朽ちる天才



駅につき、待ち合わせ場所で、あたりを見回す。何年も会っていないからわからないか、と思いながらスマホで保阪に電話をかける。


「江渕!」という声は後ろから聞こえた。振り向けば、手を振りながらこちらにやってくる男。すぐに保阪だとわかった。へらっとした笑い方があの頃と同じだったからだ。


「ひさしぶり」


「だな」


保阪は変わっていなかった。髪色も、弱者代表みたいな見た目も、ただ、昔とは、何かがちがう、と引っ掛かりを覚えた。


ふたりで飲み屋に向かって歩き出す。


「保阪おまえ変わんねーのな」「そうかな、背、伸びたんだけど」「いや変わんねえよ」「あと目悪くなったかな」「それはわかんねえわ」


話したいことは山ほどあって、かといって何もなかった。


保阪は下戸なのか、酒はいっさい飲まなかった。俺も酒は強い方ではない。生をジョッキで3杯目に突入するころにはだいぶ酔っていた。


当時の話で、笑い合う。昔の話で誰かと笑い合うなんてことをもうずいぶんとしていない。できない状況を自分でつくりあげたからだ。


保阪は俺がいまなにをしているのか、いっさい聞いてこなかった。それは遠慮とか気を遣っているというよりも、なにか、もっと丸いものに感じた。


「江渕に頼みがあるんだ」


保阪がそう言いだしたのは飲み屋で暖簾をくぐってすぐだった。神妙な面持ちに、俺は酒臭い自分を俯瞰しながら言う。


「おまえそういうのはゆっくり座ってるときに言えよ」


見下ろした先の保阪は、駅で待ち合わせて引っ掛かった違和感を強めていた。心地好い夜風にあてられ、酔いが醒めてきた俺は「コンビニで水買ってくる」と、家族でも数字でもない看板のコンビニへ行き、水ふたつを買う。


駅から飲み屋に来る途中にある公園になんとなく辿り着き、ベンチに腰掛けた。ビルに挟まれている公園は、アスファルト地獄と化した都会で、その隙間から咲いたタンポポのようだった。


もう、ジャングルジムの上へのぼる年齢ではなくなった。そんな年齢になるまでの今日の間に、俺は、保阪が語ってくれた未来を叶えられない人間になり果てていた。


保阪は俺が渡した水のペットボトルを見下ろしている。


「『脇役』って変な名前だよな」


俺の呟きに、保阪はワンテンポ遅れてから笑った。


「気に入ってるんだ」


そのまま、保阪は笑みを浮かべたまま言った。


「俺、死んじゃうらしいんだ」


いきなり誰かにバチン、と顔の前で手を叩いて鳴らされたかと思った。それなのに、「死んじゃう『らしい』」となんて言い方をする、どこか他人事な保阪が、保阪らしいななんて思う。


水をちびちびと飲んで徐々に醒まそうといていた酔いはすっと引いて行った。肝が冷える。体温ががくっと落ちるような感覚。後頭部を鈍器で殴られる感覚がそのあと。


表情を削ぎ落した俺の顔を見て、保阪がへらりと笑った。


「いきなりごめん。びっくりするよな」


さいしょはぐーが通用しない。さいしょから相手がぱーで負けた。でも、腑に落ちてしまった。待ち合わせのときと、飲み屋を出てすぐの、あの違和感が、ほぐれている。


それでも「なんで」と言わずにはいられなかった。それは、保阪に対してではない。保阪に『死』を与えたものに対してだ。保阪は、落ち着いていた。


「長くて1年。24×365、いや、24×366かも」


うそじゃないことは、保阪がそんな冗談をいう人間ではないことからわかってしまった。卒業して会わないあいだにずいぶん変わっている保阪になら、それが通用したかもしれないけれど、保阪は、ぜんぜん変わっていなかった。それが、証拠だった。


「肉体は生まれるときに選べないからね。おれの肉体、けっこう脆かった」


保阪はくたびれたようにベンチに深く腰掛ける。ベンチの背もたれに頭を預け、夜空を見上げる。「自販機で150円の500mlを買いたいけど、120円しかなかったから250mlのにしとこうっていう妥協でおれは生まれてきたのかも」なんて珍しく冗談を言ってから、保阪が呟く。


「にんげんってあっけなく死ぬんだよなー、おれ、忘れてたよ」


そう呟くと、鼻から息を吐きだし、そうして困ったように弱った笑みを浮かべ、俺を見た。


「江渕さ、今度の土曜空いてる?」


本屋のシフトは入っていない。「空いてる」とだけ返すと、保阪は笑みを深めた。


「美術専門学校の文化祭にお呼ばれしててね、絵を描きながらトークをするっていうものなんだけど、俺、話すの下手だから」


そう言って、保阪は俺の肩にぽん、と手を乗せた。その手が、俺を必要している温もりだった。ビルの間にぽつねんと置かれた公園には、飲んだくれたサラリーマンたちの騒がしい声が聞こえてくるだけ。


「そもそも俺は部外者だし、絵のこと何も知らない」


「関係ないよ」と保阪はすかさず口をはさむ。その一言は部外者に関してなのか、絵に関してなのかは定かでない。


いきなり投下された爆撃によって、俺のなかは何も修復されていない。そんななかであれこれ言われても、すべて原形をとどめないふやけた言葉でしかない。


「俺が絵を描くから。描いてるあいだ、江渕が生徒たちに話をしてほしんだ」


保阪の目はまっすぐだった。俺は、首を横に振る。もう、俺にはその目を向けられる資格はない。今度は俺が水の入ったペットボトルを見下ろすばんだった。


「俺は小説家にはなれなかった」


大学進学中も、いくつかの賞に応募した。運よく中間、最終に残ることはあっても、賞をとることは一度もなかった。出版社から声がかかることもなかった。


もう一度だけ、次こそ、それが蔦のように積み重なり、いつからか、こんだけ頑張ったのだからもう少しで、今あきらめたら今までのものが水の泡になる、そんな思いが蔦の上にカビを生やす。


大学を卒業したあとも小説を書きたいから定職には就かないといった俺に親は猛反対して、けっきょくその口喧嘩を最後に、俺は一度も実家へ帰らなくなった。


本屋でバイトをして家に帰って広がらない宇宙のなかで、必死に寄せ集めたガラクタで物語を構成する日々。


外の世界に指先だけ触れてみれば、現実は物凄いスピードで進んでいて、自分だけが置いて行かれている気分だった。いや、実際に置き去りだったのだ。


そうしているうちに、本人がどう思っているかはさておき、俺からすれば立派に社会人をやっている友人たちと顔を合わせることができなくなっていった。


ここまで追い詰められて、もう、どうにかしてでも、結果を残さないと、生きている意味がないとさえ思いながら、眠れない夜を布団にくるまってやり過ごす。


言葉を求めているひとがいる、ということは、言葉を授けるひとがいる。


それができない俺は、いらない言葉たちは、なんのために存在する?


文學雑誌に載っている十六歳の書いた小説を読んだ。読んで、それで、俺は、


「……俺は、天才じゃない」


打ちのめされたのだ。突き付けられたのだ。気がついてしまったのだ。


十六歳の彼が書いた小説を読んで、俺は、保阪が描く絵を思い出していた。あの頃はなんとなくだったものの正体がいまならはっきりとわかる。保阪は、天才だということを。


天才という特別な存在である保阪を通して、凡才な俺は、俺も、特別な何者かになりたいと思ってしまったのだ。


そうして、俺自身を見ようとしなかった俺には、なにも残らなかった。


アスファルトを突き破ってでも咲く花がある。


どんなに肥料をよくしても、陽の光にあてても、水をやっても、咲かない花もある。


水がたぷたぷと揺れている。waterと書かれたラベルを見て、ふと思い出す。英語。単語。辞書。思い出すのは、プリントを後ろに回したときに、保阪が描いていた英語教師の絵。


「そういや、英語の教師がよく言ってたよなあ。とにかく辞書を引けって」


保阪も思い出したように「言ってたかもしれないね、そういえば」と柔らかな声で返事をする。


「辞書は、ひとつの単語を調べるとしても、答えに辿り着くためには、無意識の中で色んな単語に触れられるからなって。そんときはめんどくせえって、電子辞書のほうがはえーじゃんって聞き流してたんだけどさ、つかほぼ話聞いてなかったんだけどさ」


「うん」


保阪の声は、夜空に浮かぶ星に似ている。東京の空では消えてしまうけど。


「今ならわかるなあ。意外と、答えなんてどうでもいいことが多いんだ。問いに対して、向き合う、その過程が大切なんだろうなって。俺、答えばっか求めて、大切なの、ぜんぶ捨てちゃったんだよなあ。家族も、周りの人も、思い出も、なにもかも」


溜息をつこうとした瞬間、「江渕」と呼ばれて吐きだそうとしていた息を、思わず吸い込む。


隣の保阪は、へらりと笑って言う。


「もっかい拾えばいいんだよ」


この笑みを見ると、ふしぎと、いろんなことがどうでもよくなる。「ゴミ拾いじゃねんだから」と俺も釣られて笑う。「ついでに卒業式の日に教室のゴミ箱に捨てた上履きも拾うといいよ」「あー、まだ捨ててあるといいな」


保阪は俺の言葉に笑うと、あの頃を思い出したように「江渕が前に読ませてくれた小説さ」と続ける。ときおり掠れる声を聞きながら「おう」と返事をする。


俺はジャングルジムの景色を思い出す。そういえば卒アルの寄せ書きに、保阪の名前はなかった。


「たぶん、今の俺が読んでもむずかしいと思う。だけど、ひとつだけ、今でも覚えてて、で、ときどき思い出す台詞があるんだ」


保阪の目を見る。あの頃は、こんなことさえもできなかった。むずかしかった、と同じ言葉を吐かれてももうあの日のように、ローファーを見つめ考えてしまうこともない。それは、かなしいことに、現実を知ったからだ。いやまだかなしい、と思えるのだからいいのかもしれない。


「主人公たちが必死に現実を変えようとしたときの、名前もない脇役の老人のひとりごと。『種があると信じて水をやるのも、ないと思ってそこに家を建てるのも、あるかないか掘り起こすのも、ぜんぶ、自由だ』」


保阪にいきなり紡がれたその言葉が、自分の生み出した作品の一部だと理解するには時間がかかった。そのあいだに、保阪は続ける。


「『――ただ、誰かが種のためにくれた水を忘れちゃあいけない』って……俺の種は、江渕が水をくれたから咲けたんだよ」


恥ずかし気もなく保阪は言う。恥ずかしいって感情は、人間にどういう影響を与えたくて芽生えた感情なのだろう。


「俺は、水なんてやった覚えない」


「いっぱいくれたよ。『そんなに上手いなら堂々と描けばいいだろ』とかね」


「ああ」俺は思い出した言葉に笑いを含めて頷いた。ブーメランを食らったからよく覚えている。今ではもう笑えるだけのものになってしまった。


笑えた、その意味がどういうことなのか、もう俺は知っている。


「『脇役』って名前も、そこからとってるんだよ」


「だったら『老人』でもよかったろ」


「無理言うなよおれにはかっこよすぎる」


「そっちかよ」


ふたりで笑い合う。あの頃の、数週間と、同じ時が流れた気がした。


あの頃から俺たちは何も変わっていない。天才と凡才。


保阪が、瞬きをして、それから下の唇を舌でなめた。言うか、言うまいか、選択をしているように、黒目を動かしている。


そして、その目が、まっすぐと俺へ向けられた。あ、既視感、これ、俺が負けるやつ。


「やっぱり文化祭のトーク頼むよ、江渕」


ほらきた。俺は脱力したように、ベンチのからずりりりと下へ流れた。


「あーもう、わぁーったよ、で、なんの話すりゃいいの」


保阪は、満足げに笑って言った。


「“夢のために大切なこと”」


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