case.5 Under the Ground, Something New
米内の見送りを受けて会議室を出てからは、特に何に出会うこともなくスムーズに進むことができた。研究所内は、本当に何かが起きているのか疑問に思うほど静かだった。
やがて、下方を除く三方を打ちっぱなしのコンクリートが覆う空間に出た。自分の感覚が確かなら、ここは地上1階からさらに一段下がったところ、すなわち地下に当たるはずだ。しばらく歩くと、ザッザッという土を踏む音が響いた。よく見れば足元は土のままのところもあるようだった。
「このまま地下通路を伝って本部まで移動する」
雰囲気だけが物々しい状況に気を使ってか、切原が今後についてそう伝えた。
「米内さんは大丈夫なの?」
「あいつならこれくらいの包囲は突破できる。敵も君以外なら深追いはしてこないさ」
なるほど、どうも追われているのは私で間違いないらしい。いったいなぜ、そして誰から追われているのかは依然として説明されていないのだが、その辺はいつになったら明らかになるのだろう。
気になることは山積みだった。しかし前を見れば、彼は今、周辺にずいぶんと注意を払っている。そのことを踏まえるならば、長話は期待するべきではなかった。
「安心してほしい、本部に到着すればひとまずは安全だ。と言って、信じられないかもしれないが…」
その限られた時間の中で、切原はこちらを安心させるために口を開く。私はそれは心遣いとして素直に受け取る。
「本部って?」
「軸座転倒対策本部、さっき話してた問題に対処するための国家機関だよ。そこには粒子流のシールドがあるから、やつらの探知も辿れないはずだ」
出てくる単語には、意味のわからないものも少なくない。とりあえず、そこに逃げ込みさえすれば今追いかけている敵とやらは、私を見付けられなくなるということらしい。
「…すまない」
数瞬、間の空いた後で、不意に前を行く切原がそう呟いた。思いがけない発言に、私は一瞬、彼が何と言ったのかを聞き取ることができなかった。
「え?」
「訳あって本部には、今、この場所からしか避難できなかった。その間、君を危険に晒すことになってしまったのは事実だ」
切原は淡々と話した。前から聞こえる彼の声は、その内容に応じて暗くなることもなく、これまでと同じ調子に保たれていた。しかしその話し方にはむしろ、彼の誠意が込められているようだった。事実をなあなあにすることなく、正確に伝えようとするそういう誠意だ。私は、ほんの少しだが、切原という男の性格が垣間見えたような気がした。
「その訳っていうのは、あなたにどうにかできるものだったの?」
私は尋ねた。さっき銃を渡してきた時、彼は私についてどうも思い違いをしていたようだった。私もまた、数時間前に会ったばかりの彼のことは何も知らない。だから、たぶん答えはわかっているのだが、あえてそう聞いてみる。
「それは…いや、無理だったと思う」
やはり、切原からは予想通りの答えが返ってきた。彼は一瞬否定しかけたが、事実というのは受け取り方によって、人が思っているほどには、変わったりはしないものだ。できないものはやはり冷静に考えても、できないのだ。それならば私の答えも決まっている。
「じゃあ、謝ることはないわ」
そこに切原の責任はない。ならば、それによって彼に責めはないということだ。それを必要以上に考慮したところで、それは別の誰かの圏域を侵害することになる。今回であれば、その決定に責任を負う誰かや、事実を知った私の圏域だ。
私の判断や思いを、他人にどうこう推測されたくはない。それは私の、数少ない信条のようなものだった。
「…ありがとう」
私の言葉を受けて、切原が言った。その反応から、私の考えはきっと少しも伝わっていないだろうということが察せられた。しかし、彼がどう受けとるかは彼の問題だ。私はそれに対して何かを言う気にはなれない性分である。空いた気持ちの隙間を埋めるように私は手の内でピストルを数度回した。
やがて、進んでいく内に左右の壁面にいくつか扉が現れ始めた。数回それらの存在を無視して歩き続けた後で、切原は初めからそれだけが目に入っていたかのように、他と特に変わりのない、左側の扉のノブを捻った。冷たい金属の扉の前で立ち止まった彼に遅れて、私はその内側を覗き込む。
そこに部屋はなかった。空間すら、ほとんどなかったと言って良い。扉を開けてすぐの床に穴が空いており、その穴に、下へと降りるためのはしごが取り付けられていた。天井はかろうじて入っていける程度の高さしかなく、それも穴の上部辺りでさらに低くなっている。私は直観的に、ここが緊急用の避難路であると悟った。これまで見てきた扉はフェイク、目眩ましなのだ。敵がそれらを調べている内に、この穴からさらに地下へと逃げるという寸法である。
しかし、そうまでしてやる必要のある研究とは何なのだろうか。どうしたってこういった設備の存在は、やはりその研究を狙う敵の存在を感じさせる。はたして、彼らの敵とは何者なのだろう。そして、そいつらと私との間に今、一体どんな関係があるというのだろう。
私はそのことについて尋ねたくて、米内曰くここの研究員であり、今まさに共に逃亡している男の方を見た。そしてそこでようやく、切原が自分で開いた扉を掴んだまま動かずにいることに気が付いた。
「どうしたの?」
「しっ」
切原は立てた人差し指を口元に当てた。彼は扉の先を見ておらず、耳を澄ましているらしかった。私も真似をして、周囲の状況に神経を尖らせる。
初めは特に何も聞こえなかった。しかし、少しすると、ザ、ザザ、という耳障りな機械音が私たちの歩いてきた方から鳴っていることに気が付いた。
「何、この音?」
その不気味な音はしかも、ほんのわずかだが、少しずつ大きく、そして多くなっているらしかった。最初は聞き耳を立ててようやくたまに感じられる程度だった音が、やがて確かに聞こえるくらいになり、今では、声をひそめてではあるが、発声していても常にザザザという音がする程度にまでなっているのだ。間違いなくそれは研究所の上から、こちらに向かって近付いてきていた。
私は切原の表情を窺って、ゾッとした。彼の顔がこれまでにないほど真剣で、しかも、その顔色に危機感が表れていたからだった。
「先に降りろ、後から追う」
「え?」
「早く!」
彼が叫んだ途端、ザという音の連鎖がさらに音量を増した気がした。
私は慌てて扉の中へと向かった。そして、穴に身体を滑り込ませたその瞬間、不気味な振動の音量は最高潮に達し、ーーー止まった。
ほんの一瞬だけ訪れた静寂を、一発の銃声が破った。そしてそこから続けざまに三度、同質の音が響いた。振り返るまでもなかった。私の背後で、切原が発砲したのだ。
「走れ!」
後ろを確認する間もなく地下に降り立った私に、切原がそう叫んだ。
地下は案の定暗い。しかし、目を凝らせばかろうじて道は見えた。一方は壁だから、進むべき方向を迷うことはない。
私は足元の土を蹴った。追ってくるモノが、何だったのかはわからない。しかしそいつは、私の世界の摂理を超えている。その事実が私の焦りを強く急き立てたのだった。
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