114球目 多目的トイレが正しく使われない

 深夜の多目的トイレ前に、中年の男女が立っている。厚化粧の女性は辺りを見渡しながら、そっとドアを開ける。



「アンナちゃん、そんな警戒せんでもええやん」


「壁に耳あり、障子に目あり、用心に越したことないわ」



 浜甲はまこう学園の理事長の妻・柳生やぎゅうアンナは声をひそめて言う。



「その慎重さ、昔と変わらへんねっ」



 前髪が全くない男は軽いノリでしゃべる。彼は阪神はんしん体育大学付属高校の寅吉とらよし校長だ。



「さっさと入って。用件済ませるわよ」



 アンナは多目的トイレに入るやいなや、消臭スプレーをあちこちに吹きかける。特に、便器はラベンダーの香りがするぐらい、徹底的にかけた。



「来週の練習試合の件なんだけど……」


「あぁ。もちろん、我がチームが君んとこをコテンパンにやっつけてまうよ。そして、アンナちゃんと初デートや」



 寅吉とらよしは学生時代からアンナに猛アタックするも、断られ続けてきた。その無念が晴れるとあって、頭の中はお花畑だ。



「普通に戦ったら、あんたのチームが勝つわ。でも、あの女が……」



 アンナの脳裏のうりにフォロボスを倒した時の津灯つとうの顔が浮かぶ。津灯つとうの得体の知れぬ超能力だけは、彼女の計画に支障をきたす恐れがある。



「あの女?」


「とにかく! 試合前に、このお茶を先発ピッチャーに渡してほしいの! 用件はそれだけよ」



 彼女が出したのは、自販機でよく見かけるお茶のペットボトルだ。底に紫の粒が沈殿しているので、ただならぬドリンクとわかる。



「わかったで。3年の若井わかい君が不調やから、きっと1年の天塩あまじお君が投げるやろ。彼に渡すとするよ」


「絶対に渡すのよ! 渡さずに負けでもしたら、あんたの不倫ふりんを奥さんにバラすわよ!」



 アンナの鬼の形相を見た寅吉とらよしは、頬を染めて甘ったれた声を上げる。



「ボクを信じてやぁ、アンナちゅああん」



 アンナは黙ってトイレのドアを開け、振り向きもせずに去っていく。



「あっ! ちょっ! もうちょい話そうや」


「タイムアップ! 続きは試合後!」



 遠ざかる彼女の背中を見ながら、早く阪体はんたい大付属勝利のゲームセットが聞こえてほしいと、切に願う寅吉とらよしだった。



(続く)

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