4球目 100メートル走は楽じゃない

 100メートル勝負にあたって、津灯つとうは体操服に着替えに行く。彼女を待つ間、俺は陸上部員の冷たい視線にさらされる。



「あんた、さっきの女の彼氏か?」



 千井田ちいださんが股割りしながら聞いてくる。相変わらず、目が殺し屋ヒットマンみたいで怖い。



「いいえ。ムリヤリ付き合わされてるだけです」


「せやんな。あたいを見てもビビらんから、めっちゃ根性すわっとるやん。あっ、ハチ」



 千井田ちいださんはミツバチを両手で捕まえる。ミツバチを見つけてから、両手で重ね合わせるまで、あっと言う間も無かったと思う。恐るべき動体視力と行動力だ。



「お待たせしましたー」



 津灯つとうがのほほんとした顔で帰って来る。しかも、何に使うかわからない赤いウエストポーチつきだ。俺は彼女にあきれ顔を見せて耳打ちする。



「もし君が千井田ちいだ先輩に負けたら、野球部自体が無くなるぞ。ホントにそれでいいのか?」


「大丈夫、大丈夫、あたしに任せといて」



 彼女は平気の平左へいざで、俺の忠告を軽く受け流す。こちらとしては、彼女が負けてくれた方がありがたいので、もう何も言わねぇ。



「ヨシ、位置について」



 合図を出すのはネコ耳君だ。津灯つとうは立ったまま、千井田ちいださんは本番さながらのクラウチングスタートで並ぶ。それにしても、清楚せいそ系とヤンキー系という対照的な2人だ。



「よーい、ドン!」



 両者ほぼ互角のスタート。だが、数秒経てば、千井田ちいださんが頭一つ飛び出る。



「さすが全国ランナー! 格が違う、速い、カッコいい!」



 ネコ耳君がつばを飛ばして実況する。千井田ちいださんは犬歯を出して、余裕の笑みを見せる。全身青い女子とタコ髪の男子が待つゴールまで、あと少しだ。



「あっ、うさちゃん」



 津灯つとうがポーチからウサギのぬいぐるみをコース脇に投げる。千井田ちいださんはレースそっちのけで、そのウサギに向かって駆けていく。



「ゴール! 全国レベルのスプリンターに勝てたぁ!」



 両手を広げて喜ぶ津灯つとうに対して、陸上部員が非難轟々ひなんごうごうだ。


「おい、そのぬいぐるみは何やねん!」


「レース妨害や。失格、失格ぅ!」


千井田ちいださん、こんなん無効ですよね?」



 千井田ちいださんはウサギの首をくわえて、目薬失敗後のようにうっすら涙を流している。目の下に黒いアイラインが浮き出て、耳が丸くなって毛が生える。彼女の顔が徐々にケモノっぽくなっていった。



(水宮入部まであと8人)

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