<寿司屋>


 それは、5年前の冬の出来事だった。


 私は、とある町のはずれにある、小さな丘陵の隅で寿司屋を経営していた。

 歳は65で、ついこの前、妻に逃げられた。夫婦の絆など、きっと私たちの間にはなかったのだろう。私は、互いに愛し合っていると固く信じていたが。  


 山積みになった借金だけ残して、妻は消えた。妻が消えた日から、何日待っていても、妻は帰ってこなかった。私は、自死念慮を抱くようになり、日に日にこの世から逃げ出したい気持ちが強くなっていった。


 ちょうど、息子が安楽死の売買を仕事にしていた。私は、息子に安楽死の薬を売ってくれるように頼んだが、断られた。「安楽死は父さんには売らない。借金なら、俺と二人で何とかしよう。」と息子は言った。

 そのときの私には、残念ながら、息子の私への「生きていてほしい」という気持ちは伝わらなかった。


 今から考えると、恐らく私は鬱だったのだろう。

 鬱の症状が酷いときは、今すぐにでも死んでやるといった気持ちになるが、調子の良いときには、「やっぱり生きていたいな」なんて思うことがある。


 だが、ある日突然、魔が差した。

 ついさっきまで寿司屋のカウンターの拭き掃除をしていたはずなのに、私の体はふらふらと店を飛び出して、街の繁華街の方へ歩み始めた。


 「死にたい」「死にたい」「終わらせよう」と体が叫んでいた。「未来」なんて言葉も、「希望」なんて言葉も、何もかもを忘れ、私の頭は「絶望」の二文字で埋め尽くされていた。

 そのまま街を進み、背の高いマンションを見つけると、建物の階段を上り、最上階まで来た。柵から身を乗り出し、街の景色を眺めた。

 息子は、今この町に住んでいる。どんな形でもいいから、しっかり自分の足で立って、幸せになってくれ。飛び降りる前に、そんなことを考えた。


 

 意識が戻った時には、冷たいコンクリートに強く頭を打っており、やけに自分の血が暖かく感じた。

 朧でよく見えなかったが、私のそばで、ひたすら血をなめる物体の影があった。しかも、それは動いていた。小動物だ。

 

 「みけ?」


 みけ、みけだ。私の飼っている猫だ。おまえ、俺の匂いを頼りに追ってきてくれたのか。最後にお前と要れて幸せだよ。ありがとうな。みけ。

 

 みけは、ひたすら私の血を舐めている。そうか、私の血がそんなにうまいか。

 遠くから、救急車のサイレンが聞こえた。その音は、だんだんと大きくなっていったが、大きくなっているなと思いながら、視界が真っ白になった。



 「おーい。猫ちゃん。」

 体を粗雑に揺さぶられた。

 「おーい。あ、目開いた。」


 誰かの声で目を覚ますと、目の前には知らない男の顔がある。私は今、コンクリートの上にへたり込んでいる。

 私の体の毛には多量の血がついており、口の中はといえば血でいっぱいだ。それと、私の体のすぐ隣には私の体があり、頭から血を流して倒れている。


 ??


 あれ、おかしい。目の前に、頭から血を流し倒れている私がいる?

 では、今の私は何だ。私の魂か?

 いや、そうでもなさそうだ。ちゃんと呼吸もしている。瞬きもしている。それに、ちゃんと体もついてる。猫の、体がついている。


 猫に、なった??


 混乱で訳が分からない。どういうことだ。

 体を起こし、4本足を使って立ってみた。だが、すぐに倒れた。体がとてつもなく痛む。おそらく、これは体のあちこちを負傷しているな。


 「息の根がありません。亡くなってます。」

 救急車から降りてきた、救急隊の一員らしきタンカーを運んできた男が言う。


 「猫が一匹、倒れてますが。こちらの猫も、かなりの負傷を負っています。」

 「そうだな。おそらく、この方の飼い猫だろう。飼い主の危険を察知して、電信柱に打たれ、自転車に打たれ、さらには車にまで打たれながら、街の中を疾走してきたのかもしれんな。かわいそうだが、このままにしておくしかない。」

 「そうですね。」


 私の人間だったころの体と、今の私の猫の体と、通りすがりの知らない男一人と、救急隊員二人を取り囲んで、周りでは野路馬が集まりざわざわしていた。

 


<(猫の)寿司屋>


 こんにち、私は、丘陵の上に建つ瓦屋根の寿司屋にて、70歳の猫の店長として働いている。

 とはいっても、昼間は、店を閉じている。あたりが暗くなったころ店を開くため、昼間は存在感が薄い。よく、客に「昼間はなかったのに」と言われることが多いが、そんなことはない。昼間も、きちんと建物はそこにある。


 店の外には、猫の石像がある。猫がお座りをした形の、みけにそっくりの石像だ。

 みけの体に私の魂が乗り移った夜、私はぼろぼろになった体を何とか引きずりながら、店まで戻ってきた。そこには、いつもと変わらぬ丘陵の景色が広がっていた。だが、ただ一ついつもと違うものが景色の中に紛れ込んでいた。

 店の前、原っぱの上に、みけによく似た形をした猫の石像が置いてあった。

 あそこは、確か、みけが生まれた場所だ。

 みけの母親と父親は、野良猫だった。みけの母親も父親も、よく店に遊びに来ては、私に餌をもらっていた。その二匹の猫が、交配し、子を産んだ。それがみけだ。


 原っぱの上の猫の石像には、深緑の風呂敷が巻いてあった。ちょうど、猫の首にあたる部分だ。その風呂敷を口でくわえて、地面に広げてみると、驚いたのなんの、寿司の乗った皿が現れた。「寿司の出る」風呂敷は、きっとみけからの贈り物だ。そう思い、それからというもの、店に訪れるお客さんに寿司を出すときや、お客さんに寿司を配達する際に、私はその風呂敷を使っている。

もちろん、風呂敷を使っても、お客さんに猫の肉体を見られないように神経を配るのには、相当な体力がいる。

 一度、店に来たお客さんに、体のかげを見られてしまったことがあり、その時は「猫の幽霊ではないか」と疑われた。

 何をするにも、瞬発で用を足さなければならない。これには実に骨が折れる。



 猫の寿司屋を始めてから、ちょうど5年という月日がたった。

 ボランティアの出前寿司屋は、非常に生きがいを感じるものとなった。


 「寿司で平和を届ける」これは生前から私がモットーにしていた言葉だが、寿司で平和を作ることだって、できることもあるんだと何度も確信させられた。

 何よりも、お客さんの寿司を食べた後に作る、満足そうな笑顔がたまらない。


 猫になってから、私の人生に大きな厄介ごとは訪れなかった。息子が、「悪人殺し」という殺し屋に殺されるまでは。


 私が、一人のお客さんにお寿司を配達するために、風呂敷をくわえて街を歩いているとき、私はこの目で、息子が「悪人殺し」に毒針らしきもので体を刺されるところを見た。

 殺し屋は、周囲の人の目はだますことができるかもしれない。だが、背の低い猫の目をだますことには疎かった。

 息子が死んだという事実を知ったのは、その光景を目にした後、息子が救急車で運ばれる姿をこの目で見たからだ。だが、息子は、救急隊員の方が息の根を確かめたころには、もう死んでしまっていた。


 私は、「悪人殺し」という男と仲を良くして、あちらが気を許すようになったころ、殺してやると決めた。

 今年の秋、それをした。

 奴は、人相手では強いのかもしれないが、まさか攻撃してくるとも思わないかわいらしい猫相手には、弱かった。

 奴はすぐ倒れた。



 そして、今、ちょうど秋「悪人殺し」を処分した公園のすぐ近くに来ている。「悪人ごろし」が、息子に毒針を刺した場所だ。目の前にはコンビニがあり、その上にはアパートがたっている。


 コンビニの上に建つアパートは、いつも寿司を配達しているお客さんの住むアパートだ。そのアパートの、階段を上っていく。一段、一段と、駆け上がりながら進む。そうして、屋上に出る。


 冬の夜、アパートの屋上に建って眺める空は、濁りのない紺色だった。都会の空であるため、星はあまり見えないが、それでも空に雲がかかっていないため、きれいだなあと思うのに必要な最低限の数の星は見える。


 私は、今夜、今度こそ飛び降りて死ぬ。

 本来ならば「生きるか」「死ぬか」しかない動物の世界で、生きていることに迷うことなどないはずだが、私は息子を殺した人間を殺してしまったのだ。

 自分が死んだからといって、許されることはないだろう。自分の命が失われたからといって、死んだ人の命は戻ってこない。

 だが、それでもいい。気休め、自己満足、逃避にすぎないとしても、それでもいい。人間らしさとは、きっと「頭だけで考えない」という意味もあると思ってやまない。人間には、だれしもに心があり、情があるのだ。


 

 足に力を入れ、地を蹴った。これから屋上の柵の手すりにもう一回着地し、そのまま屋上から落ちる、はずだった。


 が、屋上の地面を蹴った瞬間、宙で体が止まった。左右両方向から、体ががくっと抑えられた。これは、人間の手だ。


 「にゃー。」

 体が勝手に鳴いた。


 「おーい。そこから飛び降りたら死んじゃうぞ。」

 女性の、優しい声がした。

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