咲かずの凡才と朽ちる天才

灰芭まれ

アスファルトに埋まる



「あれ、江渕さんまだ帰ってなかったんですか」


雑誌を食い入るように読んでいたせいで、自分に向けられた声に反応が少し遅れてしまった。同じ書店員である広野さんが、いくつかの本を抱えて状態で、いつの間にか隣にいた。


「広野さん、お疲れさま」


人の気配に疎くなるほど必死になっていたことをごまかすように、ぎこちなくも、口元を緩めた。大学生である彼女は、教育期間を終えて数年経つ俺よりも何倍もしっかりしている。


「文學雑誌ですか?つまらない話でも載ってたんですか?」


広野さんは訝し気な表情でそう訊ねつつ、それでも本棚の空きに手際よく、ていねいに、本を補充していく。俺は慌ててかぶりを振る。


感情が顔に出ていたことを恥じていた。


「いや、関心してたんだよ。ほら賞取ったの、十六歳の高校生だって」


そう言いながら雑誌の受賞者欄を、広野さんの前へ運ぶ。彼女は「ほんとだあ」と感嘆とした息を漏らし、瞳をきらきらと輝かせている。それは純粋に文学を好むひとの反応だ。


広野さんが感動のあまりに頬を高揚させ、ぱっとを顔をあげた。俺の顔を見るその喜々とした表情は、まるで同士と勝利を味わうかのようだった。俺を同士だと思っていることに、安堵と、それから、やり場のないかすかな苛立ち。


「またこの世に素晴らしい本が増える予感ですね」


そう言って微笑むと、胸の前に抱えていた残りの一冊を、本棚に差し込もうとする。そのとき、気がつけば「その表紙、」と言葉が出ていた。


広野さんは俺の視線を辿り、自身が手にする本の表紙を見る。その表紙を見て、すぐに表情を明るめた。


「このイラストレーターさん、最近よく本の表紙に使われてますよねえ」


タイトルを邪魔しない、優しくもあるが、どこか後ろ髪を引かれるような、独特なタッチの絵だった。そして、俺はその絵描きを知っていた。


俺が絵描きのことを知っているということを知らない広野さんは、本を手にしたまま、腕を組む。店内を子どもが笑いながら走り回る音が、高い棚の向こうで聞こえる。その音を追いかけるように「シー!静かにして」という女性の声。


「このあいだたしか画集も出してましたよね」


そう言って広野さんはひらめいたようにぱっと笑う。


「そうだそうだ!『脇役』さんってイラストレーターさんだ」


「『脇役』って」思わず口を突いて出る。すると広野さんも口に手をあてて笑いながら「変わってますよね」と相槌を打つ。


「それにしても、」と広野さんが、『脇役』が描いた表紙の本を棚に差し込みながら言う。


「一度でいいからこういう才能のある人たちが見ている世界を私も見てみたいものです」


「そうだね。どんな世界を見て、つくっているんだろうね」


いったい、なにが違うというのだろう。笑顔がわずかに歪む。在庫補充を終えた広野さんは「それじゃ、私行きますね」とバックヤードのほうへ身体を向けた。


そうして、「あ」と何かを思い出したように声をあげながら振り返る。広野さんの声につられ、彼女のほうへ顔を向けた俺と目が合うと、笑顔で指をさした。その指先には、俺が手にする文學雑誌。


「感動過多でしわくちゃにしないでくださいね、それ、売り物ですよ」


指摘されたとおりだった。俺が掴む場所からシワが派生している。


「ええはい買いますよ」と、もう姿の見えない広野さんに返事をしてからレジに向かった。



―――――――






文學雑誌の入った袋片手に、家までの道のりを大きくそれながら歩く。俺が週に6日勤めている本屋は駅に直結しており、毎日混み合っている。杖をついた老人、眠る赤子を抱きかかえる女性、根元だけ地毛の大学生らしき青年、ランドセル姿の小学生、部活終わりの中学生、前髪ぱっつんの高校生、仕事終わりのサラリーマン。毎日、年齢性別問わず誰かが本を買っていく。


本を求めているひとがいる。本という言葉を求めているひとがいる。


平日の昼間の歩道は静かだ。ひとりで歩くほとんどの人間が、耳にイヤフォンをぶっさしている。ふたり以上では、その仲のよさは関係なく会話をしている。「いやあ、今日は本当に天気良いですねえ」「ほんとですよねえ」とひっきりなしに天気の話をするやつらの関係は、バドミントンのラケットで卓球のボールを打とうとしている程度だ。


言葉を求めているひとがいる、ということは、言葉を授けるひとがいる。


「ぎぶあんどていく、承認欲求、エトセトラ」


誰も彼もが自分たちのなかで音を紡いでいる場所では、つまり、俺のひとりごとを聞く者は、いないということ。


俺が歩くたびに、がさがさ、とビニール製の袋が鳴る。俺が勤める本屋の、紺色の袋の持ち口はせまい。コンビニのビニール袋のように手首まで通しても余裕があるのとは違って、親指を除いた四本の指を第二関節まで通して持つぐらいが限界だ。それの何が即席ごみ袋として代用した際に、縛り口がないことだ。


歩くたびに、がさがさ、くしゅくしゅ、しゃかしゃか、と袋が音を立てる。ふだんなら、こんなことに苛立つことはない。いや、袋の中身が悪いのだ。だから、その音がいちいち気に障って、腹が、


「……減った。腹が減った」


怒りは非を認めたくないがゆえの自己主張だ、という言葉を思い出した。道路の反対側にある、家族を含ませた名前のコンビニのほうが好きだったが、わざわざ信号を渡るまでの、コンビニに対するこだわりはないので、すぐ近くにあった、数字をふたつぶちこんだ看板を掲げるコンビニへと吸い込まれた。


からあげ棒と陳列されたなかでいちばん安いお茶を買って、その足でそのまま公園へ向かう。公園には犬の散歩をする老人がいるだけで、あとは、公園という場所がその場にあるだけだった。


スマホが電話を知らせたのは、公園の隅にある円形のゴミ箱に雑誌を袋ごと捨てようとしたときだった。


画面に表示されているのは、携帯番号。登録していないだけの知り合いか、友人か、家族か、いや、友人と家族の可能性はいまさらない。俺がぷっつり切った縁たちだ。


無視することも考えたが、いつまでもコール音が鳴りやまないの。なかばやけになって通話ボタンを押す。「もしもし」


「あ、この電話、江渕で合ってますか?」


気弱そうな男の声だった。江渕、と俺の名前を呼んだものの、この電話で合っているのかどうか向こうは定かではないらしい。首を傾げる。だれだ?


考えてもしかたがない。「江渕ですが」と、ぶっきらぼうに答える。


「江渕って、江渕 舜?」


「江渕 舜ですが、てかお前だれだよ」


まず先に名乗れって、どっかの漫画の敵も言ってるだろと内心思うが口にはしない。相手が誰だかわからないのに、そんな皮肉まじりのジョークを飛ばせるわけがない。


俺の疑心暗鬼の対象になっている相手は、「江渕、ひさしぶり」と嬉しそうな声をあげて、それから我に返ったように言った。


「おれ、保阪だよ。ほら、高3んとき同じクラスだった」


保阪、という男はひとりだけ知っていた。俺は広野さんが手にする表紙の絵を思い出していた。


「おまえ、『脇役』って苗字に改名したわけじゃねえんだ?」


「え!?江渕知っててくれたの?」


皮肉ジョークに対して、知っててくれた、なんてそういう純粋な言い方をする男を俺はやっぱりひとりしか知らない。


「ツイッターで、過去の絵上げてたろ、高校んとき見せてくれた」


「あ、あーなるほど、えーすげえ、ネットの海すげえ…こえー」


「そこかよ」けらけらと笑えば、「だってさあ」と言いながらも保阪も笑っていた。電話越しだからか、声が掠れているように思えた。


保阪と俺の関係は、ふしぎだった。それは俺たちを繋いだ期間の問題でもあるかもしれないし、俺たちが互いに共有したものの問題でもあるかもしれない。保阪が、高校の同級生という知り合いの枠なのか、旧友なのか、いまいち俺もわからなかった。


「江渕いまどこに住んでんの?てかいま電話だいじょうぶ?」


いまさら気を遣う保阪は、おそらく平日の昼間に、多くの社会人は汗水垂らして働いていることを思い出したのだろう。


「大学で東京きてからずっとそのまんま。おまえは?」


あえて、なにも言わなかった。言えなかったという言葉を、きっと純粋な保阪なら使う。


「俺もいま東京に住んでる。あのさ、今夜空いてるならどっかで呑もうよ、おれ、呑めないけど」


「どういう誘い方なんだよそれ。おまえ最寄りどこ?」


けっきょく保阪と今夜の待ち合わせの時間と場所を決め終え、電話を切るころにはからあげは冷めきっていた。でもまあ、一度も天気の話をしなかったのだからよしとしよう。


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