夏
<れお>
「ねえ、れお、今日はお寿司にしたい。」
アパートの同じ部屋に住む、妻のかなが言った。
「えー。またお寿司?お寿司ほんと好きだね。」
今、僕の目の前で食卓に座りテレビを眺めているかなは、大のお寿司好きだ。真向いの席に座る僕は、さっそくスーパーに買い物に行く荷造りを始めた。
「じゃあ、行こっか。スーパー。早くしないと、店しまっちゃうよ。あそこ確か、5時に店閉めちゃうから。」
「うん。行こう。」
かなと手を繋ぎながら、玄関を出た僕らは、アパートの階段を下り、アパートの真下にあるコンビニの前を横切り、家の近くのスーパーまで出かけた。
「おー。これいいね。サーモンずくし。」
かながスーパーに並んでいる食品を指さして、嬉しそうに僕に言った。
「かなは、サーモンが好きだもんな。僕は、マグロだけど。」
僕は、サーモンずくしと書いてある商品と、マグロづくしと書いてある商品を手に取った。
「今日はサーモンとマグロか。一緒に食べるの楽しみ。」
「早く帰って食べよ。」
僕はかなの前に出て、レジの方向へ進んだ。
スーパーを出ると、もう外は暗くなり始めていた。
「夏だな。もう暗くなってるよ。」
「ほんとね。」と、かな。
横並びになって手を繋ぎながら歩くと、繋いだ片方の手の平から、かなの手の温度が伝わる。いつものことであるのに、何度手を繋ごうと、毎回考えることがある。
僕は、かなのことをちゃんと幸せにできているだろうか。かなは、今までの人生で、散々苦しんできた。ずっと一緒にいる僕だからこそ知っていることだ。
死にたくてどうしようもない夜が、何日、何週間、何か月、何年続いたのだろう。今だって、表に出さないだけで、きっと苦しみに押しつぶされてしまう夜があるだろう。
生きることの苦しみを根から払拭することなど、できないことだと僕は思っている。
だけど、それでもかなが「明日も生きていようかな」と思える日常を、僕はかなに届けたい。
横目でかなの横顔を見やる。
「ねえ、かな、僕、ちゃんと届けられてる?」
心の中で尋ねてみた。
「うわー。おいしー。」
かなが顔に笑みを浮かべながら、もぐもぐしている。スーパーから自宅に帰宅し、お寿司を食べ始めたところだ。
「うまいなー。」と、僕。
「そういえばさ、今度、ハイキング行かない?」
「うん。行こ行こ。いいじゃん。」
かなが何処かに行く誘いをしてくるなんて珍しい。ハイキングか。どこに行こうか。
「かな、でも、どこに行こう。」
かなが答えた。
「うーん、そうだな。あのさ、この町のはずれにある、原っぱの丘陵に行かない?」
「あー、あそこか。よく子供連れが遊びに来てるよな。いいな。じゃあ、こんどの土日にね。」
「りょうかーい。」
かながほっぺを膨らませながら、大げさなジェスチャーをしてみせた。
土曜日、幸いにして天気は快晴だった。雲一つない、晴れ渡る真っ青な空。ハイキングには適した天候だ。
丘の上にビニールシートを敷き、二人で座り込む。
「今日はよく晴れてるなー。気持ちいいな。」
「ねー。」
考えてみれば、かなと二人で緑の多いところへ出かけに行くことは、かなり久しぶりだ。やっぱり、緑の多いところはいいなあ。一人そんなことを思う。
「でも、なんか暑いねー。」
かなが手で顔を仰いでいる。
「そうだなー。めっちゃ暑い。」
僕は、大の字になって、地面に仰向けになった。
「セミの声が、体に染みるよ。」
「なんか、子供の頃を思い出すなあ。」
かなも、僕の隣で仰向けになった。
「しばらくこうして寝転がってようよ。」
かなの言葉を最後に、僕たちは何時間もそうして晴れ渡った空を眺めていた。
辺りが夕焼け色に染まり、周りにいた人がみな帰っていったころ、空気が涼しげになってきた。
「そろそろ、僕たちも帰ろうか。」
起き上がって、かなの顔を見た。
「そうね。そろそろ私たちも帰りましょう。」
二人でビニールシートを畳み、持ち帰るものをリュックにつめて、家の方向に踵を返した。そのとき、かなが何やら不思議なものを見つけた。
「れおくん、あそこにあるさ、猫の石像、面白いね。」
「あ、ほんとだ。何だろう。」
丘陵の隅に、可愛い猫の形をした石像がちょこんと置いてあった。猫は、お座りをしている。猫の石像の後ろには、こじんまりとした瓦屋根の建物が建っていた。昼間は、こんな建物見当たらなかったのに。なんでだろう。
よく見てみると、建物の入り口に掛かった暖簾には、こう書いてあった。
「寿司と、平和を売ります。」
「ねえねえれおくん、中、入ってみない?」
お寿司好きのかなは、目を輝かせている。
「そうだなあ、うん、晩飯にしようか。」
僕も賛成し、二人で建物の暖簾をくぐった。
「こんにちわー。ごめんくださーい。」
返事がない。人のいる気配もない。だが、中はきちんと店らしい構造であり、明かりも灯っている。
「すみませーん。二人前、お願いしまーす。」
あいかわらず、うんともすんとも言わない。
「れおくん、カウンターの上、見て。」
「あ。」
かなに言われて店のカウンターの上に眼を移すと、カウンターの上に、お寿司が二人前、つまり二皿、しっかりと用意してあった。
「おかしいなあ。」
「まあ、いいじゃない。いただきましょう。」
かなに促されて、カウンターに二人で横並びに座り、お寿司を頂戴した。
「う、うま!」
「えー!おいしー。」
これは、うまい。舌が唸る味だった。
「ごちそうさまでした!」
あー、上手かった。すべて平らげた。
そのとき、上から紙が降ってきた。その紙は、カウンターの上へ落ちた。何やら文字が打ってある。何だろう。よく見てみると、こう書いてあった。
「いらっしゃいませ。当店のお寿司はいかがでしたか?お客様からは、お駄賃はいただきません。引き続き、週一回の『平和』をご堪能ください。」
「おい、かな、これ、なんだ。」
「ねえね、れおくん、今の、見た?今、紙がここに落ちるとき、黒い動く影が見えたよ?」
かなは何やら違う話をしている。
「んあ?黒い影?見えなかったけど。」
「うんん。私は、見たわ。ひょっとして、猫の幽霊だったりして。」
かなは、またすぐオカルトと結びつけようとする。外に猫の石像があっただけなのに。
「でも、もし幽霊なら、ずいぶんサービスがいいなあ。」
あの不思議な出来事から一週間後、あの店で宙から降ってきた紙に印字してあった、「週一回の『平和』をご堪能ください」の意味を理解した。
一週間後の土曜日、お昼時に、玄関の前にお寿司の二人前が届けられた。誰が配達しているのかはわからない。ただ、一つ確かなことは、配達されるお寿司は絶品で、到底悪意がある誰かがいたずらでやっていることとは思えないということだ。
二週間後も、三週間後も、毎週土曜日の昼時は決まって玄関前にお寿司が配達される。お寿司屋が言っていたように、僕とかなの土曜日はそのお陰か決まって平和なお昼を過ごすことができた。
一度、配達人を暴こうと昼時じっと玄関の前に立っていたことがあったが、その日は配達をされなかった。と、思ったが、背中を丸めて家の中に戻ったのち、もう一度玄関の前をのぞいてみると、なんとしっかりとお寿司の二人前が置いてある。
幾度か試してみたが、毎度毎度、正体は突き止められずであった。
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