case.25 Ark & Furious
「痛ッ!」
召喚装置が見えなくなったのを確認して肩を撫で下ろした私を、鋭い痛みが襲った。
こめかみの辺りに走った衝撃で車両の後方へと転がされる。私の下敷きになっていたフェーザは背中に走った痛みで今もなお起き上がれずにいた。しかし、その状態で適当に振り回された拳が偶然にも私の頭を捉えたのだ。
身動きすらままならず平台に蹲る。痛みはじわじわと熱をもって額の方にまで広がってきた。どくどくと血液が脈打つ音が聞こえる。たまらず吐きそうになるのを何とか堪えて痛みが去るのをひたすら待つ。何とか周囲を確認できるくらいにまで衝撃が引いてくると今度は、視界の端でちかちかと色が明滅した。
気が付けばフェーザはフラフラとではあるが、もう立ち上がれるくらいには回復していた。改めて見ると、彼はこれまで見てきた中でも最もボロボロの姿をしていた。纏っていた布はもはや服の体裁をなしておらず、あちこちで破れてしまっている。破れた布の端はきまって赤く染まっていた。もちろん、布の間から垣間見える肌からも生々しい傷跡が目立つ。特に酷いのは左腕だろうか。肩から肘先にかけて大きく裂傷が入っており、そこから今なおポタポタと血が滴っているのだ。
ようやく私が立ち上がれるようになると、フェーザは頭から身体を起こすようにしてこちらをじっと見つめた。その伏し目がちな視線はもはやこれまでのフェーザとは一線を画している。その目からは何の考えも窺うことができない。彼は睨み付けてすらいない。執念的な殺意をもって標的を視界に収めているに過ぎないのだ。
「この世界は…」
だが、そんな眼をしながらフェーザは尚も口を開いた。
「この世界は…僕の敵だ。き、君がこの世界の奴らと手を組むのなら、君も…僕の敵だ」
繰り返し何度もつっかえながら、フェーザは懸命に言葉を絞り出す。しかし、この期に及んでその言葉はあまりに空虚だ。捨て台詞と言ってもいい。彼も、私にそんな言葉が伝わるとは思っていないし、それによって同情を得られるとも思っていないだろう。それでも、わかってもらえないと知っていながら、自分の行為の理由を打ち明けずにはいられなかったのだ。
これだけ命を狙われたところで私はフェーザを敵だとは思わない。無論、味方だと思っているわけでもない。フェーザの言っていることはわかるような気はする。でも、この世界の奴らって誰だ? 手を組むってどういうことだ? 少し突き詰めてみると、私には途端に彼の考えていることがわからなくなってしまうのだった。
私はあえて彼を否定しようとはしなかった。彼が何を考えようとそれは彼の自由だ。その代わり、私は黙って彼を見た。続きがあるならその言葉を聞こうと思った。しかし、彼は私のその姿を見て何かを諦めたようにそれ以上口を開こうとはしなかった。
「ヤアッ!」
私はまっすぐ彼へと走り込んだ。フェーザに攻撃されたら私にそれを防ぐ術はない。だから先手を取るしかない。肉体的には彼の身体は痩せ細り、そんなに力があるようには見えない。近接して闘えば私にも勝機はあるかもしれない。
彼の頭をめがけて左足を振り上げる。しかしその蹴りは隙を突く訳でもなく当然のように片手でいとも簡単に防御される。逆に今度は私の側に隙ができた。フェーザが一瞬、にやりと笑ったような気がした。彼は足を垂直に振り上げ、私の腹部を強く蹴り上げた。
身体がほんのわずかな時間、宙に浮いた。慣性が働き、私は車両の真ん中から最後方まで一挙に飛ばされる。ぐあっという声と共に胃の中の空気が競い合うように外に出た。直後、今度は背中を電流が走ったかのような重い衝撃が襲った。落下防止用の後部の柵に衝突したのだ。足に力が入らず、その場に崩れるようにして腰を落とす。食道を何かがせり上がってくるような感覚を受けて、たまらず数度繰り返し咳き込む。
視界がぼやける中、フェーザがこちらに近付いてくるのがわかった。彼は右腕を私の方へと持ち上げた。しかし、身体には全く力が入らない。まずい、殺される。そう思ったところで私には身動き一つ取れない。
「ハル君!」
まとまらない思考を断ち切るように、列車の走る音に紛れて車両の前の方から私の名を呼ぶ声が聞こえた。それは米内の声だった。遅れて二回、乾いた銃声が続く。そして、その内の一発がフェーザの左の肩口を捉えた。
「アアアアアアッ!」
それは既に負っていた傷跡に重なったようだった。フェーザが思いもよらない後方からの奇襲に絶叫する。駄々をこねるように身体を振り回し、私に向けていた右腕をイラつきのままに後方へと振った。彼の手の平の少し先で閃光が瞬いた。負領の物質の拒絶反応の証だ。音が遅れて届いた。米内に向けて黒い塊を放ったのだ。
「ぐあっ」
直撃を受けた米内はそのまま吹き飛び、再度列車前方へと押し戻された。あわや走行中の列車から落ちるすんでのところで荷を固定するための紐を掴む。しかしそれは咄嗟の反応でしかない。気絶しているのか、彼はそのまま痛みに転げ回るでもなく、突っ伏したまま動かない。
それでも痛みを負わされたフェーザは米内へと注意を向けた。彼がもはや拳銃を取り落としているのを確認し、トドメを刺そうと近寄る。視界が大分はっきりしてきた私は何か武器になるものはないかと後部設備を見回した。しかしそこには列車の運行に関する機構が取り付けられているだけで、手に取って闘えるような物は何もなかった。
その時だった。急に電灯がなくなって辺りを暗闇が包んだ。焦る私を嘲笑うように冷たい風が頬を撫でた。円形の空洞を走っていたはずの線路が不意に電気のない広いところに出たのだ。たしか米内が言っていた。この線路は地下放水路を建設するために、一部を除いて取り壊されたのだと。息を吸い込むと鼻奥の血の匂いに混じって、確かに水の匂いを感じた。間違いない、今この列車は地下放水路の真上を横切っているのだ。
ほとんど反射的に、目前の機構に取り付けられたレバーを私は掴んでいた。脳内では幼い頃にトロッコ列車に乗った時のことが思い出されていた。もちろん、この機構のほとんどは理解できない。だがさっきこの設備を見回した時に、一つ一つの機構の側に文字が刻まれていたのはこの目で見ていた。そして、この手にあるレバーの側に、何て刻まれていたかも、だ。
「しっかり掴まって!」
振り返って私は米内に叫んだ。そしてそのまま右手に掴んでいたレバーを一気に左に倒した。このレバーの側には、「緊急ブレーキ」と書いてあったのだ。
キイイという嫌な金属音がして、車輪から火花が上がった。わずかに外に膨らんだ線路の上で、列車は脱線寸前になりながら一気に減速する。上部構造があったらその重みで脱線していたかもしれない。だが、今はない。上に乗っているのは、三人の人間だけだ。
内蔵が浮遊感を覚えた。私は必死に後部の柵を掴む。米内もおそらく、前方の縄を掴んでいるだろう。だが、中央部はそうはいかない。前方と後方を除いて、この車両に掴まれるところはほとんどないのだ。
フェーザの身体がフワリと浮いた。彼が空中ですがるように手足をもがく。しかし、触れるものは何もない。やがて彼の身体は膨らんだ線路の外側へと押し出される。そして、慣性が失われたのなら後はーーー落下するだけだ。
「うわあああ!」
フェーザが視界から消失した。数秒遅れてボチャンという水の音だけが立った。しかし、私にはそれ以上を確認することはできなかった。暗闇というのもあったし、それに何より疲れてしまった。
張り詰めていた空気が緩むと、柵から手がひとりでに離れた。そのまま倒れるようにして台車にへたり込む。機械的に息を整えながら頭がかろうじて理解していたのは、とりあえず当面の危機が去ったという事実だけだった。
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