case.8 Warmth like Business

 幸運なことに、脱臼は拍子抜けするくらいあっさりはまった。思いきりよくやるものだからドキドキはさせられたけれど、たぶんその力加減も含めて処置は適切だった。


「他に痛むところはない?」


 擦りむいた膝にガーゼを当てながら白衣の女性が言った。たぶん医者だと思うが、詳しくは紹介されなかったので正確なところはわからない。


「大丈夫だ」


 大丈夫、そう答えようとした私を仕切りの向こうから切原が遮った。こいつの話か、先走ったと思った私は口をつぐんだ。しかし間違っていたのはむしろ切原の方だったらしい。医者はカーテンに向かってムッとした顔を向けた。


「あんたじゃないわよ」


「おいおい平等に心配してくれよ。俺も怪我してるんだぜ」


 言葉に合わせてカーテンの上でひらひらと切原の手が揺れた。その手首の辺りには、白い包帯が巻かれているのが見えた。

 地下で見たたくさんの扉は、すべてがフェイクというわけではなかった。あの中には一つ緊急脱出用の抜け道とスクーターのある部屋が隠されていたらしい。当初切原は、敵を迎え撃ちながら私の居た部屋のスクーターで脱出するつもりだった。しかし、思ったより手こずったためにフェイクの扉から合流したのだという。

 それはつまり、彼がフェーザとしっかり交戦状態にあったということも意味する。


「自分から傷を自慢するの、ダサいわよ」


 医者は、あくまで冷たく切原を突き放す。それは既に怪我の処置が済んで、彼がもう安全な状態にあるということの裏返しだ。この『本部』とやらに逃げ込んだ直後、切原は腕もそうだが、胸部の擦過傷と右腹部の爆傷で暗闇にあってなお服を赤く染めるほどに出血していた。一応、応急処置はしていたそうだが、私より症状が重いのは端から見て明らかだったのだ。

 へいへい、と気のない相槌を返した切原は、手を引っ込めてベッドに寝転んだらしい。彼と医者の態度には、怪我に対する動揺は一切なかった。むしろ、これくらいの傷で済んで良かったという、安堵に近い様子すら見て取れた。

 彼らには、この程度の事態は想定済みだったということだ。それほどまでに覚悟を求められる状況とは、いったい何なのか。それは私には皆目見当もつかないことだった。そんな危険を冒してまで、彼らは何をやろうとしているのか。これが無関係の誰かなら私はさして興味を持たなかったかもしれない。しかし、ことは私を軸にして回っているらしいのだ。私を巡って彼らと奴らの間で何が行われているのか。私は不本意ながら、そのことに興味を抱かずにはいられなかった。そして私は運の良いことに、それに関わりのある言葉を一つだけ知っていた。


「フリョウシャ、って何?」


 漏らした単語に反応して、ギシ、と隣のベッドの軋む音が聞こえた。微かだが、私の脈を図っていた医者の握りが一瞬強まったのを感じた。私は顔を上げなかった。その目線はただ自分の手首と、そこに当てられた医者の指とに注がれていた。私は彼らと業務的なやり取りがしたかった。だから、意図して、努めて淡々と続けた。


「あの男が名乗っていたの。自分は負領者フェーザだ、って。彼は、自分と私が同類だとも言っていたわ。巻き込まれたもの同士だと」


「事情を知れば、必要以上に嫌な思いをするかもしれないわ」


 医者が言った。私にそれ以上を話させないような言い方だった。それでも、私は不快には思わなかった。その言い方と内容がこちらを気遣ったものだったからだ。むしろそのことで私は、この医者と切原が少なからず人のことを気遣える人間だと認めざるを得なくなった。

 顔を上げた。医者はまっすぐにこちらを見ていた。その表情は固く、私に再考を促すように訴えかけてくる。だからこそ、私は言った。


「承知の上よ」


 私は、自身が置かれている状況について知りたいだけなのだ。それを知った上で私がどう思うか、どんな感情を振り回すのか、それは私の範疇にあることで、だから私が責任を取ることだ。それを改めて理解した上で、それでも私は事情を知らない少女のままでは居たくない、そう言っているのだ。


「…わかった」


「切原?」


「大丈夫だ、俺が責任持って話す。そうじゃないと納得しないだろ?」


 数秒の重たい沈黙を破ったのは、切原の了承だった。こいつのわかったような口の聞き方は気持ちの良いものではなかった。しかし私が納得しないというのは事実だったし、そう言うことでこっちをからかっているのも察せられた。にもかかわらずわざわざ反発するのもバカらしい、私はそう思うことにした。


「心配ありがとう」


 切原に何かを言い返す代わり、というわけでもないが、私は医者に感謝の意を伝えた。彼女はそれをどう受け取るべきか考えあぐねているようだったが、それでもぎこちなく微笑みを返してくれた。案外、可愛い人なのかもしれない。


「まずは君の不安を先に二つだけ払拭しておくことにするよ」


 カシャン、と切原がカーテンレールを揺らした。今度は仕切りの上部から二本の指だけが覗いている。こいつはやはりふざけているのかもしれない。


「前に、この世界のズレを直すために君を使う、と言ったな。これは米内の比喩的な表現だ。『使う』と言ったって軸線の基準として成分を図る、って程度。その作業さえ終われば君は問題なく元居た世界に戻れるし、その術を俺たちは既に持っている」


「…それはどうも」


 それは私にとって最低限の保証ではあったが、改めて言質を得られたことは少なからず収穫と言って良いだろう。それくらいは人一人攫っているのだから当たり前だ、という文句はこの際しまっておく。


「とはいえ、ズレを直すのにも最善のタイミングってのがある。それまで数週間は君にここに居てもらいたい。数週間後、無事に軸座が正位置に戻ったら、君を元居た時空点へと転送しよう」


「思ったより長いのね」


 私の反応はほとんど反射的に出たものだった。数日ならともかく、数週間というスパンで家を出たことは、物心ついて以来初めてのことだった。つまりこの異世界旅行が、私の人生史上最長の旅ということになるのだろう。まあ、彼は元居た時空点と言っているのだから、たぶん向こうに戻ればその時間はなかったことになるのだろうが。いや、あるいは、そのこともちゃんと事前に確認しておくべきだろうか。いざ戻ってみたら数週間失踪扱いになっていた、とかだと色々と面倒なことも多いだろう。

 だが、実際にそれについて口に出す前に、私は切原の話がまだ途中であることに気が付いた。


「二つ?」


 そう、彼は私の不安を二つ払拭すると言っていたのだ。だが、私の不安ということについては無事に帰れるということで概ね解消されていた。後の心配事と言えば例の敵の存在くらいだが、それについて安心できるような話というのは、さっきの雰囲気を察するに期待できそうにない。

 考えを巡らせる私を尻目に、切原は話し始める。


「ああ、二つ目というのは、その負領者についてだ。彼は君を同類と言ったそうだが、それは正しくない。むしろ、対極と言っても良いかもしれない」


 私は、彼の話の頭だけを聞いて、一瞬拍子抜けした。なんだそんなことか、そんな感想が頭によぎった。

 しかし、そこから続く次の言葉を聞いて、私は、気遣いに関する先の彼の評価は改めるべきかもしれないと思った。なぜなら彼のその話は、私の不安を減らすどころか、むしろ思い煩いの種を増やす内容だったからだ。


「君がプラスワンなら、彼はマイナスワン。フェーザはもう一方の隣の世界、負量世界の住人なんだ」

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