新春

〈死にたくて殺したい人〉


 もう春だ。

 今、僕の目の中に入り込んでいるあのピンク色の集合体は、きっと桜に違いない。

 歩道のガードレールの手すりをしっかりと掴んでいるが、それでも体と頭の揺れを抑えきれない。

 視界がぐらぐらとして安定しない。自分の目の前にあるものも、しっかりと捉えることが難しい。それに、今は桜などを堪能している暇はない。通行人にぶつからないように、歩行に精一杯の細心の注意を払っていなければ危険だ。

 ああ、辛い。しんどい。もう死にたい。どうすれば、どうすれば死ねるんだ。僕は去年のちょうど今頃、首を自ら包丁で切ったではないか。

 首を切って、アパートの階段の踊り場に倒れ意識を失った後、目を覚ますと、僕はICUにいた。

 心臓の鼓動とともに電子音を鳴らす機器が、僕の耳に今でもなおあの電子音を刻み続けている。

 ああ、助けられなければよかった。そうすれば、こんな地獄のような日々を過ごすことはなかったんだ。どうして、どうして神は僕を殺してくれなかったんだ。


 あれからというもの、僕は、脳の一部が機能しなくなったらしく、まっすぐに歩くことができなくなった。もちろん、生きていることを憎まない日はない。だが、自殺することさえ、今は以前より難しい。


 そういえば、あの時、僕が玄関前で刺してやった男はどうなったか。ICUで、僕は医者に「毒を飲んだか」と聞かれた。体中に、毒が回っていたらしいのだ。僕は、毒物など飲んだ覚えはない。もしや、あの男が僕に毒を飲ませやがったのだろうか。だが、幸いかその反対か、体に悪影響をきたす前に医師が解毒剤を投与してくれた。毒による後遺症は、今は残っていない。いっそのこと、救急車の中で、体中に毒が巡りころっと死んだほうがよかった。



 過去のことを思い出し、どうにもならないことに対する言葉にしようのない気持ちを胸に滞らせながら、彼は満開に咲き誇る桜の木の下を、横並びに手を繋ぎながら歩く男女に目を留めた。


 くそたっれが、リア充め。何を幸せそうにしていやがるんだ。ああ、イライラする。お前ら、早く死んじまえ。


 先の男女は、悪いことに、彼のすぐ目の前まで歩み寄ってきた。そして、彼のすぐ横を通り抜けていった。彼は、酷く気分を害した。


 おい、お前ら、殺してやるよ。殺してやるからな。今にみてろ。


 彼は、他者の幸せに対する憎しみで顔を紅潮させた。

 思わず、「殺してやる」と口に出してしまい、周囲の通行人に気味悪がられたりもした。


 彼は、思うように動いてくれない頭と体を何とか操作しながら、桜がひらひらと舞う並木道をゆっくりゆっくりと前へ進んでいった。


 前、後ろへと行き交う通行人は、彼を構うことなどなく、彼のすぐ横を通り過ぎていく。


 「殺してやる」

 彼は、ほぼ無意識のうちに、再び先程と同じ言葉を呟いた。

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寿司と平和 @kamometarou

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