case.9 Eve of Disorder

「世界がズレる、っていうのはこの座標にある世界そのものが、文字通りおかしくなっちまうってことだ。それは世界の組成や法則の根本がわずかに少しずつだが変質するということでもある」


 切原はそう前置きをして、五年前にズレが観測されてから世界で起きるようになったいくつかの異常現象について語った。それは双子が一部地域で異様な割合で生まれるようになったという比較的些細な異変から、原因不明の体調不良や心身の不調が世界的に急増したという大規模な問題まで、多種多様なものを含んでいた。


「要するに、どうやら世界がズレ過ぎちまうと、多くの人間は適応できないらしいということだ。どれくらいの人がどの程度できないのかはわからない。だがこれまでの傾向から考えれば、数十億人規模で人命に影響が出るはずだと言われている。まあ、世界の終わりだな」


 言葉とは裏腹に、切原の口調に深刻さはなかった。それもわけないことだ。急にそんなことを言われて、現実的な問題と考えられる人間なんてほとんどいないに違いない。


「原因は何なの?」


「そこんところはよくわからん。自然現象なのかもしれんし、人災かもしれん。それに関しては色々な陰謀説すら飛び交っている」


「陰謀説?」


 私は気になった用語を捕まえて、オウム返しにそう尋ねる。


「そう、要はこの非常事態で得をするやつが居るのさ。世界がマイナス方向に移動すればするほど、そっちの世界との接触はしやすくなる。『向こうから引っ張ってくる』ことで金儲けをする連中にとっては、悪くない話ってわけだ」


 北極の氷がとければ航路は開けるだろ、と彼は私にもわかりやすい例え話を出した。彼の話は未解明だったり曖昧だったりでわかりにくいところが多かった。確実に理解できたのは、どうやら地球温暖化は異世界共通の問題らしい、ということだ。

 ぼんやりと理解できたことを繋ぎ合わせて考えると、私はローカルな事情や個人的な問題に巻き込まれているのではないらしかった。そうではなくて世界的な、あくまでこっちの世界においての世界的な大問題、その解決の手段として数え入れられているらしいのだ。


「言いにくいことかもしれないけど、他でもない私が連れて来られた理由は?」


「それは本当に言いにくいことだな。だが強いて言えば住んでいる場所や背格好、性格など、いわば君の構成要素に適性があった。選別は恣意的ではなく、あくまで科学的に行われた。そのことは間違いなく言える」


 彼の弁明に迷いはなかった。だからそれが真実だ、ということまでは言えないかもしれないが、今のところは疑う理由がなかった。私は仕方なく、その不十分な説明に満足するしかなかった。

 一方で、『私の要素が』選ばれたのであって、伊藤ハルという『私』が選ばれたのではないということは少し自分の肩の荷を軽くした。私に特別な責任や務めを果たす必要はない。それはちょっとした感情的な差異に過ぎなかったけれど、それでも自分でそう思い込む分には確実に無いよりはましだと言える情報だった。


「もう察しの付くことだろうけど、さっきまで君を追っていた奴らはその非常事態で得をする連中さ。奴らは自分たちの商売のために世界軸の修正を防ごうってわけだ。いずれはそのツケが自分たちに返ってくるってのにな」


 私には察しの付くどころか頭にすらなかったことを、切原はあくまで補足だという風に付け加えた。どうも私は彼らのことを知りたいんだと思っていたが、実はそうではなかったようだ。そういう事情や思惑を現に聞いたおかげでそのことがはっきりした。それらの情報は、少しも私の興味を誘わなかった。私の関心の内にかろうじてあったのは本当は、私に対して強い殺意を向けていたあの男のことくらいだったのだ。


「あのフェーザという男もそういう連中なのかしら?」


 私はそのことを、極めて直接的に彼に尋ねた。断っておくが、彼がどういう人間なのかとか、どんな大望を抱いているのかとか、そういったことには正直言って興味はなかった。ただ純粋に、私に向けられているという彼の殺意に関することだけが私の関心事だった。誰でもそうだと思うが、自分に深く関わってくることならば、他人のことだって他人事とは言っていられないだろう。

 しかし、退路を断ったかのように見えた私の質問にも切原ははっきりと答えなかった。否定するような呻くような声が少し聞こえた後で、私と彼の仕切りの間には沈黙がやって来た。私は何も言わなかった。仕切りのこちら側にいる医者は、一緒に返事を待つというわけではなく、さりとて努めて聞かないふりをするというわけでもなく向かいの椅子に腰掛けていた。その姿は、私と切原の気の済むようにしてくれているようでもあり、あるいは、その上で、その結果がどうなっても私たちをサポートしようとしているかのようでもあった。

 やがて切原が観念したようにこの部屋の均衡を破った。


「これから大事な会議がある。君にも出席してもらう。時間もあるから手短に話そう」


 その言葉に呼応して、医者が立ち上がった。彼女は部屋(病室、と言った方が良いかもしれない)の入り口まで行って、そこに置かれた棚からフォーマルな黒のジャケットを手に取った。おそらく、会議のために用意された服装だ。


「負領者、フェーザは、奴らの仲間とは言えないと思う」


 切原の語尾に自信はなかった。それはこれまでの滔々とした話し方とは対比的だった。彼は今、それだけ断定的には言いにくい事柄について触れているのだ。


「適切な言葉遣いではないかもしれないが、おそらく彼は組織に請われて存在し、益してすらいるが、与してはいない」


 一語一語区切るような言い振りに、私はその続きを何となく察した。

 これがさっき言っていた、『嫌な思いをするかもしれない話』か。まったく、医者の予想は全く大当たりと言って良い。自身の胸の内に照らしてそう言える。たしかにこれは気持ちの良い話ではない。私は続きを聞かないためにではなく、むしろちゃんと最後まで聞き切るために、医者から受け取ったジャケットを羽織りながら切原の言葉を待った。


「フェーザは…人間兵器だ。組織に『強制的に』連れて来られた異世界者だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る