case.18 Loosen the Bodies

「ハルは、フェーザのもっともおそろしいところってどこだと思う?」


 切原は私の要求を、話す順番を考えるから少し待てという留保付きで受け入れた。そして食事の時間をたっぷり使ってその順序とやらを組み立て、食後のコーヒーを淹れたあとでようやくその一段目を置き始めた。


「あの黒い塊を生み出す力でしょう?」


「いや、あれは単なる結果に過ぎない。怖いのはその原因の方だよ。つまりは、フェーザの肉体そのものさ」


 そう言うと、彼はゆっくりとコーヒーに差したスプーンで円を描いた。表面にくっきりと溝が刻まれ、その後でわずかに波紋が広がる。


「彼の肉体はブラックサンズが作り上げたものだが、原料は違う。あの肉体の材料はフェーザ同様に負領、つまりはマイナスワンの世界から引っ張ってきたものだ。だから必然的に、マイナスの性質を帯びている。そうしたマイナス因子はこの世界とは本質的に相容れないものだから、物質として顕在化するとこの世界を満たす位相値ゼロの物質と衝突を起こしてエネルギーを放出する」


 彼の説明は相変わらずほとんど意味の分からない呪文のようだった。いや、これを前に思ったのは米内に対してだったか。二人とも時にこちらを置いてきぼりにして話をするから、私はしばしばこういう感覚に襲われるのだ。そんな私の様子を察してか、ちょうど熱湯にドライアイスを入れるみたいなもんだ、と彼が補足を入れた。私は水にドライアイスを入れたときのことを思い出す。たしか温度差で水が一気に凝固することで大量の煙が発生したように見えるんだっけ。さすがに熱湯に入れたことはないが、それの規模の大きいものが起きるという理解で相違はないだろう。


「もちろん、それじゃあフェーザはこの世界には存在できない。だから俺たちは、異世界の物質を召喚する際にそれを暗号化することで衝突を阻止するという方法を考えた。その暗号が物質の位相値を覆い隠してしまえば反応は防げるだろう?」


「…よくわからないけど、そんなことできるの?」


「できなかったら、君は今ここに居ないさ」


 なるほど、目から鱗というほどではないが、たしかに言われてみればそういうことだ。私とフェーザは共にこの世界にとっての異世界人なのだ。そう考えれば問題が似通るというのも不思議ではない。


「プラスワンから連れてくるのにはそれ以外にもいろいろ問題があるんだけどな。まあ、そこは足し続けるのと引き続けるのとの差だよ」


 彼はたまにこういう感覚的過ぎる言葉をよく使った。そのせいで余計に話は分かりづらくなるのだが、一方で、こうした言葉遣いを聞くたびにかえって私はこの人がやはり熟達した科学者なのだという事実を再認識した。それは彼がよくわかっていないからではなく、むしろ慣れているが故に身体的な言葉を使っているという感じを受けたからだ。

 もちろん私には、その足すのと引くののどっちが自分の事例に当てはまるのかすらわからなかった。しかし、彼が補足しないところを見るとそれはあまり重要じゃないことに思えたし、何より私がそのことに興味がなかった。だから、軌道を修正するつもりで私は新たに疑問を投げかける。


「それで? その暗号とフェーザがどう関係しているの?」


「まあそう急かすな。もう話はほとんど終わりだよ。フェーザもこの世界に存在するために暗号、鍵をかけられている。あまりに杜撰で何かの拍子に外れちまいそうな安い鍵だけどな。だが、同時にフェーザの体内にはその鍵を少しずつだが開ける装置が埋め込まれているのさ。鍵を開ける、つまり暗号を復号化したらどうなるか。彼の肉体の位相値は本来のマイナスを示し、この世界と衝突を起こす。それが、あの黒い塊の正体だよ」


 一通り話し終えて喉が乾いたのか、切原はくいっとマグカップを煽った。

 ゆっくりと、彼の話を少しずつ噛み砕き、飲み下す。骨のかかる作業だったが不可能なことではない。切原はそれができるように段階を作ってくれたのだから。私は最後の最後までそれを喉奥へと押しやってしまうと、一旦最初に戻ってこの話の顛末について考えた。

 切原は何も言わなかった。それはきっともう答えが出ているからだ。私は記憶の中を辿ってヒントを探した。以前にフェーザについて聞いていたことはないだろうか。そして最終的に、それについて考えられることを一つ思い付いた。


「つまり、フェーザは自分の肉体を削っている、ってこと?」


「そういうことだ」


 カラン、とスプーンが正解を告げるかのようにカップの縁を叩いた。

 フェーザには回数制限がある、その意味はこういうことだったのだ。彼は彼自身の身を文字通り削って闘っていた。だから、無闇矢鱈に力を使い続けるわけにはいかなかったのだ。


「今回の作戦はそこに付け入る。フェーザが自身の位相値を露にしてくれるのであれば、逆にその数値を逆手に取る」


 おもむろに切原が立ち上がった。どこへ行くのかと思えば、無造作にリビングに備え付けらた本棚から冊子を一つ引っ張り出す。それは広げると大きな一枚の紙になった。


「逆探知だ。俺たちも攻勢に出る」


 それは一見するとこの街、フラクタルシティの平凡な地図だった。地図が二人の間に広げられる。私はそれを見てすぐに、それが特殊な用途のために作成されたものだということに気が付いた。その地図には通常の市街地の上から、何かの所在を示すかのように赤く格子状の線が引かれていたのだった。

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