第五幕 華やかな楽屋

 というわけで、佐々井を乗せた三津木のセダンに先導されて紅倉を乗せた芙蓉の運転する最高級ハイブリッドカーは若者のアートのメッカとして有名な町にあるその劇場を訪れた。

 エントランスを上がった芙蓉は、

「ぼろっちい」

 と思わずつぶやいた。聞きとがめて佐々井が言った。

「数々の有名劇団がここを出発点に巣立っていった由緒ある劇場なんですよ?」

 芙蓉は相変わらず変な方向に行きたがる紅倉の手を捕まえてふうんと眺め回した。天井や壁や赤い防音ドアに年季の入った黒いほこりが染み込んでいる。なんだかお化けなんかふつうに住人になっていそうだ。

「今稽古中のはずですから、さ、どうぞ」

 と、佐々井が重い防音ドアを引いて開け、皆を中へ招いた。

 客席はワンフロアで五百ほど。この界わいでは大きい方だ。

 暗い空間の、前方の舞台にだけ照明が当たっているが、はてどうやら今は舞台はガラガラで、稽古は行われていないようだ。佐々井は

「あれ、どうしたんだろう」

 とつぶやき、

「ちょっと失礼」

 と前の方へ急ぎ下りていった。

 佐々井は舞台の上でテーブルや椅子や小道具をチェックしている若い裏方たちに声を掛けた。

「おーい。稽古はどうなってるんだ?」

「それが」

 若者たちは顔を見合わせ、怯えたような目で舞台の袖を見て、言った。

「とうとう出たんですよ、女のお化けが」

 紅倉の手を取って階段を下りてきた芙蓉が盛り上がって言った。

「ほら、先生! 出ましたって!」

「三津木さんみたいに喜ぶんじゃないの」

 と言いながら紅倉はそのお化けが出たという辺りを見た。側面手前の黒いカーテンが天井から床まで下りた、俳優たちが舞台裏から登場してくる所だ。

「ふうん」

 と紅倉は顎に指を当てた。

「思ってたより本格的みたいねえ?」

 芙蓉はズイと前に出て訊いた。

「幹恵ちゃんは?」

 え?と芙蓉を見て驚いた若者は、

「たぶんリハーサル室か楽屋にいるはずだけど……」

「案内して」

「はあ、いい…んですよね?」

 佐々井に確認して、

「こっち狭いんで、いったん横の通路に出てもらって、奥のドアが開きますんで、スタッフオンリーに入ってください」

 と、結局自分も飛び降りて、

「どうぞ」

 と横のドアに案内した。本番の時は廊下の明かりが入ってくるのを防ぐためカーテンが引かれているが、今は開かれている。重いドアを向こうへ開け、先へ出て押さえて、

「どうぞ」

 と芙蓉と紅倉を通した。三津木は佐々井と残って「怪奇現象」の目撃談の取材をしている。


 若者に先導されて思いっきり消防法に引っかかりそうな道具のごちゃごちゃ置かれた通路を歩いた芙蓉と紅倉は、若者に待たされ、ドアを開けて中を覗いた若者は

「楽屋の方ですね。どうぞ」

 と、更に奥へ案内された。

 ジュースの自動販売機の置かれたたばこ臭いロビーに出て、若者は手前のドアをノックして、

「失礼しまーす。よろしいですか?」

 と声を掛け、「どうぞ」と言うので、

「どうぞ」

 とドアを開けて二人を中に招いた。ちょっとした玄関になっていて入り口にカーテンが引かれている。

「村上幹恵さんにお客様です」

「あ、はーーい」

 華やかな声がして、カーテンを開けて当の村上幹恵が顔を出した。

「えっ、あらっ、まあっ」

 幹恵は真っ白でパッと目に付く紅倉を見て目を丸くして笑顔で驚き、奥へ

「みなさーん、紅倉美姫先生が来てくださいましたよー」

 と声を掛け、中から「ええっ!?」とこれまた女性たちの華やかな声が聞こえた。幹恵は向き直り、

「紅倉先生。ようこそおいでくださいました。えーと、…芙蓉美貴さん?ですよね? よろしくお願いしまーす。さ、どうぞお上がりください」

 と招き、ここは和室で靴を脱いで上がるのだった。

「お邪魔します」

 と上がった紅倉は、部屋に入るなり、

「七人」

 と言った。後から覗いた芙蓉は、

「四人ですよ?」

 と幹恵を含めて四人の若手女優たちを見て言ったが、

「フフッ」

 と笑う紅倉に、改めて部屋を見渡し、

「ああ…、そうなんですね」

 と頷いた。

「えっ? えっ? なんですか?」

 とキョロキョロする幹恵たちに、

「ああ、いいのいいの。別に害はないから」

 と紅倉は笑ったが、幹恵たちはゾオ〜〜ッと寒そうに肩を縮めた。

「フム、やっぱり舞台に出たのはこの人たちのお仲間じゃあないわね」

 と言いつつ紅倉は座る場所を探したが、

「失礼しますね。はい、どうぞ」

 と芙蓉に肩を押さえられて座布団に腰掛け、脚をお行儀悪く前に出させられた。

「すみません。先生は正座が出来ないんです」

 と芙蓉もとなりにお母さん座りした。

「はじめまして。村上幹恵と申します」

「劇団員の姫川です」

「同じく千草です」

「同じく桃山です」

 と女優たちは挨拶した。幹恵は二十二歳。他の三人も同じ年頃で、若手女性陣がグループでここに割り当てられているらしい。

 紅倉は焦点の合わない目で四人を眺め、

「あなたが見ちゃった人ね?」

 と千草と名乗った劇団員に目を止めた。他の三人は『すごお〜い』と顔を見合わせ、千草は顔を真っ青にした。

「あの、わたし、取り憑かれちゃっているんでしょうか? なんか、わたしばっかり見てるんですよお? さっきなんかはっきり睨まれちゃってえ………」

 と、その時の恐怖を思い出したのか眉を歪めて涙ぐんだ。紅倉は軽く手を上げ、

「いえ、大丈夫。たまたまあなたが霊感が強いだけです。別に害は加えられないはずです」

 とあっさり言った。

「本当ですか?」

 と、千草はほっとした。芙蓉が言った。

「でも、幹恵さん、奈落に転落しそうになったって」

「え?」

 幹恵はぽかんと芙蓉を見て、恥ずかしそうに苦笑いし、

「ああ。あれはわたし、舞台が初めてで、注意されていたんですけど、つい夢中になっちゃって、危ない!って叱られてびっくりして慌てちゃっただけで。はい、もう慣れましたから大丈夫です!」

「じゃあ奈落って、下りてないはずが勝手に下りちゃってたってことじゃなくって?」

 奈落とは舞台下の空間のことで、今言っているのは迫り出しと言って俳優などが乗って下から舞台上に現れてくる上下の可動床機構のことである。落ちたの落ちないのと言うのは迫り出しが下に下りていたときの舞台上の切り穴に落ちたの落ちないのと言うことである。

「使うシーンがあるんです。本当は実在しないんじゃないかと疑われていた『後藤』が地下の秘密室から出て来るんです」

 と幹恵は印象的な目をクリッとさせて面白そうに言ったが。

 芙蓉の目が線になった。そんな下らない話を書いたのはどこの三流作家だ?と思ったが、気を取り直し。

「舞台上で背後に気味悪い気配がするんですよね?」

「えーと……」

 幹恵たちは考え、

「ああ…。ええ、するんですよ。困ったものです」

「実際に首筋を撫でられたとか?」

「そうなんです。セクハラですよね?」

「………………」

 紅倉が「困ったものですねえ」と、笑って、言った。

「そういう女性陣のおしゃべりをあのプロデューサーさんはお化け騒動とごっちゃに受け取っちゃったんですね」

「それじゃあ………」

 しかし紅倉はちょっと深刻そうな目で四人、とりわけ幹恵と千草に言った。

「でも、あなた方は出来るだけ奈落に降りないでください。もちろん穴に引き寄せられないように気をつけてね。あちらも相当恨みが強くなっているようだから、万が一、という心配もあります」

 四人は怖そうに頷いた。

 芙蓉が訊いた。

「それじゃあ、今はどうして稽古を中断してるんです?」

 お化けを見たと震え上がって、皆深刻な顔を寄せ合っているかと思ったら、全然、のんびりしたものだ。

 劇団員の姫川が疑問に答える。

「お祓いを、やり直す、必要ない、で揉めているんです」

「誰が?」

 紅倉が皮肉に笑って答えを言った。

「座長さんと、奈落から登場する『後藤』さんがでしょう?」

 と、そこへ、

 いきなりドアが開き、

「紅倉ちゃーん」

 とやたら響きの深いバリトンが言った。

 カーテンをのれんのように腕でまくり、

「よっ。こんちはー。呼ばれちまったかい? ご苦労様なことだねー。アッハッハッハッ」

 と厚かましい悪人顔が上機嫌で覗いた。紅倉は天敵の登場に引きつった笑いを浮かべて振り返った。

「こんにちは、渡井さん」

 そう、劇団ピリカラに客演し、謎の人物『後藤』を演ずるのは、まったく信じないことで有名な、あのベテラン俳優渡井勝也である。

 渡井は面白そうにニヤニヤしながら紅倉に訊いた。

「どうなの? いるの?お化け? 俺もねー、一度見たいと思ってるんだよー、うん。いたらさ、教えてよ? ワハハハハハハ」

「おほほほほほほ」

 と紅倉は引きつった笑い声を上げた。

 芙蓉にもなんとなくこの騒動の「犯人」が分かった。

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