第七幕 幽霊の復讐
翌日。
今日も稽古は続くが、今日は後半の『後藤』が現れてから、渡井勝也の芝居を中心に行う。
実はおまえが後藤だろう?
いいや、おまえこそ後藤だろう?
あんたこそ後藤じゃないの?
しらばっくれるな、おまえが後藤だろう?
あたし以外みんな後藤よ!
と、疑心暗鬼の五人が大騒ぎしているところへ、
ピカッ、ゴロゴロゴローーーー、
と、雷鳴とどろく中、
ふっふっふっふっふっ、
わたしが『後藤』だ。
と、奈落から迫り出しに乗って渡井が舞台上に登場する。
ここから延々長セリフで集めた五人の意外な関係と後藤の計画が明かされるのだが……
渡井が気持ちよくセリフをしゃべっていると、またしてもパカパカと照明が瞬いた。
演出家は
「いいよ。気にせず続けよう」
と続行を促した。
渡井はバリトンで朗々と膨大なセリフを読み上げていくが、
周囲で緊張感を持って見守っているべき俳優たちが、どうも気もそぞろで客席の方を気にしてばかりいる。なんだまたかよ、と思いつつ一人集中して演技を続ける渡井だったが、またメイドの千草がしゃがみ込んでしまった。
「はい、ストーップ! おい、千草、どうした? 大丈夫か?」
仲間の先輩女優と村上幹恵が背中をさすってやり、大丈夫?と心配そうに様子を窺う。
渡井は、
「楽屋に下がって休んだ方がいいよ。誰か女の子付いていてあげなよ?」
と言い、過去の物語を演じて今は出番のない姫川が
「じゃあわたしが」
と千草の手を取り、大丈夫?と声を掛けながら舞台裏へ消えていった。
「はい、じゃあ気を取り直して、続きから」
との演出家の声で稽古は再開された。
集中し、長セリフをしゃべる渡井だが、やはり周囲の俳優たちは客席の後ろの方を気にしてばかりいる。
渡井もさすがにだんだん苛々してきた。
演出家も声を上げようとして、みんなが何をそんなに気にしているのか後ろを振り返り、いったん前を向いたが、何か考え込んでしまい、再びそうっと後ろを見ると、そのまま固まってしまった。
渡井も、何を見ているんだ?と演出家が見ていると思われる辺りを見た。照明のない後ろの客席が暗あくあるだけだ。
セリフをしゃべりながら、渡井はすっかり集中力をなくしていた。
「あ」と後ろで声がした。怒って怖い顔で振り返った渡井は、中堅の男優が青い顔をして後ずさり、ガクンと腰砕けになるのを見た。
中堅男優は恐ろしそうに目を剥き、口をパクパクさせて何か指さそうとするのだが恐ろしいのかなんなのか、ガタガタ震える手を中途半端に上げ下げするばかりだ。
「おいおい、なんなんだよ、いったい?」
さすがに声を荒げる渡井を見ようとせず、中堅俳優は恐ろしい顔で口をパクパクさせるばかり。
「もう嫌あああーーーーっ!」
と突然幹恵がヒステリックに声を上げ、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「やめよう……」
と、別の男優が小さな声で言い、顔を逸らしてうつむいた。
他のみんなも暗あい、青い顔を背け、うつむき、幹恵ともう一人の女を演じる劇団の中堅女優も「フンッ、フンッ、ハアアアーーー…」と鼻をすすり、目を真っ赤にして涙をにじませていた。
渡井は怒った。
「なんだよお!? おまえらいい加減にしろよ!? 真面目に芝居やれよ!?」
しかしその声に答える者はなく、舞台裏からぞろぞろ出てきた裏方スタッフたちも、一様に青い顔で客席後ろをじいっと見つめていた。
渡井はこいつらなんなんだ?といぶかしくねめ回し、
「演出!」
と演出家を振り向いた。
「おまえまで、やる気ないのか!? おいこら、こっち向けよ!?」
渡井がまっ赤な顔で睨んでいると、演出家は蒼白の、信じられない物を見た驚きを貼り付けた顔で振り向き、
「だ……、だって……………」
と、言葉を失ってしまった。
「だってじゃないよおー! いったい何を」
渡井が客席の奥を見ると、ふわっと、座席の陰で白い物がうごめいた。
渡井もぎょっとした。
「きゃあああああっっ」
女優が恐ろしい悲鳴を上げ、一瞬驚いた渡井も、
「うるさいっ!」
と叱りつけた。後ろに向かって大声を上げる。
「誰だあ、悪戯してんのは!? こらあっ、出てこい!!」
しかし何も動きはない。
演出家はまた後ろを見て、渡井を見ると、
「渡井さん。あんたにゃああれが……………」
と、渡井こそ幽霊であるかのような恐ろしそうな顔をした。
「……………………」
渡井はまだ彼らのつまらないお芝居を疑って恐い目で睨み続けた。
幹恵と女優たちはしゃがみ込んでしくしく陰気に泣き続け、男優の誰かが
「もう、駄目だな…」
とつぶやいた。
「ああ、やめろよ! やめちまえよ!」
渡井はまっ赤な顔で暗い顔をして渡井を見ようとしない俳優、スタッフたちを睨み渡した。
「やめろやめろやめろ、やる気のない奴は芝居なんてやめちまえよ、この……」
渡井はなんと言ってやろうか迷い、ええいと叫んだ。
「サイコ野郎ども!」
劇団員たちは敵意むき出しの暗い目で渡井を睨み、
「分かりました。俺はもうつき合い切れません」
と一人が言うと、
「俺も」
「俺も」
「わたしも、すみません」
と、ぞろぞろ、舞台裏へ引っ込んでいった。
「…………」
幹恵も青白い疲れ切った顔で頭を下げ、がっくりした背中を見せて皆に続いてカーテンの向こうへ消えていった。
渡井一人が舞台に取り残された。
前部客席に一人立った演出家は威厳もへったくれもなくうろうろ慌て、
「と、とにかくみんなと話してくるから、ね? ちょっと、時間をください」
と、思い出したようにもう一度後ろを見て震え上がり、逃げるように脇のドアから廊下へ出ていった。
渡井一人が完全に取り残された。
渡井は、
ちくしょう、どいつもこいつも馬鹿野郎だ、
とうそぶき、手持ちぶさたに舞台をうろうろし、
暗い奥の客席を見た。
芝居小屋に怪談は付き物で、渡井もその手の話はいくつも知っている。リアリストの渡井はそれをことごとく劇場のこの独特の雰囲気と、役に入り込みやすい俳優たちの一種の自己催眠の幻だと思っている。
この世に幽霊なんているわけない。
暗い座席の中から、ふうっと、白い服の女が立ち上がった。
渡井はさすがにぎょっとしたが、騙されるか!と凝視し、
それが白いワイシャツを着た劇団員の千草だと気付いた。
さっき仲間の姫川に付き添われて楽屋に向かったはずだがといぶかしく見つめる。
暗い中で、千草は妙にのっぺりとした表情で立っている。
渡井は声を掛けた。
「おい、千種君。具合は良くなったかのか?」
千草はぼうっとした顔でこちらを見ると、カッと、破顔して、
「あははははははははは、
あはははははははははははは」
と、狂ったようにけたたましい笑い声を上げた。
「お、おい、なんだ、どうした?」
「あははははははははあははははははははは」
けたたましい笑い声が四角い空間に響き渡る。
「な、なに? なによ?」
ケタケタ笑う千草に、渡井もなんとなく可笑しくなって顔を笑わせ、べっとり脂汗をかいてひきつった。
「あはははははははあはははははははは」
「おい……、おいっ! やめろよ! なんなんだよ!?」
怒鳴りつけても、
「あははははははは」
哄笑は止まらない。大声で笑い続ける顔は、大きく開いた口が頬を深くえぐり、筋肉が変に固まって、もはや笑い顔には見えない。
「ああはあはあはあはあはあはあー」
黒く陰がえぐれた、悪魔のように見える。
渡井は幽霊とかなんとか関係なく、気味悪く、恐ろしくなった。
顔をしかめて凝視し、いぶかしく問うた。
「おまえ、……本当に千種君か?……」
「あははは!」
「ひいっ」
渡井は気持ち悪さに身を引いた。
カタン。
物音がして渡井はぎょっと振り返った。
舞台中央の床が四角く切られ、ゆっくり下がっていき、その縁に引っかかった小道具のワインボトルが、くるんと回って、隙間に落ちて、下でガチャン!と割れた。
誰が迫り出しを下ろしたんだ?と、あははは笑う千草を気にしつつ下りていく床を上から覗き込んだ。
迫り出しは一.五メートルの高さしか下りず、俳優はそこへ階段を上って上がる。
誰か来るのか?と渡井は真っ暗な奈落を覗き込み、
「おい、誰が下ろした?」
と真っ暗な中に呼びかけた。
白い物がひらりと動いたかと思うと、
パッと舞台を照らしていた照明が切れた。
真っ暗になった中、更に真っ暗な奈落の底を覗き込み、渡井は自分でも自分の心臓がドキドキ鳴っているのがはっきり分かった。
ちくしょう、みんなグルになって俺を引っかけようとしやがって、そうは問屋が下ろすものか、と強がるのだが………。
ゴトゴトゴト、と、静かに迫り出しが上がってくるのが分かる。
なんだ? 誰だ?
ゴトゴトゴト…。
パッと照明が戻って、白い色が目に飛び込んできて渡井はぎょっとしたが、それは、ただくしゃくしゃに丸めて載せたシーツだった。
ハ、ハハハ、と渡井は笑った。
なんだよ、つまらない悪戯を……
再びぎょっとした。
迫り出しは完全に上がってはいなかった。舞台の床まで三十センチくらい残して止まり、床下の黒い空間が十センチほど真っ黒な帯で覗いている。
そこに、女の目が覗いていた。
知らない若い女だった。
女はカッと破顔すると、
「あははははははははははははははははは」
甲高く哄笑した。
「わあっ」
気味悪さに渡井は後ろにひっくり返りそうになった。
そして、
ハッと目をやった黒いカーテンの前に、
白い着物姿の女が立っているのを見た。
女の下半身は、すうっと、後ろの黒が透けていた。
渡井が信じられずに目を張り裂けそうに見開いていると、
女はゆらりと目線を上げて渡井を見ると、
にたり、
と笑った。
と、すうっと、姿をかき消してしまった。
渡井は、
「うわわわわわあああっっ、」
と悲鳴を上げた。
「どうしました!?」
座長を先頭に俳優たち、スタッフたちがぞろぞろとカーテンの後ろから出てきた。
あわあわあわと腰を抜かしそうになっている渡井は彼らが出てきたカーテンを指さし、
「みみみ、見た、女、あああ、脚が、透けていた……」
「見ましたか!」
座長はパッと嬉しい顔をした。
「大丈夫です、渡井さん。我々もみんな見てるんです! ね?我々が嘘をついているんじゃないって分かったでしょう?」
「う、うん、そ、そうだったんだなあ………」
若い劇団員たちにニコニコ囲まれて、渡井はみっともなく泡を食っている自分に気付き、ばつが悪く自分を落ち着かせた。
「渡井さん。やっぱりお祓いをやり直してもらいましょう? ね?」
「あ、ああ。しょうがないね。これじゃみんなも芝居に集中できないからね。やってもらおうか」
「はい! そうしましょう!」
みんなからワアッと歓声が上がった。よかったねよかったねと女の子たちは嬉しそうに肩を抱き合った。村上幹恵も桃山とニコニコ笑い合った。
彼らの喜び様を見て、疑り深い渡井はまたやっぱり自分はこいつらにはめられたんじゃないか?と疑い、迫り出しを見ると、ぴったり上まで上がり、載っていた白いシーツはなくなっていた。客席に目を向けても狂ったように笑い声を上げていた千草の姿もない。
疑いながらも、自分の目が見てしまった幽霊の姿を否定することは出来ない。
いいや、あんな物は錯乱した自分の頭が勝手に見た幻だ!、と頑固に否定することもできたが……
それこそ紅倉美姫の話を聞いていると幽霊とはそうした、目ではなく、頭で見る物らしい。
ま、いずれにせよ、本気で泣かんばかりに喜んでいる若い劇団員たちを見て、
(分かった分かった。今回は俺の負けだよ)
と、苦々しくも、一種の爽やかさを感じて渋く笑う渡井だった。
「どうだった?」
楽屋に戻ってきた白いワイシャツ姿の千草と、上下黒のジャージに黒いキャップを被った姫川、白いワンピースを着た別の劇団から客演の女優に紅倉は訊いた。
三人はニヤニヤ笑って、「ブイ」とサインした。
説明するまでもなく客席で笑い女を怪演した千草と、迫り出しを暗がりの中で操作した姫川と、切り出しの隙間から覗き女を演じた客演女優である。
「渡井さんもお祓いのやり直しに快く同意してくれました」
「ふっ、勝ったわね」
紅倉もざまあみろと右手でガッツポーズを取った。
「あ、そうそう、カーテンの裏に貼り付けた人型、あれ燃やしちゃってね? 別の変なのが取り憑くと面倒だから」
と注意して、
「これ、役に立った?」
と、テーブルの上の三津木に借りたDVDを指して訊いた。
「ええ、すっごく怖くて、演技の参考にさせてもらいました」
と、千草たちは震え上がった。
「怖すぎてこっちがまいっちゃいます」
と苦笑いして。
DVDの映画のタイトルは、
『女幽霊』
である。
紅倉も笑って、
「本物の女幽霊さんもこれくらい怖くなくちゃ、駄目よねえ〜〜」
と、ジロリと舞台のある方を睨んで、
「なにしろあのおじさん、筋金入りの幽霊見ない人だから」
芙蓉が訊いた。
「あの幽霊は渡井さんを祟っていたんですよね?」
「うん」
「それなのに、まったく、見てもらえなかったから、意固地になって見ろ〜見ろ〜と頑張って、周りの劇団の人たちの迷惑になっていた、ということですか?」
「そういうことね。幽霊の祟りさえ物ともせずに跳ね返しちゃうんだから、ほんと、大したものね。ある意味生きている人間は見習った方がいいのかもね」
と言いつつ紅倉はものすごーく陰湿な笑いを浮かべた。芙蓉は腕を組んで言った。
「冗談じゃありません。あんな厚かましいセクハラ親父」
紅倉は笑って、さてと立ち上がった。
「親父に見つからない内に退散しますか」
千草たちに見送られて無事劇場を出た紅倉は外の光に眩しそうに手でひさしを作り、芙蓉に手を取られてゆっくり階段を降りた。
「それで先生、あの女幽霊は満足して成仏したんですか?」
「成仏……ねえ?」
紅倉は首を傾げて苦笑いした。
「あれはそういうものじゃあないからねえ……。ま、黙っていたんだから渡井さんも偉い、かしら?」
紅倉の謎めいた言い方に芙蓉も首を傾げた。
「じゃ、そっちの方を解決しに行きましょうか?」
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