決別した傲慢な元カノと再会した話

豚骨ラーメン太郎

第1話

デスクに置いたスマホの振動を感じ、キーボードで打ち込みをしていた手を止めた。

予め設定していたアラームが鳴ったようだ。

左手首に巻いた金属ベルトの時計を見る。

時刻は17時。


俺は手早くキリの良いところまで作業を進めると、きっちりバックアップまで取れたのを確認し、パソコンをシャットダウンさせる。

帰宅の支度まで終わらせたところで再度時計を確認すると、まだ15分程しか経っていなかった。

我ながらなかなかの手際である。


「あれ、係長もうお帰りですか?」


何かの書類を持って俺のデスクまで来た男性社員が、不思議そうに首を傾げている。


「何だ、嫌味か?サラリーマンが定時で帰って何が悪い。」


からかうようにニヤけて言うと、部下の男は苦笑した。


「いやいや、そういう意味じゃないですよ。いつも残業してる係長が早く帰るのも珍しいなって。」


「俺は基本的にいつも定時までに仕事は終わらせてるぞ。」


「存じてますとも。それでも仕事見つけて作業されてるじゃないですか。」


部下の言う事は間違っていない。

自分で言うのもなんだが俺はそこそこ仕事は早い方だ。

だが、家に帰ってもする事がない為、ほぼ毎日仕事を探しては残業に勤しんでいる。

仕事の幅を広げたり部下の面倒を見たり……理由はいくらでも付けられるが、つまるところ仕事が好きなのだ。

その俺がこうして定時で帰ろうとしている事に、この男が驚くのも無理からぬ事だろう。


「今日はちょっと用事があってな。明日は休みだし、たまには良いだろ。課長も出張でいないんだし。」


今日は金曜、明日は土曜。

暦通りの職務に励むサラリーマンにとっては至福の時である。


「たまにはっていうか、むしろ係長にはもっと休んでいただきたいんですけどね……係長があんまり頑張ると、僕らも頑張らないいけないじゃないですか。」


冗談半分で笑う部下。


「仕事は頑張るもんだろ。それに、お前らだって俺にしょっちゅう仕事を持ってくるじゃないか。そうやって。」


男の持っている書類に目をやった。


「あぁ、そうでした。これ、来週の会議で使う資料なんですけど、一応確認していただこうかと思いまして。でも、お時間がないなら大丈夫です。」


「社外秘の資料か?」


「いえ、ただの報告書です。」


「ならPDF添付してメールで送っといてくれ。明日にでも確認して返信する。」


「え、でも明日休みですよ?」


「その程度は仕事に入らねぇよ。暇潰しみたいなもんだ。良いから送っとけ。」


「こんなつもりじゃなかったのに……すみません、ご迷惑おかけします。」


使い古した鞄を手に、頭を下げた部下の肩を軽く叩いた。


「アホ、こういう時は何て言うのか、何度も教えただろうが。」


「……はい、ありがとうございます!宜しくお願いします!」


「おう。そんじゃ、お疲れさん。」


「お疲れ様でした!!」


口々に挨拶してくる部下達に別れを告げながら、俺は会社を後にした。






時刻は20時を少し過ぎたところ。

俺は退社後、約束していた奴らと合流して繁華街の大通りにある大衆居酒屋に来ていた。

集まったのは俺を含めて5人。

全員、同じ大学で同じサークルに入っていた同期である。


「いやぁ…卒業してもう7年が経つなんてな……」


ガタイの良い短髪の男がしみじみと呟いた。

飲み会が開始して早2時間。

これくらいになるといつも誰かがこんな話題を出す。


「だな。いつの間にか時間ばかり過ぎやがって……」


前髪が寂しくなりかけている小太りの男が同調した。


「まぁ、皆なんとか人並みに生きていけてるんだ。悪い事ばかりじゃないだろ?」


ノスタルジックな雰囲気を笑い飛ばそうとする俺。


「そりゃお前は出世してるもんなぁ。大企業に入社して30歳で係長就任なんて、滅多にいるもんじゃねぇ。」


神経質そうな顔をしたのっぽが羨むようにそう言った。


「まぁまぁ、懐人カイトにも大変な事は多いだろうし、そういう言い方も良くないよ。」


人の良さそうな朗らかな男が嗜める。

こいつは昔からお人好しな奴だった。


「へっ、んなの知ってるよ。」


のっぽが拗ねたように顔を背ける。

お人好しは俺を庇ってくれたが、俺は元々気にしていない。

のっぽがそういう言い方をする奴だってのは昔から知ってるし、これでなかなか良い奴なのを知っているからだ。


「懐人は昔から面倒見が良かったし、要領も悪くなかったからな。上司が上手くそれを見抜いたんだろ。」


「そうそう、後輩の世話とかも率先して焼いてたよな。一見して無愛想なのに世話焼きとか、懐人のギャップにやられる後輩は多かったんだぜ?男も女もな。」


小太りが俺を褒めそやし、短髪がニヤついて続く。

俺は鼻で笑いつつ肩を竦めた。


「無愛想で悪かったな。俺は別に世話焼きな訳じゃねぇ。困ってる奴を放っとくのが気持ち悪いし、寝覚めが悪いだけだ。」


「そういうのを世話焼きって言うのさ。」


「お前は相変わらずだな。」


お人好しがニコニコと笑い、のっぽが呆れ顔をした。



「何だよ揃いも揃って……大体、ギャップだなんだと言う割には、モテた経験も無かったぞ。」


「そりゃ、お前には千郷チサトちゃんがいたからな。」


「千郷ちゃんがいるのに懐人に唾つけようとする娘がいる訳ないでしょ。」


「あぁ、そういう……そうだったな。」


俺は過去を笑うように鼻を鳴らした。


千郷は高校から大学まで付き合っていた元カノだ。

小学校から同じの幼馴染のような女で、高校2年の春に告白され、付き合うようになった。

大学3年の夏に別れるまで、4年間交際していた。


「どうして別れちまったのかね。」


のっぽが口を尖らせてそう言った。

俺は苦笑を返すしかない。


「何でと言われてもな。色々あったとしか言えねぇよ。」




千郷は幼馴染の俺から見てもかなり可愛い女だった。

可愛いというよりも綺麗か。

高校では千郷より綺麗な娘はいなかったし、大学でもトップクラスに綺麗だったと思う。

当時の彼氏としては微妙な気分だが、かなりモテていたし告白される事も多かった。


それでも千郷は俺と別れなかったし、浮気もされていなかったと思う。

だが、当時の俺はどうして千郷が俺と一緒にいるのかわからなくなっていた。

何故なら、俺と付き合っている内に、千郷が段々と傲慢な態度を取るようになっていったからだ。


高校の時はまだマシだった。

俺は千郷が好きだったし、千郷も俺を好いてくれていると自信を持って言えた。

だが、大学に入ってからの千郷は変わった。

見目麗しく学業も優秀、それでいてコミュ力も高く気遣いのできる千郷は、それまで以上に周囲からチヤホヤされるようになった。

その反面、俺に対して辛く当たる事が増えていった。


俺はずっと我慢していた。

千郷の理不尽な要求が日々強くなろうとも、俺に対して甘えてくれているのだと思い込むようにし、彼女が俺を愛してくれている証拠だと、盲目に信じていた。


だが、そんな俺の我慢も献身も、永遠に続くものではなかったのだ。


きっかけは何だったのか。

今となってははっきりとは思い出せない。

だが、いつも千郷の全てを受け入れていた俺が、彼女の要求を拒否したのだ。


その時の千郷の怒り様は凄まじいものだった。

ちょっと反論しただけなのに、彼女は俺の全てを否定するように罵詈雑言を浴びせてきたのだ。

奴隷に反逆を受けた主人。

まさにそんな感じだった。


ただそれだけならまだ我慢できたのかもしれない。

いつも通りに諦めたような笑顔を貼り付け、己の感情を殺し、平伏して許しを乞えば、彼女の怒りを宥める事ができたのかもしれない。


だが、彼女は決して言ってはいけない事を言った。



『所詮あんたじゃ、私に相応しくないのよね!ペットとしての自覚が足りないんじゃないの!?』



それは彼女の冗談だったのかもしれない。

ちょっとした出来心で使ってしまった言葉なのかもしれない。

だが、俺の心を殺すには十分すぎるほど鋭い刃を持っていた。



『千郷は、俺を愛していないのか?』



幼稚な言葉だと思う。

情けない言葉だと思う。

しかし、俺にとってはその質問が最後の綱だった。

そして、その綱は虚しくも簡単に引き千切られた。



『はぁ?なにその寒い台詞?ドラマの見過ぎじゃないの?ほんと気持ち悪いんだけど。』



それで十分だった。

それだけで俺の心は死んだ。

俺が彼女をどれだけ愛しても、彼女は俺を愛さない。

俺が彼女をどれだけ"女"として見ても、彼女は俺を"男"として見ない。



『千郷にとって、俺はただの玩具だったんだな。』



全てを諦めた情けない男の台詞。

不思議と涙は出なかった。

千郷と過ごした時間を、自然に誤った過去として認識している俺がいた。


その後の事はあまり詳しく覚えていない。

思い出したいとも思わない。

ただ、俺は千郷に別れを告げ、一年近く同棲していた部屋を出て行った。

千郷は大粒の涙を流しながら、怒りに顔を赤く染め上げ、俺を睨んでいた…と思う。

思わず感心してしまう程の語彙で俺に罵倒を浴びせ、怒り狂う彼女を見ても、その時の俺は何とも思わなかった。


ちなみにこの話は誰にも話していない。

千郷は俺以外には取り繕った気遣いのできる女性を演じていたから、話したところで信じてもらえないだろうと思った。

それに、別れたとはいえ幼馴染である彼女の評判をわざわざ落とす事もないだろうと考えたのだ。


それ以来、学内で会っても他人として接した。

俺から近付くことはまず無かったし、千郷から話しかけてきても何かと理由をつけて断り、電話が煩かったため着信拒否にした。


大学卒業後も一度も連絡を取らなかった。

卒業前には千郷から近寄ってくる事もなくなっていた為、彼女ももう忘れているのだろうと思っている。

もしかしたら今では結婚して子どもまでいるかもしれない。


大学を卒業して7年。

社会人になって彼女ができた事もある。

だが、過去の経験からどうしても一歩引いて接してしまう俺に愛想を尽かし、皆離れていってしまった。

今では立派な"仕事が恋人"人間である。


結局、俺はいつまでも過去に縛られているのだろう。

ある意味では、千郷の事を忘れられずにいるのだろう。

俺はどこまでも情けない、愚かな男であった。



愚かな男のまま、生涯を終えると思っていた。






「うぉぉ……飲み過ぎた……」


「ちょいと盛り上がりすぎたな……」


「集まったのも久々だったしね。」


「明日には響かねぇと良いがな。」


居酒屋を出た頃には、空はすっかり暗くなっていた。


「明日って、休みじゃないのか?まさか、休日出勤?」


爪楊枝を咥えているのっぽに問う。


「いや、家族サービスだな。遊園地に行きたいんだと。」


「何だよ、お前のところもか?俺はハイキングだ。キャンプをしたいんだとよ。」


のっぽの言葉に短髪が同情するように言った。


「俺は嫁の見舞いだな。」


「そういやそろそろだっけか?」


背伸びをしながら空を見上げる小太りをのっぽが見た。


「まぁな。早く産まれてきてくんねぇかな。」


ぼやく小太りは幸せそうに微笑んでいる。


「僕も早く結婚したいなぁ。」


お人好しが羨むように言った。


「そろそろ籍入れるんだろ?」


「うん、まぁね。明日は彼女の実家に報告に行くんだ。」


「お、まじか!良かったなぁおい!」


「あはは、ありがとう。」


4人が幸せそうに笑っている。

家族サービスとか言って面倒そうにしているが、息子や娘と出かけるのが、内心楽しみなのだろう。


俺は、自分が別世界の人間のように感じた。





丸い氷が溶けて音をたてた。

俺は頬杖をつきながら、中身の無くなったグラスを空虚に眺める。

家族や彼女の待つ家に帰る4人を見送り、飲み足りなかった俺は一人でここへ来ていた。


ここは俺が社会人になって以来、何度も訪れているバーである。

繁華街から少し入り込んだ所にあり、控えめなジャズが流れる静かな店である。

そこそこ歳のいったマスターが一人でやっており、必要以上に話しかけてくることのないこの店を俺は気に入っていた。

10人程が座れるカウンターのみの狭い店内。

俺以外には男女1組と男1人の3人。


もう一杯もらおうか、それとも帰ってゆっくりテレビでも見るか。

どちらにしようかと悩んでいると、扉の開く音が聞こえた。

無意識にチラリとそちらを見る。

スーツを着た女性が1人。


座れるかと聞き、マスターが頷いたところで、その女は奥にいる俺の方を見た。

どこに座るか探しているのだろう。

そして、たまたまそちらを見ていた俺と目が合い、その大きな瞳がさらに大きく開かれる。

俺も恐らく同じような顔をしているのだろう。


呆然としながらも、マスターに促されて中へと入る女。

彼女は俺の顔色を伺うように、ゆっくりと近づいてきた。


鮮やかな茶髪を一つに結び、左肩から前方へ流している。

20代前半と言われても信じられそうなほど綺麗な肌。

均整の取れた細身に長い足。

大きな猫目とパッチリしたまつ毛。


彼女は俺の前で立ち止まり、深呼吸をした後、口を開いた。




「……久し振りね、懐人。隣、良いかしら?」


俺も彼女に合わせて呼吸を零した後、言葉を返した。




「あぁ、久し振りだな、千郷。……まぁ、座れよ。」


次は何を飲もう。

そんな事を考えながら、俺は小さく頷いた。

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