第3話

ポロポロと涙を流していた千郷が、細く綺麗な指で目元を拭った。


「………ごめんなさい、見苦しいものを見せたわね。」


「んな事ねぇよ。誰だって嫌なことがあったら、涙くらい流すだろ。」


何となく気恥ずかしくて顔をそらす。


「ふふっ、そうね。」


なに笑ってんだ。


「なに笑ってんだよ。」


「何でもないわ。……懐人に頭を撫でられたのなんて、いつ以来かしらね?」


「高校くらいじゃね?」


「そうね。大学生になってからは、撫でてくれなくなったものね。」


「千郷がさせなくなったんだろ。」


「………そうね…………その通りだわ。」


小さく笑って俯く。

その笑みは昔を悔やんでいるような自嘲的なものだった。

その顔を見ておれず、俺は咳払いをする。



「んんっ………そんで、2つ目の会社もやめたんだな?」


「流石にいられなかったわ。」


「相手の奴はどうなった?」


まさかお咎めなしとはならんだろう。


「上層部に知られてクビ……その後、私が裁判にかけて慰謝料を踏んだくってやったわ。」


「まじかよ。」


「やられっぱなしは性に合わないもの。」


弑虐的な笑み。


「……お前はそういう女だよな。」


千郷はいつだって負けず嫌いで、プライドが高くて、克己心が強かった。

それが大学生になってから、悪い方向に歪んでしまったのだ。

その原因は周りの人間にもあり、もちろん俺も例外ではない。

本当に彼女の事を思えばこそ、彼氏として間違いを正すべきだったのだ。


今更思ったところで、覆水は盆に返らねぇけどな。




「2つ目をやめてからはどうしたんだ?またすぐに転職か?」


「いいえ。裁判とかもあったし、半年は休んでいたわ。」


「そうか。」


「それから転職活動をして、今の会社に入った。もう1年以上経つわね。」


「その会社はどうなんだ?」


また同じような事にならねぇか。

内心でそんな心配を孕む。


「それは大丈夫よ。今の会社、女性しかいないから。」


「………まじ?」


女性の社会進出が進む昨今、そんな会社もあるとどこかで聞いた覚えがあるが。

本当にあるんだな。


「珍しいな。」


「新しい会社だし、給与も以前に比べたら減ったけど………男女関係の煩わしさは無いから、快適だわ。」


「そうか……女だけってのも色々ありそうだけどな。」


「それは否定できないわね。でも、女は敵も作れば味方も作る生き物だから。」


「味方は増やせば問題なしってか。」


「男という障害がなければ、やりようはいくらでもあるものよ。」


「怖い怖い。……まぁ、今が幸せなら良かったよ。」


俺がそう言うと、千郷は儚げな笑みを浮かべた。



「幸せ……ね。」


「なんだよ。」


「ううん……私、幸せなのかな…って。」


「…違うのか?」


「わかんない。」


「何だよそれ。」


意味わかんねぇ。


「幸せって何なんだろう。あの日から、わかんなくなっちゃった。」


「……あの日?」


「うん………」


千郷が涙で赤くなった目で俺を見る。



「私が……懐人を傷つけてしまった日。」


その瞳は悲しげで、儚げで……遠くの何かを、見つめているようだった。





暫しの静寂。

俺は呆然と千郷の顔を眺めていた。

彼女の瞳は惑うように揺れている。

千郷は何を考えているのだろうか。

何を見つめているのだろうか。


「私は……愚かだった。」


彼女は静かに語り出す。


「周りに煽てられるままに調子に乗って、肥大化するプライドに違和感すら持たず、献身的に尽くしてくれた貴方を蔑ろにした。」


「………千郷。」


「自分の全てを肯定し、貴方の全てを否定した。懐人を愛していたはずなのに、それを示す事を怠った。本心と行動が乖離している事にすら気付かず、貴方を罵る自分を不思議に思うこともなかった。」


「………あぁ。」


「あの頃の私は何かに取り憑かれていた。でもそれは間違いなく私の心で、私の言葉で、私の行動だった。私は、悔やんでも悔やみきれない……謝っても許されない過ちを犯した。」


「そう……だな。」


「懐人に捨てられて……私は身勝手にも貴方を恨んだわ。どうせ私がいなければまともに生きてもいけない。そんな根拠のない戯言をほざいてた。」


あの頃の千郷なら言いそうだ。

容易に想像ができた。


「でも、ね………貴方は楽しそうに暮らしてた。笑い合える同級生と、慕ってくれる後輩達に囲まれて、幸せそうに学校生活を過ごしてた。そして、まともに生きていけなかったのは、私の方だった。」


「…なに?」


「懐人がいなくなった後、私の周りには汚れた下心を隠そうともしない男達が集まった。いや、もしかしたら隠してるつもりだったのかもしれないけど、私には丸わかりだった。」


女は変に鋭いというか、察しが良いもんな。


「逆に、それまで普通に接してくれていた人達は私を見放した。たぶん皆、私の傍に懐人がいたから、私とも接してくれていたんだと思う。今ならわかるの。」


そんな話、知らないぞ。

誰も、そんな事は言ってなかったはずだ。



「知ってる?私ね、一度強姦されそうになったんだよ?」


「なっ!?」


なんだそれ。

何なんだよそれ!!


「なんっ…だよそれ!何でそんな事に!!」


「私がフリーになって馬鹿達が集まってきて……でも私が靡く素振りも見せなかったから、我慢できなくなったんだろうね。」


またもや自嘲的な笑みを浮かべる千郷。


「それまでは懐人がいた。懐人は知り合いが多くて影響力があるから、私を狙ってる人達はいつも懐人を警戒して近づかなかった。」


「お、おいちょっと待て!それも初耳だぞ!」


「懐人は自分でも気付いてなかったみたいだけどね。貴方は先輩から可愛がられ、同級生から親しまれ、後輩からは慕われる人だった。貴方の周りには、いつも沢山の人がいた。」


確かに知り合いは多い方だと思うが。

影響力?俺が?


「ともかく、そんな懐人が私の元から去ったから、飢えた男達が集まるようになったのよ。」


「それで、その………されたのか?」


「ううん、未遂だった。攫われるところを懐人の友達が見てて、通報してくれたの。」


「俺の友達?」



「懐人と同じサークルの……神経質そうなのっぽの人。」


あいつかよ!!

ちょっと待て、聞いてないぞそんなの!!


「そんなこと俺は聞いてないぞ。」


「懐人には言わないって言ってた。私にも懐人には言うなって。」


「……何でだ?」


問いかけると、千郷は寂しそうに笑った。


「聞いたら、きっと懐人は心配してしまうからって。これ以上、懐人の心を惑わさないでくれって。」


千郷の言葉に唖然とする。


「なん……だよ、それ……」


「のっぽの人とか、特に懐人の近くにいた人達は、私の本性に気付いていたみたい。私が懐人を傷付けて、懐人が私を見限ったのも、知ってたみたいだよ。」


「……まじかよ。」


あいつら、そんな素振り全く見せなかったじゃねぇか。


「ほんとに、懐人は良い友達に恵まれるよね。たぶん、それが懐人の本当の才能なんだろうね。………あの頃の私には、わかんなかったなぁ。」




「………千郷は……後悔しているのか?」


寂しげな千郷の顔を見て、思わず問いかける。


「後悔………かぁ……」


「俺は……俺は………後悔、してるかもしれない。」


「……どうして、懐人が?」


「俺がもっと早い段階でお前を嗜めていれば、違った未来があったんじゃないかって。俺はただ、臆病なだけだったんだ。」


「懐人は悪くないよ!私が…私が悪かったの!」


「俺達2人の関係は2人で作るものだ。それが壊れたのなら、どちらにも問題があったと考えるのが妥当だ。確かに千郷にも問題はあった。でも、お前に全てを押し付ける気はない。」


「か、懐人………」


千郷の瞳が潤む。


「なぁ、聞かせてくれ。千郷は………後悔、してるか?」


俺の問いに、千郷は一度俯き、やがて顔を上げた。

一筋の涙が頬を伝う。

しかし、その目はしっかりと俺を見ていた。




「私は、後悔してる。懐人を傷付けた自分を…過ちを認められなかった自分を…そして、貴方に好きだと言えなかった自分を。」

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