case.6 Snow Noise Rains

 薄暗い地下の避難路には、はっはっ、と漏れる私の息だけが聞こえていた。

 少しずつ目が慣れてくると、この道の様子がなんとなく分かるようになってきた。ここはほとんどただ穴を開けただけの坑道で、四角く組まれた木材が部分的に天井を支える造りになっていた。灯りは数メートルおきに取り付けられた豆電球のみだ。当然、地面には石ころが混じっていて、とてもじゃないが走りやすい道とは言えない。

 それでも私は、決して歩を緩めることなく懸命に走った。最初は例の異音が上部から私を追いかけてきていたようだった。しかし今はもうあの音の気配はない。撒いたんだ、そう好意的に解釈する。それが本当は何を意味しているのか、それは知る由のないことだ。

 私は立ち止まり、膝に手をついた。もう走れなくなった訳じゃない。たしかに息は上がっている。部活で習慣的に走っていたのはもはや半年ほど前のことだ。それでも、まだあと数キロならたぶんいけるはずだ。

 止まったのは、目の前に薄い鈍色の扉が現れたからだ。切原はこの道の先については何も言っていなかった。他に道はないのだから、行く先を間違えたということはあり得ない。


 ここで待機していれば良いのだろうか。そう考えるのはきっと、無意識に未知の世界を怖れているからだ。何も言われていないのだから、少なくともここで待ち続けることに関しては、何の咎もないだろう。私の気持ちは、正直ここに留まることを望んでいた。一方、ここで待つことで私にできることは何もない、ということも理解できた。扉を開いて、何かできることが増えるかどうか、それはわからない。しかし、可能性は広がる。もし、敵が切原を追い越してくるようなことがあれば、一秒でも長くここに居続けるべきではない。先へ進めば、最低でも距離を稼ぐことはできるはずだ。

 迷った末に、私は扉に手をかけた。脳内で、走れ、という切原の言葉がリフレインする。おそるおそる扉を引きながら、責任は取れよ、そんな言葉が思わず心中でこぼれた。

 ノブを捻りながら、反射的に閉じていた瞳をゆっくりと開く。扉の先にあったのは、やや天井の高くなった丸いドーム状の部屋だった。部屋の壁を見渡せば、全部で三ヶ所、暗闇がぽっかりと開いている場所がある。三択の分かれ道だ。そして、何より目を引いたのは、端に停められていた二台の乗り物。


「スクーター…?」


 私はそれに近付き、右手でハンドルを撫でた。別段新しいものという感じもしないが、しかし、ホコリは被っていない。どうやら現役で使われているものらしい。唯一これに関して見慣れない点は、このスクーターにはタイヤがついていない、ということであった。その点を考えると、こいつもやはり私の世界には存在しないものらしい。

 メーターの辺りにたまたま手が触れた。すると突如画面が点灯する。やや遅れて、スクーター全体が音を立てて数度振動した。これは聞き慣れた音だ。エンジンがかかったのだ。


「私に運転しろってことかしら」


 乗り物の免許はと言えば、元居た世界ですら持っていなかった。当然、見も知らぬ機械の運転なんてできるはずもない。置き所を失った親指と人差し指が顎をかいた。さて、今度ばかりは本当にどうしたものだろうか。

 もちろんこれを無視して進むことはできるだろう。しかし、私は三又の分かれ道を見やる。歩いて進むにはいかんせん道が暗すぎるのだ。そこにあるのは、一粒の光すらない本当の暗闇だ。かといって、なんとなくスクーターに乗ってみるというのも危険すぎる賭けだ。どうもこっちの世界の技術は進展しているようだし、もしかしたら簡単に操縦できるかもしれない。しかしそれ以上に、何の猶予もなく事故る可能性の方がよっぽど高いに違いない。

迷った私は、特に何を企図するでもなくハンドルに左手を置いた。よく見もせずに置いた手のひらからは自分の世界と少しも変わらない、触り慣れたざらざらとしたゴムの質感が伝わってくる。ところが、数回その感触を撫でている内に、不意に小動物が近付いてきたような違和感が指先に走った。


「きゃっ!」


 私は嫌な予感がして、すぐさまスクーターから身を離した。直後、さっきまで指が置かれていた所から、ザザ、と極めて大きな異音が立った。この音は、さっき切原と聞いたのと全く同じものだ。そう思った私は、音のした方向に目を凝らした。そこにあったのは、『影』だった。

 何と形容すれば良いのか、ハンドルを、拳ほどのサイズの黒い塊が蠢きながら覆っていた。そいつはよく見ないとわからないくらいに微かだが、しかしそこで確かな違和感を放っていた。さっきまでは絶対にあんなものは居なかった。そいつは、急に異音と共に姿を現したのだ。そのことに気付いた途端、私はこの影と異音がある現象に酷似していることに不意に思い至った。それはテレビの砂嵐、あるいは、ラジオのチューニングだった。

 気が付けば、蠢く黒い影は、シートやマフラーなどスクーターの他の箇所にも出現していた。影は、光を吸収しているかのように漆黒だった。しかもその輪郭は不安定に揺らいでおり、ややもすれば、端の方では微細なモザイクが揺れているようですらあった。触れようと手を伸ばした私は、直前でやはり手を引っ込める。なぜだかこいつらには触ってはいけないような気がしたからだ。そして、それと入れ替わるようにして、ザザザザという耳障りな機械音は勢いを増した。

 時を同じくして、ガン、ガン、という扉を叩く音がした。何者かが部屋に入ろうと扉を叩いているのだ。敵だ。せめて身を隠さなくては、咄嗟にそう思った私は、急いで身を起こした。しかし、一際大きな音ともに鉄扉が破壊されたのは、私がようやく立ち上がったまさにその瞬間だった。

 扉を破壊したのは、今度は黒い影ではなかった。そういった不定の存在ではなく、紛れもない人の姿をしたものだった。そして残念なことに、それは切原でもなかった。そこに立っていたのは、不気味なほどに色白い、一人の青年だった。


「やあ、会いたかったよ」


 頭髪までもが真っ白に染まっているその青年は、煤けた布切れだけを身に纏った姿で、私に向かって笑顔を作った。そして、その表情は変わらないままで、一歩こちらへの距離を縮めながらこう続けた。


「ずっと君を殺したかったんだ」


 私は辟易して肩を落とした。どうも、絶体絶命のピンチというやつらしかった。せっかく思い切って行動した結果がこれか。もっとも、あそこに留まっていたらもう殺されていたのだろうけれど。成す術のない私はそんな愚痴を胸の内でぼやきながら、力なくその男にこう返した。


「…面白味のないセリフ」

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