第2話
僕はずっと、妻からDVを受けていた。
「男のくせにDVを受けてた?」と疑問に思う方もいるかもしれないが、事実だ。
DVが始まるきっかけとなったのは、妻が流産したことだった。
結婚して5年目、ようやく授かり、半年以上にわたって自分の子宮の中で育てた子供を失った後、妻はひどく沈んだ。
2か月ほどで妻は復職したが、それ以来妻は何かと僕を責めるようになった。
「男はこんな辛い思いしなくていいんだから、いいわよね」何度そう言ったかわからない。
男を責めているのか、僕を責めているのか、あるいは女であることの不遇を訴えているのか、おそらくそのすべてだろうが、僕は僕を責めることで妻の傷が癒えるならば、と我慢をしていた。
しかし、身体的性差に関してはいかんともしがたいが、妻が僕の稼ぎが少ないことを攻撃してくるのはずいぶん堪えた。
たしかに妻のほうが稼ぎはいいが、せいぜい月収にして数万円程度のもので、そんなに毎日言われなければならないほどのものとは僕には思えなかったが、それを理由に妻が家事のすべてを僕にやるよう命令して以降、僕はそれを受け入れた。
暴力が始まったのは、2年ほど前。
それまでは、いわゆる言葉と態度によるモラルハラスメントというものにとどまるもので、物理的な暴力はなかった。
料理の味が気に入らなければ、台所のシンク僕の作った料理をぶちまいて、ウーバーイーツで好きな物を注文する。仕事で帰宅が遅くなれば、どこで何をしていたかを事細かに説明することを要求され、反省文の提出を課される。僕のスマホは毎日妻の検閲を受け、通話履歴やブラウザの履歴を確認され、少しでも履歴削除の痕跡があれば、細かく追及された。
広告を誤ってクリックしてしまい、出会い系サイトに飛ばれたことがあったが、その履歴を消去するのを忘れて妻に見つかったとき、とうとう妻は僕の顔面をビンタした。
思わず僕も腹が立ち、妻の肩を軽く突くと、「女に暴力をふるう最低な男だ。訴えてやる」と言い、号泣し始めた。
訴えられることはなかったが、翌日から妻の僕に対するDVが始まった。
何か気に入らないことがあれば、妻は容赦なく僕の顔を叩いた。足で蹴ってきた。つばを吐きかけてくることもあった。暴力を開始するきっかけは何でも良かったらしい。とにかく、虫の居所が悪ければ、妻は僕を物理的に責めた。
僕がそれに黙って耐えていたのは、妻が非力なためにあまり痛くなかったというのもあるが、妻は仕事から帰宅するのがだいたい午後8時くらいで、接客業の僕が帰宅するのが午後10時くらいだったため、ウィークデイはあまり妻が僕を攻撃する時間はそれほど多くなく、暴力はふたりともが休日になる土曜日だけに限られていたから、というのもあった。
とにかく、土曜日だけを我慢してやり過ごせば、来週一週間はなんとかなる。毎週、そういう気持ちで過ごしていた。
しかし、妻はひたすら僕を攻撃していたのではない。暴力をふるった後は、「ごめんなさい」と謝り、「もうしないから、許してください」と土下座をして頭を下げるのだった。
僕は、いつか妻が昔の優しい妻に戻ってくれることを期待していた。
実際、妻の暴力は少しずつ減っており、妻の機嫌が良いときは、ふたりで買い物に出かけるというこもあった。
中国発の新型のウイルスが、猛威を振るっているというニュースが流れて、観光地は一気に閑散した。中国人をはじめ外国人客は霧のように消え、政府により緊急事態宣言が発令され自粛要請が出されると、日本人観光客も皆無となった。
僕の勤務先である観光客向け宿泊施設は、あっさりと倒産し、僕は失業者の身となった。
緊急事態宣言後は妻の勤務先は基本的にリモートワークとなり、妻は家でパソコンに向かい仕事をするようになった。
家で仕事をしてストレスを溜める妻と、無職となって1円も稼いでいない僕。妻の暴力がエスカレートしたのは言うまでもない。
それまで妻は目立つところに傷ができないようにしていたのか、僕の顔に傷が残るような暴力はしなかったが、僕が無職になったことで遠慮せず僕の全身部位を問わずに攻撃するようになった。
タバコの火を顔に押し付けられ、左の頬を火傷させられたが、その翌日には「バランスを取るため」というわけのわからない理由で、左の頬にもタバコを押し付けられた。
それまでは何とか土曜日をやり過ごせば生きていける気がしていたが、日々が絶望になった。
妻が在宅勤務になって二週間後、僕はもう耐えられずに公的なDV相談センターというところに電話で助けを求めたのだが、その施設は男性の支援を前提としていないため、ほかに相談してくれと言われ、電話を切られた。
「USBメモリ、買ってきて」
パソコンで作業をしている妻に、僕はそう命じられた。
すぐに財布を持って家を出て、最寄りの電器屋に行く。そして、16GBのUSBメモリを買った。
家に帰って、それを妻に渡すと、妻はなぜ32GBか64GBのものを買ってこないのかと、絶叫しながら僕を責めた。
「この無職の穀潰しが! 子供のおつかいひとつまともにできないか。1円も稼げないくせにメシだけは一人前に食いやがって。おい、ゴミ。チンピラ。聞いてるのか。お前のことだよ。お前みたいな糞みたいなチンポ野郎と結婚してやったんだから、ありがたいと思えよ。早く仕事見つけろよ、腐れニート。まあお前みたいな無能の知恵遅れを雇ってくれる会社なんか、あるわけないか。お前、なんで生きてるの? 死んだほうが私の役に立てると思わないの? なんのために生命保険入ってるか、わかってる? わかってないから、生きてられるんだよね。このウジムシが」
妻は僕を殴って来て、29回殴られたところまでは覚えている。
その後のことはあまり記憶にない。とりあえず、今僕の目の前には、妻の死体が転がってる。
なぜこんなことになったのだろう。自粛がなければ、妻ともう一度平和に暮らせるようになっていたかもしれないし、そうでないかもしれない。
とにかく、天国では妻と平和に暮らせるように願う。
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