case.10 Consultation de facto Imperatives
三月二十八日。
伊藤ハルが+1世界からゼロ世界へと連れて来られる二週間近く前、軸座転倒対策本部は、伊藤ハル「召喚」の阻止を計画していたテロ組織の拠点を検挙した。拠点からは兵器や研究機材を始めとする物資と、計画にまつわる情報とが多数押収された。通商省高級官僚の疑獄、国際軍需企業『ブラックサンズ』の暗躍、ターミナル駅での無差別テロの画策など、どれか一つをとっても国を揺るがしかねない多くの機密事項が明らかになる中、もっとも対策本部の目を引いたのは、それらとは別のある進行中のプロジェクトだった。
そのプロジェクトの名を、負領者動員計画。
-1世界の住人を強制的に召喚し、軍事作戦に従事させようという計画である。彼らを驚かせたのは、その計画が既に最終段階手前まで進行していたということだった。なぜならそれは、国家のトップシークレットであった異世界間の人の移動という技術を、反体制組織がほぼ手中に収めつつあるということを意味していたからだ。
「プラス世界との往来と比べて、マイナス世界とのやり取りは比較的簡単だ。ただ観測できる負量粒子の情報に陽子を付加してやればいいからね。それも、安全を担保しない不完全な形で良いのであればなおさらだ」
切原の説明に、男の声が割って入った。いやに広い割りに緑の非常灯にのみ照らされたこの部屋の奥から、声の主が近付いてくるのがわかった。顔はまだ見えない。しかし、その太った男性のシルエットは、既に私の知っている形をとっていた。
「米内さん」
名を呼ぶ声に、彼はやあ、と片手を挙げて答えた。切原の言っていた通り、彼は彼で無事にあの研究施設を抜け出していたようだ。初めに会ったときと同じ白衣にはシワの一つも見られなかった。もしかしたら新しいものに着替えたのかもしれない。
「遅かったな」
「君たちがなかなか帰ってこないものだから、仮眠をとっていたのさ」
久しぶりのベッドは最高だったね、そう言い放つと、米内は壁に取り付けられていたレバーを無造作に引き上げる。一瞬写真を撮られたのかと思うようなカシャン、という音と共に、部屋の天井から七柱の紫のスポットライトが照らされた。その光が徐々に強まっていくにつれて、この部屋がなぜこんなに暗いのかが明らかになった。光の柱はホログラムなのだ。部屋の中央に注ぐ七本の光の柱、その柱の一本一本の中に、幻想的に大きな椅子が実際にそこにあるかのように映し出される。
ブー、と映画の開演を告げるかのようなブザーが鳴り響いた。それは光を透けて見える時計から発された音だったが、相変わらず独特な立体の形をしたそれを、私は未だに読むことができなかった。
『それでは、評議会を始めよう』
音を合図にして、中央の椅子がそう言った。人の言葉にしてはあまりに標準的すぎる声色だ。発声を知らせるように、赤いランプがその椅子の上部で灯る。よく見ると、椅子の背もたれには一人一人名前が振られていた。今話した中央の椅子には『Richard』と書かれている。
「彼らは『評議員』と言って、この国の実権を握る方々だ」
米内が私にそう耳打ちした。声色は平静を装っているようだったが、明らかに先程までとは雰囲気が変わっている。あまり喜ばしくない厳粛な式典に参列するかのように、どことない緊張感を漂わせているのだ。実権、という米内の言い方は表向きでない裏の世界を想像させる。なるほど、このホログラム上の椅子は素顔を隠すための仮の姿というわけだ。素顔を隠しているのだから、おそらくさっきの普通すぎる声色も加工されたものなのだろう。
「それでは、これまでの経過を報告いたします」
毅然とした様子で声を上げたのは切原だ。
「作戦は一切の問題なく第三次まで完了、第四次へと移行しました。伴って初期段階は終了し、待機フェイズへと移行したことになります。その証明として、こちらに伊藤ハルを同席させております」
そう言って彼が私を指すと、目前の椅子たちからは感嘆の声が上がった。どうやらありがたがられているようだったが、あまり良い気がしないのはどうしてだろう。椅子の奥に、こちらを値踏みするような視線を感じるからだろうか。
『順調なようだな、作戦本部長。これからも計画通り頼む』
「ありがとうございます」
右から二番目の椅子、『John』という男から発せられた音声はリチャードとは異なる声色だった。しかし、やはりこれもサンプリングされた音声のように、不自然に濁りのない響きを持っていた。
ジョンの言葉に、作戦本部長、そう呼ばれた切原は深く頭を下げた。彼の役職は私にとっては初耳だった。その職務の名称はずいぶんと高度な仕事を連想させるもので、彼の第一印象とは正直合致していない。しかし彼と早一日近く言葉を交わしてきた私からすると、かえって彼のまとっている雰囲気と不思議とぴったり符合するように感じられた。
もっとも、横から窺う『作戦本部長』の顔に喜びの色はない。あくまで事務的に応対をしているだけだ、という反骨的な感情が私にさえあからさまに見て取れた。
『それでは、他に議案をお持ちの方はいらっしゃるだろうか。もしいなければ、本日は報告だけで終わろうと思うのだが』
リチャードがそう言うのに合わせて、両隣の米内と切原は軽く肩の力を緩めた。外野の私からはよくわからないが、おそらくは安堵の表れだろう。
しかし、二人はすぐに再び身を強張らせた。最左の『Alan』と書かれた椅子から声が発せられたからだ。
『負領者』
その言葉に身を固めたのは、厳密に言うと二人ではなかった。姿が見えないはずの要人たちもまた、六脚の椅子越しに息を潜めているのが伝わってきたのだ。ただ一つの単語によって、部屋全体の温度が一挙に下げられたようにすら感じられた。アランは続けた。
『負領者が出た、という噂は本当か』
その声は低く、そしてずっしりと重く設定されていた。他の二人と比べても特に威厳のある響きに、お誂え向きだな、という印象を持たずにはいられない。場にそぐわずに笑ってしまうそうになるのをなんとか堪える。
アランの発言をきっかけに、他の椅子からざわめきが起こった。そのどれもが怪訝そうな調子で、あまりよくない感情をこちらへと向けているのがわかった。
『それは本当か、切原!』
しびれを切らすように『Henry』という男が叫ぶ。私は切原を見た。彼は今度ばかりは事務的な無表情ではなかった。むしろ、奥歯を噛み締めて、一つの椅子、ーー『Alan』のものだーーを睨み付けているようにすら見えた。
「負領者を名乗る男が出現したのは…事実です」
不本意そうに切原がそう呟くと、椅子たちから悲嘆に暮れたため息が漏れた。ジョンが、馬鹿な、という乾いた笑いを吐き出したのが聞こえた。何ということだ、そう呟いたのは『Leonard』と書かれた椅子の男だった。
「しかし、事態の進行に問題はない! もう伊藤ハルはここにいます。本部への待避は完了しているのです。あとは時を待つだけだ。今から計画を変更するリスクを考えてほしい!」
切原が悪い空気を払拭せんと息巻く。大仰に手を振って訴えられた言葉は、それらしい正論のパッチワークのようなものだ。事情を知らない私には全く無内容に聞こえたのだが、それでもお偉いさん方には意味のある言葉として響いたらしい。一瞬、負の感情の流れが止まった。同時に、切原が頬を緩めるのが見えた。
「それでは、作戦はこのままでーー」
『計画を変更する』
会議の舵取りの成功を確信した切原の言葉は、ところがアランによって遮られた。アランの言葉は完全に切原の虚を突いていた。その発言だけでなく、その内容もまた、彼に強い驚きを与えたようだった。
アランはそんな切原の存在そのものを黙殺するかのように、部屋全体へと浸透する声で次のように宣言した。
『作戦を第二種へ移行する。験体の大量召喚を準備せよ』
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