case.19 The Calm Before The Operation
地表の光が一切届かない地下のわりに、空気は不快な暖かさとは無縁に冷たく澄み渡っていた。もっとも頭上には人工灯が煌々と照っていて、同じ地下でも以前降りた暗闇とは似ても似つかない明るい場所ではあったのだが。
昨晩切原が寄越した地図の写しをポケットから取り出して自分の居場所を確認する。地図上の赤い格子は、この街全体に張り巡らされた地下通路を示していた。大雨が降った際の放水路として使うために建設されたとのことだったが、実態はもっぱらこうした公にできない研究や輸送のために用いられているようだ。
作戦を聞いた晩から一夜明け、私は今その地下通路の交差の一つに居た。やや北に位置するこの交差は地上からも出入りができる場所で、他の交差と比較して大きく、そして広く作られているらしい。そう、まさに実験実施には持って来いの場所、というわけだ。
しかし、ここに切原の姿はなかった。実験を前に怖じ気付いた、というわけではもちろんない。彼はもっと南方の、しかも地上にて待機しているのだ。
『調子はどうだ』
噂をすれば、耳に付けたインカムから切原の声が聞こえた。その声に緊張の色はない。もうすぐ作戦が始まるということを考慮すればそれは呑気にすら感じる。しかし、それもある意味当然なのかもしれない。この作戦の初期段階で頑張らなくてはならないのは、彼ではないからだ。じゃあ誰が頑張るかと言えば、まあ、もうお分かりだろう。
「…視界がやけに黄色い。それに顔を覆う不快感がウザすぎて、手を塞いでいる物騒なものを今にも投げ出したい気分よ」
そう、私だ。私は今、来る作戦に向けて米内によって色々と馴染みのないアクセサリーを身体に取り付けられていた。その中でも特に不快なのは、視界をすっぽりと覆うゴーグルだ。暗視だか因子だか知らないが、これを付けられているせいで私には世界全体が黄色く見えている。物の形や動きは一切変わりなく見えていて、色だけ違っているというのがむしろ腹立たしい。いつもと少しだけ違って見えるということがこんなにも不快だとは実際に経験して初めて知ったことだ。無論、そんなことを知ってどうなるというわけでもないのだが。
『そいつはまだ捨ててくれるなよ、お前の身を守るためにもな』
「わかってる」
私の手を塞いでいるのは、いわゆるサブマシンガン、というやつらしかった。とはいえ、私にはそれが戦争映画で見るような人殺しの道具には思えなかった。たぶんそれが相当に軽いものだったからだろう。実物を持ったことがないので本当のところは比較できないが、両手に抱えて走り回れるくらいにはその機関銃は私の手には軽かった。
顔をゴーグルとインカムが隠し、手にはサブマシンガン。そんな装備を抱えていながらその下の服装は以前買った白ブラウスと黒いパンツルックだ。動きやすくて、かつ他の人と容易に識別できるようなもの、そんな言い渡された条件を満たす服装をこの世界に来て四日そこらの私がたくさん持っているわけもない。必然的にこれを着るしかなかったのだ。
さて、こんなちぐはぐな装備に身を固めてこれから私たちが、あるいは私がしようとしているのは、追いかけっこの続き、あるいは決着をつけることだった。もう一度追いかけっこを始めるためには、まずは鬼を、今回の場合ではフェーザを呼び出さなくてはならない。そのためにはいかにも実験をしそうな場所、というファクターが重要だ。だから私はここに居た。
まあ要するに、本格的に囮というわけだ。ちらりと左を見れば、そこには無機質な酸素カプセルのようなものが縦になって置かれている。それはダミーの実験装置だった。これ自体はハリボテだが、本物もこのような形をしているらしい。米内が言うには私もここからこの世界へやって来たのだという。
「少し寒いわ」
『地上はずいぶん風が強い。こりゃもしかしたら荒れるかもしれないな』
何気ないこの場の感想に、切原も似たような言葉を返した。相手の腹の中を必要以上に探らない、思ったことを順番に述べただけのような会話だ。それは私に悪くない感触をもたらしてくれた。どちらかと言えば、心地よいと言っても良いかもしれない。
『繰り返しになるが、体調は大丈夫か? これからひとっ走りする体力はあるか?』
「繰り返しになるけど、私陸上部だったのよ。長距離の選手でね。同級生の中では一番か二番くらいには速かったと思うわ」
『…そうだったな』
言ってからふと、はたしてこの世界にも部活動とか長距離とかいう概念はあるのだろうかという疑問が沸いた。切原は特に疑問なく私の発言を聞いてはいたが、どうしてか彼は私の元居た世界について一定以上の知識を持っているようだ。だから彼が知っているということと、この世界でもその知識が通用するということはイコールではない。今度改めて聞いてみようか。別段そんなものがあろうとなかろうとどちらでも構わないのだが、なんとなく面白い話が聞けそうな気がした。
『じゃ、始めるぞ』
短く、一人言のように呟かれた言葉はすぐにその場から流れ去った。さっきの質問が最終確認の代わりだったことに今さらになって気が付く。消えた言葉と入れ代わるようにして、側にあった装置のガラス部分が緑の光を発し始めた。本当は緑ではないかもしれないが、もうゴーグルを外して本来の色を確認している余裕はなかった。
目を閉じて、一、二と胸の内で時間を数え始める。それが私に与えられている指示でもあったし、そうすることで心にゆとりが持てるからだ。だが、七まで数えたところで私はそれを止めた。目を開いて装置越しに、北側の壁を見た。それは今は何の変哲もない壁だったが、あと数秒したらそうではなくなるはずだ。
たぶんちょうど十カウント目で、かさ、という粉が零れるような音がした。
「来るぞ」
周りに居た味方の誰かが呟いた直後だった。地面を通じて重く鈍い音が伝わってきたと同時に、ビルが倒壊したかのような破砕音を立ててその壁が砕かれた。舞い上がったガレキの粉が収まると、そこにはちょうど人が一人通れるくらいの穴がぽっかりと空いている。そしてそこから、さも初めからそこが入り口だったかのような自然な仕草で男が一人入ってきた。
男はもはや見慣れた茶色い煤けた布切れで色白い肌を辛うじて覆っていた。フェーザだ。きょろきょろと、おそらく私を探して辺りを見回す彼の姿を見て、銃を握る手に力を込めた。せめて一発打つまでは絶対にそれを落とさないために。
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