第2話

グラスに注がれた琥珀色のウイスキーを口に含む。

強い灰の香りと木の香り、そして喉をピリピリと焼く感覚。

一口飲んで隣を横目で見ると、はっとするほど綺麗な女性がマスター特製のカクテルが入ったショートグラスを傾けていた。


「ふぅ……ここのお酒、美味しいわね。」


「おう、俺も気に入ってる。」


「よく来るの?」


「月に2回くらいか。」


「そう……」


何度目かの沈黙。

互いに小さく一口。

そして互いに相手を盗み見る。


「………どうかした?」


それはこちらの台詞だ。


「いや、何でもない。」


「そう……」


「あぁ……」


「………ごめんなさい。隣、座らない方が良かったかしらね。」


隣の彼女…千郷が申し訳なさそうに軽く俯いた。


「いや、別にそんなんじゃねぇよ。……悪い、ちょっと無愛想だったな。」


千郷が目を丸くした。


「まぁ、その、あれだ……久し振りすぎて、なに話せば良いかわかんねぇだけだ。」


「………そう。無愛想で口下手なのは相変わらずね。」


「何だよ。」


何か文句あんのか。


「ふふっ、ごめんなさい。懐人が変わってないってわかって……ちょっと安心しちゃったのよ。」


「……そうかい。」


お前は変わったな。

そんな風に笑った顔を見るのはいつ以来か。

千郷が俺に謝るのなんていつ振りだっただろうか。

俺が別れを告げたその時でさえ、謝らなかったあの千郷が。

これが、時の流れってやつなのか。



「……ねぇ懐人…元気だった?」


「…まぁ、ぼちぼちな。」


「今日は仕事帰り?」


スーツ姿の俺を見る千郷。

そう言う彼女もスーツだ。


「おう、まぁな。ていっても、さっきまで他の奴らと飲んでたんだけどな。」


「ハブられちゃったの?」


「うるせぇよ。……お前も仕事終わりか?」


「えぇ、そうよ。私は普通に残業していたんだけどね。」


「そりゃお疲れ様。結構大変なのか?」


「普通よ。そこまで極端に遅くなる事もないけれど……残業なんて、どこにだってありふれてるでしょ?」


「まぁな……」


俺も、いつもなら短くても2時間は残業してるからな。


「この近くで働いてるの?」


「いや、地下鉄でいくつかってところだな。」


「何ていう会社?」


「あぁ、ちょっと待て………ほれ。」


名刺を取り出しておざなりに渡す。


「どれどれ……うわっ、大手じゃない!しかも係長!?」


「まぁ、一応な。」


「……懐人、私と同い年よね?」


「それ聞く必要あるか?」


小学校から大学まで同じだっただろう。


「それもそうね。でも……貴方も出世したものね。」


溜息を零しつつ名刺を仕舞う千郷。


「意外か?」


「そうね……いえ、やっぱり納得できるわ。懐人は昔からやればできる人だったし、面倒見も良かったもの。」


どっかで聞いたような評価だな。

俺ってそんな世話焼きに見られてたのか。


「まぁ、先頭に立って引っ張るようなタイプでもないから、中間管理職には向いてるかもしれないわね。」


「中間管理職向きで悪かったな。」


「あら、才能があるのは素晴らしい事だわ。……私なんかよりよっぽど、ね。」


自嘲するような笑み。

俺の知る千郷らしからぬ表情だった。


「……何かあったのか?」


問いかけると、千郷は目を瞑って俯いた。

暫くして顔を上げ、目を開けて俺を見る。



「……私ね。今の会社、3つ目なんだ。」


「……そうか。」


今の時代、そんなに珍しい事でもないと思うが。


「前の2つの会社、どうしてやめたかわかる?」


「わかる訳ねぇだろ。」


「……ちょっとは考える気とかないの?」


「ない。考えてわかるような事なら聞かない。」


俺が答えると、千郷はちょっと顔を顰めた後、呆れたように苦笑した。


「……そうね、貴方はそういう人だったわね。」


わかってもらえて何よりだ。


「………んで、どうしてやめたんだ?」


「男よ。」


心底つまらなそうにそう言った。


「痴情の縺れか?」


「似たようなものね。まぁ、それもきっかけでしかなかったけど。」


「というと?」




「最初に入った会社では、初めは上手くいっていたの。自分で言うのもなんだけど覚えは早かったし、営業の成績も良かった。」


営業職か。


「でも3年目に部署が変わって……異動先の上司に気に入られちゃってね。」


「言い寄られた訳か。どんな奴だったんだ?」


「中年の割には若くてイケメンで、女性社員からはそこそこ人気のある人だったわ。」


「ほう、良いじゃないか。」


「冗談でしょ。当時私は25歳よ。もっと若くてイケメンを堕とす自信もあったし、そんなのに靡く訳ないでしょ。」


やっぱこいつ千郷だわ。


「でも、その男は自信があったんでしょうね。部内ではそれなりにモテていたようだし。」


「ふむ。」


目で先を促す。


「自信満々に口説いてきた男を、私はあっさりと振ってやったわ。ショックを受けた男は逆恨みして、今度は私を冷遇するようになった。」


「……面倒くさそうな奴だな。」


そういう奴、いるけどな。


「それだけだったら別に良かったのよ。嫌な上司の1人くらいいて当たり前だし、その程度で負けるほど弱くもないし………でも、私を陥れようとしてきたのはそいつだけじゃなかった。」


千郷がぎゅっと拳を握る。


「部内の女性陣…その男に惚れていた女達が、私をいじめるようになった。点数稼ぎなのか何なのかわからないけどね。」


「うわぁ……」


女って怖ぇ。


「それでも我慢してたけど、どんどんエスカレートしていって……ついに我慢できなくなったの。」


「それでやめたのか?」


千郷が平然と頷く。


「やめる前に、男が私に送ってきてた気持ち悪い口説きメールを印刷して部内にばら撒いてきたけどね。」


お前が一番怖ぇよ。


「そんな事して大丈夫だったのか……?」


「本当に酷いセクハラじみたメールは拡散させなかったわ。」


「それで脅した訳だな?」


もし恨んで何かしてこようものなら……と。


「まぁ、結局は私が負けて逃げたのよ。これくらいの意趣返しはさせてもらわないとね。」


あっさりと言ってのける千郷。

やはり強い女である。




「………とにかく、それで最初の会社をやめたんだな。」


「えぇ。入社して3年目。私が25歳の時の事ね。」


「2つ目はすぐに転職したのか?」


話を聞く限り、転職の準備をしてやめたようには聞こえなかったが。


「退職して2ヶ月後には次の会社に入っていたわ。実績もそれなりにあったから、そんなに困らなかった。」


「ほう、それは凄いな。」


「その会社も、3年でやめちゃったけどね。」


「それも男絡みか?」


「そうよ。」


そこでカクテルを一口飲む。

俺もウイスキーを飲んだ。

強烈な香りと深い味わいを楽しみ、流し込む。

互いに深く息をついた。


「………それで?」


「えぇ………今度は前みたいな事がないように、適当に彼氏を作る事にした。彼氏がいれば、変態上司がいてもそう簡単に口説いてはこないでしょ。」


「まぁそうかもな。」


元カノから聞くと微妙な気分になる話題だ。


「それで同じくらいの歳でそれなりにイケメンで誠実そうな人を選んだんだけど………」


選んで堕とせるのがすげぇよ。

まぁ、久々に見る千郷は以前にもまして綺麗になっていたから、堕とされた男の気持ちもわかるけどな。


「けど?」


「私の目が曇っていたのか、そいつが隠すのが上手かったのか……もしくはその両方か。」


「隠すって……何かやばい奴だったのか?」


「詳しく言うのも気持ち悪いから言わないけど……色々と特殊な性癖を持ち合わせていたのよ。」


なにそれめっちゃ気になる。

けど聞かない方が良いのだろうな。


「なるほどな……それで別れたのか?」


「すぐに別れた訳じゃないわ。矯正しようとあれこれ頑張ったんだけど…うまく噛み合わなくて。」


「結局は別れてしまった、と。……ん、それは会社をやめた理由に関係あるのか?」


そもそも会社をやめた理由を聞いていたはずだが。


「………その男、振った私を逆恨みしてきて……」


千郷は口を閉じて顔を顰める。

怒りと悲しみが入り混じったような表情だった。


「言いたくないんだったら良いんだぞ?」


俺はそう言うが、千郷は首を振った。


「ありがとう、でも大丈夫よ。……懐人に、聞いてほしいの。」


「………そうか。」


ウイスキーを一口。

千郷が話せるまで無言で待つ。

やがて、深呼吸をした彼女が口を開いた。



「その男、自分の部屋に隠しカメラを置いてたみたいで……」


「………は?」


なんだそれ?


「彼の部屋に私が行った時のとか…その……泊まった時のとか、盗撮してたみたいで……」


「お、おいおい…それ……まじか……?」


「冗談でこんな事言わないわよ。」


力なく笑う彼女。

その目にはうっすらと涙が。


「その写真を社内で見せびらかされて……それで………」


「もういい。もう…わかったから。」


下唇を噛んで震える彼女の頭に手を置き、宥める。

まだ俺達が高校生だった頃、千郷が落ち込んだ時にこうしてやっていたのを思い出した。


「うっ……ひぐっ……うぅ……う………」


俺は、声を殺して泣く彼女の頭を、ただ無言で撫でていた。

マスターが気を利かせて俺達から遠ざかる。

店内には、いつの間にか俺達だけになっていた。

ジャズの音が穏やかに流れる中、千郷の小さな泣き声が、暫くの間響いていた。

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