砂漠の真ん中に水
保阪とはじめてまともに口をきいたのは、高校3年の冬休み明けだった。
俺と保阪が通っていた高校は、その土地では入学できれば近所で親の鼻がそれなりに高いところだった。入学することが目標になっていた俺は、ゴール地点を間違えたマラソン選手のごとく、進級するごとに成績は失速していった。
文系のクラスに落ち着き、というよりは理系などという選択肢はなかった俺は、テスト期間だけ徹夜して、最終的に、指定校の推薦枠で空きができたところにすべりこんだのだ。
11月には大学が決まっていた俺は、あとは卒業を待つだけの身になっていた。いや、2月からの自由登校を心待ちにしていた。
それだけ、高校生活に対して特に何も見出していない学生だったのだ。
「2年のころから散々言ってるが、単語調べるときはとにかく辞書を引けよ」
教壇に立つ英語の教師は、ひとりで二十数名の十代を相手に言う。俺は、英語の辞書と電子辞書とてきとうに開かれた教科書とノートと、ポーズだけを机の上に並べ、シャーペンで指のあいだで遊ぶ。
頭のなかと、机のなかのスマホだけは正直だ。学ぶ気なんてさらさらない。
――単語、辞書、シャーペン、書く、時間、とまる、すすむ、おわる、ちきゅう、呼吸、がっこう、きえる、人、なぜ?
「辞書は、ひとつの単語を調べるとしても、答えに辿り着くためには、無意識の中で色んな単語に触れられるからな。気がつかないうちに学べるんだよ」
耳から入り込む教師の“情報”。視線の先、斜め前の神田が鬱陶しそうに教師を見ている。あれは、受験期のいま話すことじゃないだろって顔だ、たぶん。そうやって目から入る“情報”。
――辞書のなかにある単語にシャーペンでまるをつけたから、どういうこと?それが、現実に起きてる、だったらどうするの?それで世界を正そうとする側の人間と、それを止めようとする人間がぶつかる、で?けっきょくどうなるの?……どう、なるんだろう。
俺は頭のなかに広がる宇宙を、小さなノートの片隅に書き留めて、閉じ込めていく。宇宙は広い。あっという間にどこかにいってしまう。その前に残さなければならない。
――どうなる?いや、どうしたい、か。ちがうな、どう進めていく?辞書は、どこからきた?だれのために、なんのために、あーはらへった、喰う、あ、辞書は、喰って、生きてる、だから、死ぬこともある?だったら、
「おい、江渕、プリント」
前から声がして、慌ててノートの端を手で覆いながら顔をあげた。前の席の今野は、振返ることもせず無遠慮に、前から回ってきたプリントを手だけで回してきた。
いまはその無遠慮さにすくわれる。ノートの文字を伏せるように覆っていた手をプリントへと伸ばす。「わるい、ぼーっとしてた」そう言ってプリントを受け取ると、後ろへ回す。
今野とちがい、俺は後ろのやつに振り向いてプリントを渡す癖がある。小学生のときに、後ろを見ずにプリントを回したやつがいて、そのプリントの角で白目を切ったやつがいた。俺は、防げるはずの事故は起こしたくない。
振り向くと、後ろの席の保阪は、左手で頬杖をついてノートに柔らかな曲線を描いていた。ひとだ。しかも、英語の教師だ。
「うまっ」思わず零れていた。
俺がやべえと我に返るのと、保阪が顔をあげて俺を見るのがほぼ同時。目が合うと、保阪は、へらりと笑った。絵を描いていることをごまかすような、恥じらうような笑みだった。
その感情を、俺は、知っていた。
肌が白く、男のなかでも線が細くて、口数の少ない保阪はときどき「女子」とからかわれていた。話したこともないやつがそう言われることに、俺は何も思わなかった。
でもいまは少し腹立つな。こいつは、こんなに絵がうまいのに。
「そんなに上手いなら堂々と描けばいいだろ」
保阪が、ぽかんと口をあけた。『堂々と』というワードが盛大にブーメランだ。俺はプリントを保阪の机の上に置くと、さっさと前へと向き直った。
「(…………で、なんだっけ)」
頭のなかの宇宙は、不定期な鍵付きの引き出しへ戻されていた。
帰りのSHRが終わり、机のなかのスマホを取り出してスラックスのポケットに突っ込んだとき、保阪が俺に声をかけてきた。
「江渕くん」
後ろの席へ振り返る。俺を呼んだ張本人は、「あのさ」と鼻の頭を掻いては、話の切り口を考えあぐねている。俺が帰る前にと焦ったのだろう。
俺はもう一度、自分の席へ着く。サッカー部を引退した倉田は未だに部活のエナメルバッグを使っている。たぶん卒業まであのまんまだろうな。橋本が席に座る俺に気がつき、怪訝な顔で言う。
「江渕、おまえ帰んないの?」「帰るよ。塾頑張れ」「もう頑張りたくねえよ」
騒がしい教室も、2年の頃の騒がしさとはちがう。この時期はよけいだ。一夜漬けではとうてい手に負えない量の勉強の成果を実践するための、受験がもうすぐなのだ。
みんな平静を装いつつ、不安に駆られながら、勉強に明け暮れている。
「そういや、保阪も推薦組だよな」
教室に残るのは、すでにふたりだけになっていた。保阪はいきなり振られた話題に「えっ」なんて声をあげながらも「うん」と頷いた。そういう、まどろっこしいというか、打ってすぐ返ってくる男子のノリから外れているのが、保阪だった。へへ、と困ったように笑いながら言う。
「俺、ここも推薦で入ったから、大学受験なんて、なんか怖気づいちゃって」
怖気づく、と素直に言えるほうが大人なんだってことを、そのときまだ子どもだった俺はわからなかった。
俺と保阪の席は教室のいちばん端で、左隣はいつも窓と壁だった。俺は、壁に寄り掛かるように座り、横目で保阪を見る。
「お前、いつから描いてんの」
「え?」
「そう、絵。疑問系の『え』じゃなくて、描くほうの、絵」
「あ、うん、わかってるよ、小学生のときから、漫画の絵とか、真似して描いたりとかはしてたかな」
「おまえまさかあのゴム人間とか、多重影分身できる忍者とか描けんのか」
「江渕くん、言い方」そう言って、保阪は屈託なく笑いながら「下手だけど描けるよ」と付け足した。俺は思わず保阪の机の上を手のひらで叩いていた。絵が上手い女子は知っていたけど、仲良くもないやつと話が盛り上がるわけがない。
でも、保阪なら、そう思った。
「俺あいつら好きなんだよ。変人速攻コンビ!保阪描いてみてよ」
「スポコンいいよね」と笑う保阪に俺も自然と笑みが浮かぶ。こいつ、話わかるやつだ。と、思ったのもつかのま、保阪が、静かに口元を閉じた。佇むような微笑。
「交換しようよ」「交換?」「うん」
保阪が俺の席を指さした。机の上にリュックが乗っているだけだ。
「俺も、江渕くんの『作品』見たいからさ」
「は?」笑ってごまかしたくなる感情がマンホールから水漏れのように溢れ出す。保阪には『堂々と』を押し付けて棚に上げたもの。
保阪は続ける。やっと核心をつけたように綻ぶその顔は、保阪のことを『女子』とからかう男子たちの笑みとは違う。保阪が、ばかにしてるわけじゃない、いたずらに口にしているわけじゃないことはわかった。
「ときどき、授業中に意識飛ばして、それから慌てて必死になんか書き留めてるじゃん。ほんとうはずっと気になってたんだけど、江渕くんと話したこと、なかったから」
他人に気づかれるほどだったのかと、こめかみを抑えたくなる。ろうそくに火をつけたときに香る独特な匂いが鼻にまとわりつくような感覚。
「ただの落書きだし」そう言い返すのが精一杯だった。
自分の小説を誰かに読ませたことはなかった。ネットに掲載はなんとなくしている。それは俺の顔も、名前も、何も知らない誰かに届けるからいいのだ。
俺という存在を認識している特定の誰かに読まれるのに、抵抗があった。まるで頭の中を隅々まで嘗め回すように見られて、俺に対して、現実と空想をねじりあげられて見られるのが嫌でもあった。俺と、俺の小説は、いわば、別人だ、と叫んでしまう気さえした。
教室の決め事で何ひとつ発言をしたことがない保阪が、俺に、言う。
「落書きだって、作品じゃんか」
食い下がる保阪に、俺は溜息をつく。
「何をそんなにムキになってんだよ。落書き見てどーすんだよ」
漫画の話で前のめりになっていた身体を再び、壁に預ける。鼻から抜けていく息が、いつの間にか浅くなる呼吸が、心拍数を上げていた。保阪が、瞬きをして、それから下の唇を舌でなめた。言うか、言うまいか、選択をしているように、黒目を動かしている。
そして、その目が、まっすぐと俺へ向けられた。
「江渕くんが夢中になって見てる世界を、俺も見てみたい」
『堂々と』その言葉が再びブーメラン。俺は脱力したように、壁からずりりりと下へ流れた。
「あーもう、わぁーったよ、交換な」
それから自由登校までの数週間、俺たちは放課後になると同じ時間を過ごした。3年間のうちのわずか数週間。その時間は、保阪が俺を「江渕」と呼ぶようになるのには十分で、けれど、お互いを下の名前で呼び合うには不十分だった。
俺はぽんぽん物語が浮かぶわけでもなく、圧倒的に保阪が絵を描くのを見ながら話しをする時間のほうが長かった。
「お前マジでうめえな」
「ふつうだよ」笑いながら保阪がよく言うセリフだった。そのふつうが天才の枠組みにはまっていることは、薄々気がついていた。
保阪の机を挟んで向かい合う。絵を描く保阪は基本的に下を向いている。俺と話をしながら、ときおり、楽しそうに声を出して笑う、そんなときでも、白いノートの上に黒を乗せている。
頬杖をついて、ふ、と保阪の顔を見る。俯きがちなその顔は、睫毛と、鼻の頭に目がいく。
女子みたいに真っ直ぐで蛍光灯の光に艶を見せる保阪の黒髪は、保阪がノートの上に走らせる細い線に似ていた。綺麗なところとか。
「お前将来絵描く仕事すれば?」
「無理だよ、俺なんか」
わりと真剣に告げた俺の言葉は、悩む隙もなく笑って否定された。否定されると肯定したくなるのが人間の性だ。
「ジャケ買いってあるだろ?漫画とか、小説とか。中身の当たりはずれは置いといて、俺、保阪の絵が表紙だったら、買うな、たぶん」
「たぶんかよ」ははっと、ビー玉が綿のタオルの上に落ちたような笑い声。
「絶対って言葉ほど信用のない言葉はないだろ」
「それはまあ、いえてるね」
保阪と一緒に過ごすようになって、気がついたことがある。女子みたいで、自己主張もなくて、弱者代表みたいな保阪は、彼であって、彼自身ではない。
たぶん、保阪は、遠くを見つめている。だから、今の立ち位置に必死になることもなければ、縋ることもない。
俺の頭のなかですぐに消える宇宙とはちがって、保阪のそれは、消えない。現実として、保阪の先に佇んでいる。それは、保阪の描く絵が、なによりも正直だった。
俺は、保阪の絵を通して、保阪の見ている世界を見ている。いわばそれは疑似体験。
『江渕くんが夢中になって見てる世界を、俺も見てみたい』
じゃあ、俺の世界って?
「これ」と、保阪に十数枚のA4の紙を渡したのは、けっきょく卒業式の日だった。自由登校中になんとか書き上げた今の俺の精一杯の世界。
卒業式を終え、学校の近くの公園にふたり。なんとなくジャングルジムの上にいる。隣の保阪の黒目が、ワードで打ち込んだ活字を上から下へと追いかけていく。
「…卒業式やっぱ和田泣いたな」どうでもいいことを言わずにはいられなかった。
「うん」
「なんか、高校ってあっけねーよな」
「うん」
「俺、教室のゴミ箱に上履き捨ててきたんだけど、怒られっかなー」
「うん」
「ま、卒業したしもう関係ねえか」
「うん」
保阪が俺の話を聞いていないのは明確だった。俺は、卒アルを取り出し、てきとうにめくったページを眺める。保阪が声をかけてきたのは、寄せ書きのページを眺めているときだった。
「読み終わったよ」
「……おー」
隣の保阪が、まっすぐと俺を見ているのがわかっているのに、俺は、寄せ書きのページを意味もなく眺めながら返事をすることしかできない。
どうだった?なんて聞ける余地はない。むしろ黙ってろ。このまま帰ろうって言いだしたい。でも、保阪の言葉も聞きたい。天秤が、いつまでも揺れていた。
3月の日差しは春の温かさに近いけれど、風はまだ冷たい。
「むずかしかった!!!」
と保阪が叫んだ。びっくりしてあやうくバランスを崩してジャングルジムから落ちそうになる。「なんか、むずかしかった、ごめんおれがばかで、むずかしくてよくわかんなくて、」保阪はそう続けた。
「お前いきなり叫ぶなよ」「あ、ごめん」
保阪はいつものようにへらっと笑った。以前より伸びた前髪。胸につけたコサージュは、なんだか浮いていた。
むずかしかった、と保阪の言葉が反芻される。その七文字を噛み砕こうと、ジャングルジムの骨組みに乗っかった足先を見る。もう履くこともないであろうローファーは、ところどころ傷が走っている。
風が、つめたい。日差しの温もりをなかったことにしてしまうぐらい。
「さむいな」と保阪が身震いしながら言う。「だなあ」とぼんやり答えた。
「江渕の小説の表紙、描いてみたいなあ」
はじめて、保阪が未来の絵について語る言葉だった。俺がそれに対して何も答えないまま、俺たちは公園で別れて、それっきりだった。十数枚のA4は保阪の手元に渡ったままだった。
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