二.
そして時は流れ、今は八月、夏真っ只中である。わたしはと言えば相変わらず社会の底にドロドロと沈殿したどうしようもない生活を送っている。これまでと何ら変わりがない……いや、変わりがないどころか近頃は夏の熱気を疎んで自宅の外に出る機会が以前にも増して減り、ここ数週間、外出と言えば深夜にのそのそとコンビニに向かい、食料品を買い溜めしたくらいである。
当然今なお学校には通っておらず、バイトも始めていない。結局早朝のランニングはあの一度きりしか実行されず、わたしの社会復帰計画は進捗度ゼロパーセントのまま頓挫してしまった。そもそもこんな生活を何ヶ月も続けている者が急にランニングをするなどということが間違っていたのだ。体力をつけたいのならまずはもっと身体に負担のかからないものから始めるべきであって……いや、そんなことよりバイトの面接にでも応募する方が先じゃないのか? それならば履歴書のために写真を撮らなければ……ああ、写真を撮るならばこの伸びきった髪を切って人並みに容姿を整えてからにせねばなるまい……こんな身なりでは学校に復帰もできやしない……じゃあまずは散髪の予約を取って……ただ今日はもう時間が遅くてどこの理髪店も営業していないだろうから、また明日にしよう……明日になったら必ず理髪店に電話をして予約を取ろう……。……よし、明日だ。明日から全てが始まるのだ。今日はもうできることは何もない。仕方がないのだ。
ふと時計を見ると深夜一時である。ぐう、と腹のあたりから間抜けな音がした。時間を意識した途端に胃が空腹を主張し始めたようだ。そういえば今日はまだ何も食べていなかったか。インスタント食品のストックは確か昨日食べ切ってしまったはずだから、何か食べるためには食糧を調達しに外に行かなければならない。いつもはすぐ近所のコンビニでカップ麺などを買い込んで済ませるのだが、今日は少し遠いけれどもより値段の安い二十四時間営業のスーパーマーケットまで行くことにする。この生活は常に財政難との戦いであり、私の銀行口座は随分前から聞くに耐えない悲鳴を上げ続けているのだ。
そしてわたしはサンダルをひっかけ、自宅の鍵と財布、そしてスマートフォンをポケットに入れて玄関を出た。目的のスーパーへ向かうには、S川沿いを真っ直ぐ川下に向かって歩くのが良いだろう。
深夜にS川に来るのは今日が初めてである。川沿いまで降りて行ったわたしは、すぐにその初めて見る夜のS川に心を奪われた。
日中とは打って変わって人通りはほとんど無く、川面に映る色とりどりの街の灯の美しさはいつかプラネタリウムで見た星空にも劣らないとすら思える。一定のリズムを刻み続ける流水の心地良いビートに身体を預けて歩いて行くと、涼しい川辺の空気がわたしの身体を包んではするするとほどけてゆく。黒い川面は巨大すぎる程の存在感を持って川沿いを歩くわたしの隣にあり続け、日々のしがらみ全てを飲み込んでいってくれるような気がした。なぜ今まで知らなかったのだろう、深夜のS川がこんなにも素晴らしいとは。そうしてS川に魅せられたわたしは、その素晴らしさを堪能するためにしばらく立ち止まって川面を眺めることにした。どうせ急ぐ用事もない。すぐ目の前にちょうどもたれかかるのに良さそうな橋脚がある。わたしはそのひんやりとしたコンクリートの柱に背を預け、ぼんやりと、しかし確かな感動を持って川面を眺めていた。
と、そのときである。
「ただいま」
突然後ろから声をかけられた。真綿を千切って床にぽとんぽとんと落とすような、少しぼやけたような女性の声である。振り返ると、そこには身長百七十センチメートル程の長身の女性が立っていた。彼女はわたしが一度も目にしたことがないようなきらびやかな黄色いノースリーブのロングドレスを着ており、茶色い髪を頭のてっぺんでお団子にしている。秀でた眉から過剰に通った鼻筋までのラインがまるで芸術作品のようだ。......知らない人、である。しかも、ただいまとは何だ? こんな深夜にドレスを着た女性が一人で出歩いて、しかも見も知らぬ人間にただいまなどと不可解な声をかける理由など全くもって見当もつかず、わたしは正直言って恐怖していた。何の用だ、この人は? このような場合どのように行動するのが最善なのだろうか、無視して立ち去ると激昂して追いかけてきたりするのではないか、しかし......などとわたしがぐるぐると考えを巡らせていると、彼女が再び口を開いた。
「あれ、見える?」
あれ、とは、何だ? 彼女は何か川面の方向を指差していた。その細い指の延長線上を辿っていくと……いつか見た、巨大なQRコードが黒い水面の中に一際黒々と浮かび上がっていた。驚いたわたしは思わず、あ、と声を漏らす。ここは、この橋の下は、以前わたしが水面に浮かぶQRコードを見つけたのと同じ場所ではないか。そんなわたしの様子を見た彼女は唇の端を少しだけ笑顔の形にして、またぽとんと言葉を落とした。
「あれ、やったほうがいいよ」
やるって、何をですか?
わたしは尋ねた。
「あれ、やったほうがいいよ」
彼女はそう繰り返した後、わたしの肩の辺りをトン、と叩いた。
「じゃあ」
そう言って彼女は川上の方向へと歩いて行った。暗い夜の中で彼女の黄色いドレスはとても目立って見えるはずなのに、十歩程歩いたところでもう彼女の姿は闇に紛れて見えなくなってしまった。ロングドレスの裾から覗いた足は、確かに裸足であった。そのすらりとした手足に、光沢のある黄色いドレスに、わたしはそのとき強烈な既視感を覚えた。
その後しばらくわたしは呆然としていたのだが、正気を取り戻して彼女の指差していた辺りの川面を見てみると、巨大なQRコードはまだそこに存在していた。やったほうがいい、という彼女の言葉は何を指していたのだろう。わたしの思いつく限り、QRコードに"する"ことと言えばひとつである。わたしはポケットからスマートフォンを取り出して、そのQRコードを読み取った。と、その途端、スマートフォンの画面が突然真っ白になってしまった。ホームボタンや電源ボタンを押しても全く反応しない。まずい、得体の知れないものを読み取ったりするんじゃなかった……! などとかなり焦りながらボタンというボタンを連打していると、急に真っ白いままの画面にメッセージが表示された。
『ただいま』
わたしは恐怖で震え上がった。深夜、周りに人気は無く、制御の失われたスマホに表示される"ただいま"の文字……あまりの恐ろしさにパニックになりかけたのだが、なんとか気を取り直した。あの得体の知れないQRコードを読み取ったことにより、悪質なウイルスか何かに感染したんだろう、という結論に思い至ったからである。全くたちの悪い悪戯である。どうやって元に戻すんだろう、データが消えてしまったりしないだろうか……。などと画面を眺めながら思案していると、次のメッセージが表示された。
『さっきのやってくれてありがとう』
意味が分からない。もしかしたら外国製のウィルスで、日本語がおかしいのかもしれない。続いてメッセージが表示される。
『あとこの前は後ろから引っ張ってびっくりさせてごめん』
これも全く意味が分からない。わたしは首を傾げた。しかし、
『落とした鍵持ってるから返す』
このメッセージを読んだ瞬間にわたしの脳内で全てのパズルのピースがカチリと嵌り、全身に衝撃が走った。これは悪質なウィルスなどではないかもしれない。
去年の十二月頃、わたしは一度鍵を失くしている。慣れないランニングに挑戦して挫折し、ここと同じ橋の下でQRコードを見つけた日だ。そしてその日、わたしはまさにこの場所で、何者かに後ろから肩を引っ張られた。そして少し前の"さっきの、やってくれてありがとう"というメッセージ。先程わたしに声をかけた女性は、QRコードを指差して"それ、やったほうがいいよ"と言っていた。この不可解な一連の出来事は全て、あの女性が仕組んだことなのだろうか? しかし、どうやって、何のために? そもそもあの女性は誰なのだろうか? 先程覚えたあの既視感は……? などと混乱しているわたしを置き去りにして、またもや新しいメッセージが表示された。
『明日十四時に同じ場所に来てね』
そのメッセージをわたしが読み終わると、スマートフォンの画面は見慣れたホーム画像に戻り、わたしの操作にも全て反応するようになった。来てねと言われても得体の知れない人物のところに行くわけがないだろう。一度は忘れていた恐怖がじわじわと蘇ってきた。もしかしたらスマートフォンごと買い替えたほうがいいのかもしれない。時刻を見ると、深夜二時半である。突拍子もない出来事の連続に疲れ果てていたわたしは、当初の目的である買い物を諦め、そのまま自宅へと帰ることにした。これ以上S川の近くに留まる気には、とてもなれなかった。
帰宅し、床に就いたわたしは記憶の中であの女性の姿を追っていた。彼女とは以前どこかで会っているはずである。一体どこで......? 記憶のレコードプレイヤーは空が白んでいくにつれだんだんとぎこちなくなっていき、まどろみの中で、わたしは彼女の眉から鼻にかけての美しいラインを思い描いていた。そうだ、彼女は……彼女の姿は……いつか美術館で見た絵画に描かれていた女性と瓜二つではないか……。そうしてわたしは心地良く眠りの国へと誘われていったのである。
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