第3話
「コロナ出ていけ」
朝起きて新聞を郵便受けに取り行くと、山本は自分の家の塀に、赤いペンキでそう書いてあるのを見つけた。
「なんだ、これは」
山本はすぐに家に戻り、妻の良子を呼んだ。
まだ寒さの残る中、良子がカーディガンを羽織りサンダルを履いて表に出てくると、良子も塀の落書きを見て絶句した。
山本はすでに75歳。長く勤めた役所を定年退職して、すでに久しい。妻も同い歳。
引退後は妻との共通の趣味である登山を、楽しんでいる。夫婦とも70代とは思えないくらい、足腰はしっかりしている。
しかし、新しい病が巷に流行りだしたと連日報道されてからは、極力家から出ないようにしていた。日々消費する食料などは買いに行かなければ仕方ないが、それ以外の外出は控え、外出する場合はきちんとマスクをして、仮に自分が感染していても人様には伝染させないよう、最新の注意を払っていた。
しかし、なぜウチの塀に「コロナ出ていけ」などという落書きがされるのだろうか。まったく心当たりはない。
良子も首をかしげるばかりだった。
とりあえず、悪質ないたずらにしても犯罪であることに違いはない。山本はすぐに110番して警察を呼んだ。
パトカーは10分もせずにやって来た。警察官はふたりともきっちりマスクをしていた。ひとりは黒縁の眼鏡をかけていて、マスクから漏れた呼気がレンズを薄く曇らせていた。
山本夫婦ももちろんマスクをしている。
「朝起きたら、こんな落書きがされていたんですよ。昨日の夕方にはなかったから、きっと夜中のうちにやられたと思うんです」
山本はそう説明して、赤いペンキのカタカナの「コ」の部分を触ってみると、また完全には乾燥していないらしく、ペンキの表面が少しシワになった。
「あ、証拠だからまだ触らないでください」と眼鏡の警察官に注意された。
何枚か写真を撮った後、警察官は、「夜中のうちで、何か物音はしませんでしたか」と聞いてきたが、山本も良子もまったく気づかなかった。
「コロナって、もちろん今流行りの新型ウイルスのことでしょうけど、心当たりはありませんか?」
「ないです」
「いちおう確認ですが、お二人とも感染してるということは、ありませんよね?」
「当然です」
ここ数年、夫婦とも発熱も咳もくしゃみもない。肺炎などあるはずもない。
県庁所在地で新型コロナの感染が確認された人は、30人ほどいると報道されているが、ここからは距離にして60キロほどは離れている。市内ではまだ感染は確認されていない。
「ご家族でも感染者はいらっしゃいませんよね?」
「はい」
長男夫婦は東京に住んでいる。毎日連絡を取り合って、近況報告を欠かしていない。次男は沖縄に住んでいて、いまだに独身だ。ほとんど帰郷しない次男とは疎遠になりがちだったが、感染症が流行り始めてからは、やはり長男と同じく頻繁に連絡を取り、細心の注意を払うように口やかましく言ってある。
なぜ山本宅が、こんないたずらをされなければならないのか。
「あ……、もしかしてと思って調べてみたら……、これ見てください」眼鏡をかけていないほうの警察官が、そう言って、操作していたスマートフォンを眼鏡の警察官に示した。
眼鏡はそれを凝視して、マスクをしていてもわかるくらいに顔をしかめた。
「どうやら、インターネット上で、こちらのお宅から感染者が出たというデマが流れているようですね」
スマートフォンのディスプレイを山本に見せる。
「山本孝二 住所○○市清水町5丁目12 コロナ発生 先月、夫婦で中国旅行に行き、帰ってきたばかり。発熱で市内の病院に入院し、コロナに感染していることが発覚したが、山本は元保健所職員のコネを使って、感染を隠蔽。近所の人はお気をつけください」
そんなことが書いてあった。
中国旅行など行ってもないし、入院などしていない。役所には勤務していたが、保健所など行ったこともない。まったく根拠のないデマだ。
「この書き込みが、原因みたいですね」
ふたりの警察官は簡単な調書を作ると、「あらためて、後日器物損壊での被害届を出してください。何かわかったら連絡ください」と言って帰っていった。
当然だが、警察が落書きを消してくれるなどということはない。
無責任なデマを流した奴に対して、腹立ちは抑えきれない。それを信じて落書きをした犯人も、ぜったいに捕まえて法の裁きを受けてほしい。
とりあえず、ペンキは自分では消せそうにないから、業者に頼むより仕方ない。タウンページでエクステリアの建設会社に電話をすると、3日後に見積もりのために来るということになった。
インターネットの書き込みは、消去するためには削除依頼というのを出さなければならないらしいが、どうやってやるのか山本にはわからないし、それは良子も同じだった。
所詮は単なるデマの風聞、放っておけばそのうち誰もが忘れるだろう、そう思っていた。
翌日の朝になると、塀の落書きはさらに増えていた。黒の油性マジックで、「注意!コロナウイルス増殖中」、「中国から病原菌を持ち帰った張本人」、「コロナをばらまいたテロリスト死ね」と書かれてある。
それを見て、山本はため息を吐いたが、どうせ塀は塗りなおさなければならないだろうから、落書きを重ねられたところで、金銭的なダメージが増えるわけではない。腹立たしいが、そのままにしておくより仕方ない。
その日の夕方、
「出入り禁止だって」
農協が経営する小規模なスーパーに食料を買い物に行った良子が、手ぶらで帰ってきて、そう言った。
「どういうことだ?」
「えっと……」
良子は次のようなことを述べた。もう近所で山本宅がコロナの発生源というデマは隅々まで広まっており、知らない者はいない。もちろんそんなデマを信じてる人は少ないが、山本宅の人間に出入りされると、店の売り上げに影響があるから、しばらく来ないでくれ、そう言われた、と。
さすがにこれには怒りを感じ、すぐにスーパーに電話を掛け店長を呼び出して抗議をした。
しかし店長は悪びれもせずに、山本に反論した。
「あなたが買い物をする店を選ぶ自由があるのと同じで、ウチにも客を選ぶ自由があるんですよ。お客様は神様じゃありません。ウワサが事実かデマかは知りませんが、信じている人がいる以上は、来てもらっちゃ困るんです。もし売り上げが減ったら、あなたが従業員のお給料を代わりに出してくれるんですか?」
そう言われて、何も言い返せなかった。
その日の夜、大きな石を投げ込まれて、リビングのガラスが割られた。怪我をしなかったのは、不幸中の幸いだった。
もう山本も妻も我慢の限界が近づいていた。
一週間後、建設会社が来て塀の落書きはきれいに消してもらった。作業は半日ほどで終わったが、5万円を請求された。
翌朝、「コロナ死ね」と再び落書きされていた。
「すみませんが、出ていってくれませんか?」
20歳以上年下の町内会長に電話でそう言われたのは、最初に落書きされた二週間後のことだった。
「どういうことだ?」
「えっと……、この町内では、二軒の家が中古住宅として売りに出されているんですが、山本さんが町内に住んでいらっしゃるということで、不動産の価値が下がってるんですよ。西岡さんが住んでいらっしゃったお家は、つい最近まで買いたいという方がいらっしゃったらしいんですけど、近くにコロナの発生源があるということで、話が流れてしまったんです」
それを電話口で聞いて、山本は激昂した。
「そんなことは知らん。なぜそれがウチのせいなんだ。デマを流した奴に言え!」
「わがまま言わないでくださいよ。あなたのせいで、みんな迷惑してるんですよ。いい歳して、自分勝手なこと言うなよ。早く出ていけよ」
「なんだ、その口の利き方は!」
「あなたが出ていけば、みんながハッピーになれるんですよ。あなた、こんなにたくさんの人を苦しめておいて、申し訳ないと思わないの? 出ていなかいなら、こっちもやり方があるよ」
「知るか、好きにしろ!」
電話を切って、山本は憔悴しきっている良子の顔を見た。
窓ガラスを割られてから、妻は夜になると怯えて眠れなくなり、あんなに健康で、ときには50代に見られるほど若々しかった妻がここ数日で実年齢以上に加齢したように見えた。
まだ肺炎に侵されたほうが、ここまで消耗することはないんじゃないだろうか。そんなことを考えると、自嘲するような笑いが口の端からもれた。
新型コロナに感染してない人間は、何かほかの病気に毒されて、頭がおかしくなっているらしい。
「どうやら、俺たちはこの町の病原菌らしいなあ」山本は独り言のように言った。
翌日、山本宅は全焼し、焼け跡からは二人の遺体が発見された。消防では放火と失火、両方の原因から調査を進めている。
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