年生の俺よ、聞いているか、お前の出番は、もうない。だから、思い出になって、消えろ。


「それからみなさんに、最後にひとつだけ、言わせてください」


俺は、小説家じゃない。もはやだれなのかわからない脇役で、いや、脇役でも名言すら吐けない、夢を叶えられなかった脇役だ。


でも、そんな俺だから、そんな俺にしか、紡げない言葉だって、あるのかもしれない。正義の味方が仲間の力を借りて大技を出す最期の瞬間の、一歩、手前、それがわかっていても、ひとりで夢を追って抗う敵が出せる渾身の一撃。


息を吸い込む。マイクから顔を逸らす。


「お前らは、どうか夢を叶えろよ……!!!」


思いっきり叫んだ声は、静かに喋っていたマイク越しの声よりも情けなかった。


「“夢はかんたんに叶わない”と言える大人には、どうか、なってくれるなよ」


絞り出すような声は、いったいだれに届くのだろうか。届かないかもな。しょうがないな。俺はそれをよく知っている。


しん、と静まり返るそこに「できました」なんて柔らかな声がした。保阪だった。ビー玉を畳みの上に転がしたみたいな声はマイク越しでも相変わらずだった。


保阪は身体をずらし、スクリーンへ向けている。俺はそのあとを追って、顔だけスクリーンへ向ける。


「あ」声が漏れる。A4の紙をふたつ折にして、ところどころに年季の入ったような紙。


保阪はへらりと笑って、マイクを片手に言う。


「これは、むずかしくてよくわかんない作品の表紙なんですが、」


あの頃の俺が、A4十数枚のなかに閉じ込めた作品だった。タイトルを邪魔しない、優しくもあるが、どこか後ろ髪を引かれるような、独特なタッチの絵が、俺の作品の世界を現実に繋いで、結ぶ。


『江渕の小説の表紙、描いてみたいなあ』


俺は、お前の未来を語ったその唯一の言葉に、返事をしなかったのに。


下唇をぎゅっと歯で噛み締める。こうでもしないと、泣きそうだった。


保阪は、スクリーンの絵を眺めたまま、笑う。それは、自分の絵を見て綻んだというよりも、そのA4の紙の裏にかすかに透けて見える活字の向こうに、あの頃の俺たちを見たからだと思う。


「むずかしくてよくわかんなくて、でも好きだなあっていう作品に出会えることって、自販機で150円の500mlを買いたいけど、120円しかなくて250mlので妥協しちゃっても、でも、まあ、こういうのも悪くないなって思えるぐらい気分がいいもんですよね」


保阪は、マイクを持っていないほうの手で鼻の頭を掻いた。黒い髪が、オレンジの強い光によって茶色く見える。「えっと何がいいたいかというと、」と「えーと」なんて呑気に言葉を並べる保阪が、不意に俺を見た。


そうして、嬉しそうに笑った。


「“堂々と”描けばいいんです。そしたら良いやつが夢の在り処を教えてくれます、たぶん」


ああ、だめだ。鼻の奥がつん、として、噛み締めた下唇が震える。じわりと視界が霞むのと同時に、体育館に拍手が起こった。生徒たちがどう思ったのかはわからない。アナウンスに促されて、俺たちが退場する間際まで拍手は続いた。


実行委員と教員たちに挨拶をして、騒がしい催しものと人だかりを抜けて、外へ出る。



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