三.
それから一週間程が経ったある日の昼下がり、わたしは例の橋の下に向かっていた。彼女との待ち合わせのためだ。彼女と会うのは今日で三回目である。
そう、わたしはあの日の翌日、彼女の誘いに乗ってここに出向いてしまったのだ。不可思議なやり方でわたしのスマートフォンに強制的にメッセージを送り、裸足で闇の中へ去って行った彼女は、もしかすると人間ではないのではないかという疑念はあの日の深夜、S川からの帰路で既にわたしの胸に浮かんでいた。そして布団の中で彼女がいつか美術館で見た絵画の女性と全く同じ姿形をしているということに気付いたとき、その疑念はほとんど確信へと変わった。おそらく人間ではない存在が、なぜなのかは分からないがわたしに接触してきた。悪意や敵意があるようには感じられなかった。そうだ、彼女はわたしが落とした鍵を返したいと言っていたのではなかったか。しかも指定された時間は十四時、その時間帯ならば人通りも多くあるだろうし、深刻な危険が及ぶようなことにはなりにくいだろう。……色々と理屈を並べてはいるが、結局、何よりわたしは結局、彼女に対する好奇心に逆らえなかったのである。そうしてわたしは、彼女に指定された通り例の橋の下へと出向いた。
彼女は初めて会ったときも前回も、いつも別れ際に「じゃあ次、三日後」と言い、わたしはそれに二度とも応じている。計二回の面会で、彼女のことが少しずつ分かってきた。しかし彼女は常に断片的な情報しか語らず、また言葉をあまり知らない様子なので、わたしは彼女の語る言葉から彼女の言いたいことを補って推測する必要があった。彼女は以前、ミヤケという人物と暮らしていたらしい。ミヤケはいつもスーツを着て仕事に行き、一日に二回食べ物をくれ、彼女に色々なことを話して聞かせた。彼女には理解できないことも多かったが、彼女はミヤケの話を聞くのが好きであった。……というところまでが、前回までにわたしが得た情報である。一番の謎であるところの彼女自身が何者なのかということについてはまだ全く分かっていないままだ。
わたしが橋の下に到着すると、彼女は既にそこにいた。これまでと同じ黄色いロングドレス姿である。
「ただいま」
彼女はわたしに挨拶をした。この"ただいま"というのは、ミヤケが仕事から帰宅した際にいつも自分に向かって言っていた言葉だと彼女が言っていた。どうやら彼女は、誰かと会った際には"ただいま"と言ものだと思っているようだ。
ただいま。とわたしも応える。この奇妙なやりとりももう三回目である。橋脚にもたれかかっている彼女の横に、わたしもいつもと同じようにもたれかかる。
「ミヤケが、ジョウシが、嫌い、って、言ってた」
彼女の話はいつもこうして突然に始まる。
「悪くないのに、怒る、から、それで、嫌い」
彼女の話し方は一つずつ探した言葉をぽとんぽとんと落としていくようだ。これまではわたしはただ頷きながら彼女の話を聞くだけだったのだが、今日はわたしの方から彼女に質問してみることにする。
ミヤケさんはよく上司の話をしていたんですか?
「よく……? うーん、たま、に」
ミヤケさんは優しいですか?
「……優しい。から、ミヤケ、好き、だけど、捨てたの」
捨てた? あなたのことを?
「うん」
じゃああなたは今どこに住んでいるんですか?
「……」
あなたの姿は、以前見た絵画にそっくりなんです。
「……」
彼女は下を向いて黙りこくってしまった。まずい、急に核心に迫ったことを聞きすぎたかもしれない。焦ったわたしが次の言葉を探していると、下を向いたままの彼女が口を開いた。
「これは、ミヤケが、好き、な、絵」
やはり、絵画の女性に瓜二つだというわたしの実感は間違ってはいなかったらしい。彼女が人間ではないということはとっくに分かり切っていたので、その答えを聞いても納得こそすれ驚きはしなかった。ミヤケに見せられた絵に描かれていた女性の姿を真似ているのだろう。彼女の機嫌を損ねてはいなかったらしいことに安堵したわたしは彼女に語りかけた。
わたしもその絵はすごく好きでした。綺麗な絵ですよね。
その言葉を聞き、俯いていた彼女は真っ直ぐ前に向き直ったのだが、その顔を見たわたしは驚いた。彼女がその目からぽろぽろと涙を流していたからである。
「ミヤケ、無理、だからって、ごめんって、言って、捨てたの」
彼女は涙を流しながら真っ直ぐにS川の水面を見つめていたが、しばらくするとまた俯いてしまった。彼女は相変わらずの滲んだ絵具のような声でぽとんぽとんと喋る。
「それで、一人になって、寂し、くて、それで……」
だからわたしに声をかけたんですか?
「うん」
あのQRコードは?
「ミヤケが、やってた、見た」
最初にスマートフォンにメッセージを送ったのも、ミヤケさんがやっていたのを見て真似したんですか?
「うん。ミヤケが、約束、すまほで、する、って、言ってた」
彼女の謎が徐々に解き明かされつつある。やはり彼女は人ならざる存在であり、人間との交流を求めてわたしに接触してきたらしい。わたしは胸の高鳴りを感じながら、最大の謎を彼女に問いかけた。
あなたの正体は、何なんですか?
「……」
彼女は答えない。興奮を抑えきれないわたしは彼女の答えを待てずに捲し立てる。
あなたが行くところがないのなら、もし良ければ、あなたはわたしの家に住んでも良いんです。ただ、あなたの正体が分からないままだと困るんですよ。正体の分からないものを家に迎え入れるわけにはいかないでしょう。
彼女がわたしの家で暮らす、といういつからかわたしの頭の中に自然と浮かんでいたアイデアは、ミヤケに捨てられたのだという彼女の告白を聞いたときからさらにその存在感を濃くしていた。一人が寂しいと語る彼女にとっても、悪い話ではないだろう。
「……」
彼女は俯いたままで沈黙を守っていたが、しばらくすると再び顔を上げ、わたしの目を真っ直ぐに見た。彼女の瞳は、少しだけ青みがかっているように見えた。
「走ってた、の、見た」
頓珍漢な答えに少々面食らった。戸惑いながら彼女の言葉の意味を問う。
わたしが走っているところを見た、ということですか?
「うん」
彼女の目線は揺れることなくわたしの瞳に注がれている。わたしがS川沿いを走ったのはたった一度、初めてQRコードを見つけたあの日だけである。
「ここで、いっぱい、人、走ってるの、見た、けど、一番、遅かった」
どうやら本当に見られていたようだ。その不名誉かつ真っ当な評価に照れ臭さを感じたわたしは思わず彼女から目を逸らす。
「だから、一番、似てる、と、思った」
似ている、というのはミヤケにだろうか。わたしは目線を彼女の方へ向け直し、その真意を問おうとした。が、わたしの問いかけよりも早く、彼女がまた口を開く。
「でも、ごめん」
謝罪の言葉である。その意味は尋ねるまでもなく分かる。彼女はわたしの家で暮らすことはできないと言うのだ。どうしてですか、という問いかけをわたしはギリギリのところで飲み込んだ。彼女の目に再び涙が浮かんでいるのを見つけたからである。彼女は涙ぐみながら言葉を重ねる。
「家に、住むのは、無理。だって……」
だって?
わたしは思わず続きの言葉を待ちきれずに急かしてしまう。しかし彼女はその問いには答えず、初めて見る真剣な表情で川面の方を一瞥すると、
「行ってきます」
と言った。そして彼女はわたしの肩の辺りを軽くぽんと叩くと、次の瞬間、忽然と姿を消した。慌ててあたりを見渡しても、黄色いドレスはどこにも見当たらない。しかし、わたしの足もと、ついさっきまで彼女の裸足の足があった辺りには、直径二十センチメートルほどの緑がかった黒っぽい塊があった。非常に緩慢な動きではあるが、それはゆっくりと歩みを進める、亀であった。それは......いや、"彼女"と呼ぶべきであろう。彼女は、ゆっくりゆっくりと川面の方向に歩いて行った。わたしはトカゲにも似た彼女の尻尾が水面をごく小さく波立たせながら完全に水中に潜って見えなくなってしまうまで、彼女を見守り続けた。わたしはこの気持ちを紛らわせるためにわざと大げさに伸びをして、深い息をついた。
三日後、いつもの時間に同じ橋の下を訪れてみたのだが、いつまで待っても彼女が姿を現すことはなかった。
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