新型コロナで殺される人たち

台上ありん

第1話

「運転手さん、マスクしてないの?」

 開いた後部座席のドアから、中村の顔を覗き込んだ50代の男性客がそう言った。

「すみません、最近どこ行っても売ってないもんですから」

 先月からドラッグストアやスーパーや量販店、どこに行っても売り切れだった。どうやら、パニックを起こした人、特にすでにリタイアした世代が、朝から並んで買い占めているらしい。

 中村の職業である個人タクシーの運転手は、公式には運輸交通に分類される業種だが、実質的には接客業だ。ほぼ密室であるタクシーの中であれば、このご時世マスクを装着することは必須と言えるかもしれない。

 しかし、どこにも売ってないのだ。

「じゃあ、いいや。もし万が一のことがあったらいけないから。別の車に乗るよ」

 男性客はそう言って、中村のタクシーから離れて行った。そして列を作って客待ちをしている別のタクシーに乗り込んだ。

 マスクをしてないことを理由に、客を失ったのは、これが初めてではない。タクシー会社に勤務している運転手には、会社がマスクを支給してくれているらしい。個人営業の中村にはそれがない。

 客が乗り込んで、赤いブレーキランプが消えて走り去っていく大手タクシー会社の車の後ろ姿を見送ると、大きなため息が出た。

 中村は30代半ばから15年ほどタクシー会社に勤務したのち、国土交通省の個人タクシー営業許可を取得して独立した。会社に不満があったわけではなかったが、割増料金を稼げる夜間をメインに営業したいという気持ちがあった。

 もともと夜型人間であったために、夜中から朝方まで起きて働くことに何の苦も感じなかった。

 個人営業だと、会社から無線で連絡を受けて客先に行くという販路は完全に失われる。たまに、昔から馴染み客が知り合いなどが携帯電話に連絡をくれて、迎えに行くということもあるにはあるが、ほとんど全て流しで客を取るしかない。

 夜間のタクシー需要が最も多くなるのは、終電が終わりしばらく経過した朝方3時から5時くらい。歓楽街で遊び終えた客や、仕事を終えたキャバ嬢や風俗嬢が帰宅するためにタクシーを使う。こういう客は距離も長いことが多いので、上客だった。

 しかし、先月から急に、客が減った。みんな、感染症を恐れて夜の街に出歩くということをしなくなった。政府により緊急事態宣言が発令した後は、休業する店のほうが圧倒的に多くなっていた。

 売り上げが1万円を割る日が何日も続いた。

 先月、新車に交換したばかりの仕事道具であるエコカーのタクシーは、まだ借金が150万円ほど残っている。貯金などあるはずもない。

 1円でも稼ぐために昼も車を出して、大型ショッピングセンターや駅前のタクシー乗り場に客待ちの列に並んでいるが、そもそも外出をする人が減っているのだから、帰宅する人が増えるという道理はなかった。


「申し訳ないんですが、ちょっと待っていただくわけにはいかないでしょうか」

 月末、借入金の支払いなど到底できない中村は、信用金庫に行き窮状を訴えた。

「ええ、わかっています。ほかの業種も、みなさん厳しいようで……。金融庁からの指導で、中小事業者の皆さんの借り入れの返済猶予には、柔軟性を持って応じるように言われていますので、返済のリスケジュールをいたしましょう」

 しかし、今月の家賃を払えば、中村にはもう手元には5000円ほどの現金しか残らない。1年後の未来の債務の返済など、考えられない。

 融資が受けられるという政府系金融機関に電話を掛けてみたが、収入が減ったことの証明書や資産の残高がないことを示す書類などが必要で、しかも融資の実行はまだ先になるということだった。

 とてもそれまで生き延びられそうにない。

 テレビのワイドショーは、感染症の専門家と称する人が、「自粛ではなく法的拘束力を持って強制的に外出を禁止すべきだ」と檄を飛ばしている。コメンテーターはそれに同意し、「外国はもっと厳しい措置を取っている。日本政府は国民を守るつもりはないのか!」と怒っている。

 これから、仕事は減ることはあっても、増えることはなさそうだ。

 なぜ、みんな自粛するのだろう。そんなに凶悪なウイルスなのだろうか。自粛によって、困る人がいるとは、想像できないのだろうか。


 交通量がすっかり少なくなった国道を走っていると、ロードサイドのホームセンターが見えた。休業する小売店が多いなか、生活必需品を取り扱ってるということで、営業を継続しているらしい。

 中村はホームセンターの駐車場に車を停めると店内に入り、残り少ない手持ちの現金で、時季外れの練炭と七輪と、マッチを買った。

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