case.20 Hide and Sequence

 フェーザは一人ではなかった。彼の後ろから、黒い防弾ジャケットに身を包み、武装した集団が部屋へと入ってくる。たぶんブラックサンズの者たちだろう。携えた銃器をジャラジャラと鳴らしながら、彼らはフェーザの後ろに隊列を組む。しかし彼らはすぐに一様に動揺し始める。なぜなら一見したところでは、この実験場には人っ子一人居ないように見えるからだ。何も私たちが透明人間になったというわけじゃない。事前に敵の襲来を予見していた私たちはこの部屋の機材を壁にして身を隠していた。だから、彼らの方からは一時的に姿が確認できなくなっているというだけだ。


『行け』


 耳元で切原の指示が飛んだ。当然それは私に出された指示だ。私は一度深く膝を曲げた。そして、跳ね上がる勢いそのままに一方の出口に向かって駆け出した。


「見つけたァ!」


 間髪入れず、背後でフェーザが嬉々とした声を上げた。その声に突き動かされたように発砲音が幾重にも重なって続く。対して呻くような声が私の左側後方、すなわち穴を開けられた壁の方から聞こえてきた。その声の方向から発砲したのがブラックサンズではなく、味方によるものだということを確信する。彼らは私がここを無事に逃げられるように援護射撃を開始したのだ。

 なおも銃声が続く中、一度も振り返ることなく私は出口まで走った。出口と言っても扉があるわけではない。そこだけが切り取られたかのようにコンクリートに楕円の穴が開いているというだけだ。そこを出たあと、私はまだ走り続けなければならない。この先は長い。だが今はペースなどを考慮している場合ではなかった。全速力で走るのだ。きっとこの程度で彼らは倒れない。あの武装をしているということは銃弾の雨は覚悟の上だろう。

 推測を裏付けるように、ザザ、という耳障りな音が私の耳に届いた。忘れもしない、あの爆発する暗闇が生じた音だ。あの掃射の中でそれでも私を逃がすまいとフェーザが暗闇を放ったのだ。その音は私を追いかけるように少しずつ大きくなる。そして不意に、5メートル先の地面にこぶし大の黒い玉がポツリと現れた。脳内で映像が再生される。それは以前同じような地下を逃げたときに暗闇がスクーターを丸飲みした映像だ。私は知っている。あれくらいの影でさえ、かなりの威力を持っているということを。

 でも、私は止まらない。

 むしろ、地を踏む足に今まで以上に力を込める。ストロークを伸ばし、体勢を低く維持したまま強く地面を蹴って速度を上げる。近付いているからか、あるいは威力を上げて私を怯ませようとしてか、視界の内で塊はどんどん大きくなっていく。構うものか。もうリスク判断は済んでいる。今さら立ち止まって行動を修正することはない。行け、行ってしまえ。

 走り抜ける。私の右足が暗闇のわずか数センチ左を踏んだ。影はもはや私の膝上くらいにまで膨張している。一瞬、嫌な寒気が脚にまとわりついた。しかし私はそのすべてを無視して目前の出口を捉えた。コンクリートに指をかけて、走っている反動を利用して身体を回転させる。

 全身が外に出るのと同時にボンっと不機嫌な音を立てて、負領の物質が爆発する。右手にわずかに風の感触が当たった。しかし、それだけだ。身体のどこにもそれ以上の影響はない。とりあえず第一段階、偽実験場からの脱出には成功したのだ。

 胸を撫で下ろす間もなく、私はサブマシンガンを持ち直して再び走り出した。向かうべき方向は頭にちゃんと入っている。それに優秀なナビゲーターも私の居場所を逐一確認してくれているはずだ。


『よくやった。そのまま進んで二つ先の角を右だ』


 噂をすれば、インカムからその彼の声が聞こえた。応答の代わりに規則正しい息継ぎを返す。走る地下道は水こそ流れていないものの、通路と通路の間は下水道のように丸みを帯びて窪んでいた。豪雨時の放水路だけあって、足元や壁にはヘドロらしき汚れも目につく。速度をある程度維持するためにも足元を取られることだけは何としても回避しなくてはならない。この速度で転んだら大怪我は必至だ。

 一つ目の角に突き当たった。私は手前の地面を強く蹴った。窪みを越えて向こう側の通路まで跳躍するためだ。着地した時、思いがけず大きな足音が立った。


「居たぞ、験体だ!」


 左の方からそんな声が聞こえてきた。どうやら別動隊に見つかったらしい。遅れてカチャカチャと装備を揺らして走る複数人の足音が続く。無論、私もこのまま何事もなく逃げ切れるとは思っていない。


『大丈夫だ、やつらが君を視野に入れる頃には、次の交差にたどり着ける』


 念を押すように切原が言った。目を凝らせば、たしかに視界の奥の方の通路で闇が深くなっている。そこに交差が走っているためだ。


「E2地点で験体を追っている!至急応援を!」


 彼らが増員を呼びかける。しかし私は意識的に彼らのことを頭の外へと追いやった。代わりに考えるのはここをセッティングしたのが自分達で、だからここが安全だということだ。

 切原によればこの地下道の床や壁、天井といった全ての表面部はあらゆる情報を感知して接収するセンサーになっているらしい。ここを行く者はその温度や体格のような外面的な情報だけでなく、顔や身体物質が分泌する成分を通じて国家に登録されている名前や職業のような内面的な情報さえも抜き取られてしまう。まるで小腸のひだが栄養を接種するかのように。言ってしまえばここは餌を絡めとる蜘蛛の巣なのだ。私はその餌がより絡め取られやすいように中心部へと誘い込んでいるに過ぎない。

 私は角を右に曲がった。数秒してから二、三発の銃声がした。大丈夫、威嚇射撃だ。


『次の角を右に曲がったら、何人か敵の部隊が奥にいるはずだ。だからすぐに左に曲がってくれ』


 一瞬耳を疑いたくなるような指示だ。わざわざ敵のいる方へ向かわせるなんて。とはいえ、これだけ敵がこの辺りをマークしていれば仕方がない。おそらく切原には、彼らの追走をかわす道が見えているはずだ。さっきの敵の様子を見るに少なくとも実験場がフェイクだったということはバレていなかったようだし、それを信じて走るしかない。

 私は指示通り地下交差を再度右に曲がった。そしてたしかにその道の先の方には三人ほどの武装した男が背中を向けて立っていた。彼らはまだこちらに気が付いていないようだ。私は躊躇せずに走った。数メートル先に左へと伸びる路地が見えていたからだ。

 今度はジャンプするのではなく、中央の窪みを一度下に降りて横断する。手を付いて対岸の通路へ昇った瞬間、敵の一人がふとこちらを振り向いた。


「居たぞ、動くな!」


 急いで路地に身を隠そうとする。しかし、その必要はなかった。その男の頭を何者かが背後から強く払ったからだ。鈍い打撲音の後で、男は中央の窪みへと転落し動かなくなった。

 一瞬、味方が駆け付けたのかと思った。しかし、それはあり得ない。方向的にも不自然だし、なにより今のタイミングなら彼が銃を構える前に私は逃げ切れていたはずだ。すぐに私は、そいつがネットワークに引っかからない敵だと気が付いた。情報をいくら抜かれたところで照合する先を持たない敵、そして私のもっとも警戒している敵だと。


「その女を殺すのは僕の仕事だ」


 私はその姿を確認する前に走り出した。次に目が会ったら危険だと直感したからだ。実際、その通りの結果になった。さっきまで私が立っていた背後の通路が爆発した。当然突如現れた敵、フェーザによるものだ。


『大丈夫か?』


 音を聞き付けてか、切原から通信が入った。声は落ち着いていたが、彼のことだから実際のところはどうだかわからない。じゃあ私はどうだろうか。私は慌てふためいてはいないのだろうか。


「大丈夫、予定通りよ」


 そうだ。私はいたって冷静だった。焦る理由は全くない。なぜなら、作戦開始からこれまでの間に予想外の出来事なんて一つも起きていないのだから。

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