case.13 A Few things I got to know

 周囲のざわつきが私に対して向けられていると思うのは、おそらく自意識過剰ではないだろう。話し声はとても小さく抑えられてはいたが、視線はそうはいかない。この場を通りかかった者の全員が、必ずどこかのタイミングで私の顔を垣間見てくるのだ。一人座って本を読んでいる私が、それらに気が付かないわけがなかった。

 やれやれ、やはりここは集中できそうにない。私はぱたりと本を閉じた。茶色いカバーを被せたこの本は、当然だがこの世界のものだ。この本部内に設けられたバカでかい図書館を案内されたときに借りたものだった。

 図書館と言えば、そこでは大変驚かされたことがひとつあった。その本に書かれた文字は読める、話も理解できるのだが、そこに並べられた多くの書物の内には一冊として見覚えのあるものがなかったのだ。もちろん著者も同様である。そこはそれなりに大きな部屋で検索システムさえも整っていたのだが、それを使ってなお私は自分の知っている作者や作品名に出会うことができなかった。

 存在するすべての本がことごとく違っているということに気が付く。それは私が、最もこの世界が異世界であると感じた瞬間だった。なぜそんなに不思議がるのか、そう思う人も居るかもしれない。しかし、考えてみてほしい。本の内容が理解できるということ、あるいは、人と話が通じるということには、やり取りをしている二者の間で何かしらはそのやり取りを支える価値観が共通していることが必要になる。さもなければお互いがお互いの発信の意味を取り違え続けて、その二者は永遠にすれ違っていくことになるだろうからだ。そして、そういう価値観は直接的にせよ間接的にせよ書物によって育まれ、醸成されている。だからもし、誰かの背後に私が知っている本が一冊も見つからないのであれば、私はその人とはそもそも会話すら成立しない、少なくともそんな風に想定することはできる。

 もちろん、現実にはそうなってはいない。私は切原や米内、あるいはアランとすら意味のある会話を交わすことができた。もしあれらが私の一方的な勘違いでないならば、この世界にもきっと私の世界と同じような思想や価値観自体は存在しているのだ。そうでなければ説明がつかないことが多すぎる。同じ本が無いというのは、実際にはその表現の仕方や担い手が違っているということなのだ。米内の言っていた値一つ分だけズレた世界、という言葉の意味はそういうところにもあるのかもしれない。

 私は、机の上におかれた紙コップに口を付けた。ほとんど飲み切っていたカフェオレはもうすっかり冷めてしまっている。もう一杯注文しなきゃダメかしら。

 周囲を見回す。ここは本部職員用の食堂兼カフェだ。こんなところで何をしているかと言えば、私はもう一時間近くずっと人を待っていた。そうでなければ、こんなところにはまず来ないと言って良い。私という存在は、ここの本部と呼ばれる場所の人々からして奇異なのだ。こんなに人の注目を浴びるというのは私の人生で初めてのことだった。それは出来ることなら今すぐにでもこの場を離れたいくらい、居心地の悪い感覚だった。


「悪い、会議が長引いたんだ」


 背後から声をかけてきた男は、私の正面に腰かけつつ素早く言い訳まで口にした。二の句を継がせない器用な振る舞いを披露したその男は、私を待たせていた張本人、切原だった。


「…二日振りね」


 文句を言いかけて止めた。そこに突っかかることは、私にとって何の利益にもならないような気がしたからだ。

 切原とは、あの評議会の直後から丁度二日ほど会っていなかった。私はその間に本部での生活についての説明を受けたり、検査をしたりなど、要はこの世界の適応に必要なことを淡々とこなしていた。図書館も本部の施設について説明を受ける過程で案内された場所だった。


「調子はどうだ? といっても、大体の状況については逐一印南から聞いてはいるが」


 印南、というのは本部に来てすぐに怪我の世話をしてくれたあの女性の医者のことだ。彼女は私の身体的・精神的サポートを担当してくれるそうで、切原には困ったことは何でも彼女に相談するように、と紹介されていた。実際ここ数日間はこの世界の知識や検査の準備についてなど、早速たくさん助けてもらっている。


「まあ、ぼちぼちよ。この世界に来て初めて平和に過ごせているって感じかしら」


「そりゃあよかった」


 切原は顔を歪めて笑ったが、別にこれは皮肉のつもりではなかった。私のための生活スペースはちゃんと整えられていたし、印南が何でも手際よくやってくれるのもあいまって、私は本当に不便なく過ごせていたのだ。おかげで自分の置かれている状況から一瞬離れて頭を整理することもできたし、逆に改めて今後のことについて考えたりすることもできた。 


「…身体を鍛えたいそうだな」


 まるでしんどい話を仕方なく切り出すかのように、切原は言った。たしかに私は今朝、印南に対してそういう相談をしていた。それも、漠然と身体を動かしたいとかではなく、今後考えられる危機に対して、実践的な武術や格闘術を習えないか、そういう具体的なところまで伝えていた。そしてそれは、まさしく私が今後のことについて考えた結果の一つだった。


「これからの生活を考えたら案外長くなりそうでしょう? 単純に身体を動かしたいというのもあるんだけど、どうせなら自分の身は自分で守れたらと思って」


 もちろんフェーザくらいの相手になればそんな肉体的な鍛練でどうにかなるレベルではないのもたしかだ。とはいえ、私が元居た世界に帰るために少しずつでもできることを考えれば、この要求はそんなにずれたものでも無い。それに毎日身体を動かして少しずつ何かを身に付けていくというのは、想像してみるに案外楽しそうだ。


「わかった、それに見合った人を用意しよう。だが限られた時間の内での話だ。それが実際に君の力になるかどうかはわからない。それでも構わないな?」


「もちろんよ、ありがとう」


 自分で提案しておきながら、実際に許可が出ると少し拍子抜けした感じだった。いわゆる験体の身なので、てっきり普通に断られると思っていたのだ。微力とはいえ私が力を付けることで彼らが得をすることはほとんどない。しかし、やらせてくれるというのであればありがたい話だ。あとで印南にも改めて相談させてもらおう。

 さて、と一息を吐いて切原が立ち上がった。


「場所を変えよう。ずいぶん見物人も多いみたいだし」


 彼は少し離れたところからこちらの様子を伺っていた職員たちを一瞥した。敵意に満ちた、とまでは言わないが向こうの態度を咎めるような険しい視線を受けて、彼らは気まずそうに目を逸らす。これでまたここには来づらくなりそうだ。折角だからいろんなものを食べてみたかったのだが。


「どこに行くの?」


 未練を残しながらそう問いかけた私に、切原は例のイタズラっぽい笑みでこう言った。


「外だ、街に出るぞ」

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