case.17 In a calm shelter

 鍋の蓋を開けて最初にこみ上げてきたのは、オリーブオイルと白ワインの鼻をつく香りだった。立ち込める湯気が収まると真っ白で張りのある鯛の身が姿を見せる。共に煮込まれたトマトとアンチョビが、鯛を囲むように鮮やかな彩りを添えていた。完成直後の雰囲気はまるで本格的なイタリアンのようだ。

 感心しないのは、その完成度がとてもじゃないがシェフの仕事とは似ても似つかない雑多な料理風景から生み出されたということだろうか。


「できたわ」


「こっちも片付けは済んだ、持ってきてくれ」


 手近な皿に二切れの魚をすくい、その上からフライパンの残り汁をかける。切原が片付けたテーブルへそれを運ぶと、そこには既にお米のよそわれた椀があった。

 切原の向かいへ座り、両手を合わせる。いただきます、その言葉と共に、この世界に来てからは初めての「誰かとの食事」が始まった。


「意外とうまいぞ」


 切原が自分で料理したアクア・パッツァを箸で指した。意外、とはさもありなんだ。なんせテキトーに魚を鍋へ放り込んだかと思ったら、具材をいっしょくたに煮込みながらその都度で調味料を入れていたのだから。さぞかし料理慣れしているのかと思えば、記憶の上では二、三年は料理をしていないとのことだった。これで自信満々だったら料理の腕以外にも疑わなくちゃならないところが出てくる。変なものは入れていないからマズくなるはずはないのだが、きっと大味な料理にはなっているだろう。


「まあ…美味しいわ」


 ひとかけを口に入れればやはり予想通りの味だった。用意していた感想がそのまま淡白に口をついて出た。

 料理を作るという私の予感が当たっていたと知ったのは、本部に帰った直後のことだった。フェーザとの接触を受けて忙しなく連絡を取り始めたと思ったら、私に買い物袋を押し付けて『キッチンの冷蔵庫にしまっておいてくれ』と言い始めたのだ。そのキッチンと言うのが私の寝室としてあてがわれた部屋の向かいにある場所だと気が付くのに、そんなに時間はかからなかった。

 私が先日あてがわれた寝室は、本部の端も端にあるスペースの一室だった。施錠されたそのスペースに入るとそこは廊下と吹き抜けになっていて、その階と階下の奥に扉が6つ並んでいる。私はその左上の部屋、201号室をもらったわけだが、階下の吹き抜けにはテーブルやテレビ、それからキッチンが用意されていて、要は共同住宅のような作りになっているのだ。おそらく研究のために泊まり込みをするスペースとして作られたのだろうが、それを見た瞬間に嫌な予感はしていた。そして、その予感は的中したというわけだ。

 そう、切原もここで共に生活するということだった。


「素直に思ったことは言った方が良いぜ、どうせしばらくはこうやって生活していくんだから」


 切原は私の寝室の真下、101号室の住人になる、というかそもそもずっと住人だったらしい。どうも彼が居を構えている関係で私もここにあてがわれたようなのだ。要は、むしろ私の方がそれとは知らず切原の居住スペースに入ってきた、ということらしい。

 彼の屈託のない笑顔を見て、思わずため息が漏れる。別段なにかを承諾してやって来たわけでもないが、なんだか騙された気分だ。嫌みの一つでも言いたくなる。


「明日の実験が成功したら、の話でしょう」


「おいおい、縁起でもないことを言わんでくれ」


 彼の笑顔が苦笑混じりに変わったのを見て、自分の口撃がヒットしたことを確認する。

 私が鯛を冷蔵庫へとぶち込んでいる間、切原たちは実験の実施を急遽明日へと変更していた。それだけフェーザとの接触という事態を重く見たということもあるだろうが、おそらくフーリエのことも考慮されているのだろう。

 私の話を聞いてどうも切原たちはフーリエを、そして可能ならばフェーザをも救おうとしているらしかった。考えてみれば私を元の世界に帰すと言っている彼らが、フェーザたちを元の世界に帰せない道理はない。つまり、わざわざ殺さなくてもフェーザの脅威を世界から消し去ることはできるということだ。もちろん私としても彼らを救う現実的な公算があるのならばその方針に異論はない。あの会議での決定事項とは直接には一致しない判断ではあるけれど、結果的にフェーザを無効化できるのであればいくらでも抗弁のしようはあるというものだろう。

 問題があるとすれば、私がその作戦についてまだ何も知らされていない、ということだ。それについて尋ねると、まずは飯を食おう、切原はそう言って料理を始めてしまった。都合の悪い話を横にどけた、というのが明白な態度だった。

 たぶん最後まで隠しておくつもりではない。私の身を守るためには私も作戦について知っておいた方が良いはずだ。だから単に作戦が確定するギリギリまでそれを知らせたくない、ということではあるのだろう。そしてそれは私を作戦立案に巻き込まず、緊張感を与えないための彼の思いやりなのかもしれない。

 とはいえ、私はそれに完全に同意しているわけではなかった。思いやり云々はともかくとして、変更の可能性の低い基本的な情報を知らせることはできるはずだし、そのためにショックを与えないような情報提供のやり方だってあるだろう。そもそも私は既に事件に巻き込まれているのだし、彼自身がなにやら奔走している姿は嫌でも目に付いている。その時点で緊張感もへったくれもない。要するに彼の配慮は詰めが甘いというか、大雑把なのだ。まるで今まさに食べているこの料理のように。

 また一口、今度はトマトを口に運びながら私は考える。もう待つ段階はとうに過ぎているような気がする。現に、フェーザの方から既に動かれているのだ。私も何か動く必要があるのかもしれなかった。

 切原は素直に思ったことを口に出せと言った。それが共同生活に必要なことだと言うならば、その話は何も料理に関してだけに収まらないはずだ。


「大味だわ」


 私は箸を置いた。食事を終えたからではない。ただ目の前に座る相手に、聞く準備ができていると見せるためにだ。


「明日の作戦について、話を聞かせて。私はどうやってあの男を殺さず、助ければ良いのかを」


 覚悟なんてもうとっくに決まっているのだ。だから後は要求するだけである。

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