モノクローム・ピアノ

@NatsumeHiromoto

Monochrome Piano

 その日、目が覚めたときから奇妙な予感にとらわれていた。

 どこかに行かなければならない。遠くでなくてもいい。とにかくこの身体を動かし、皮膚を風にあて、両足で大地を踏みしめなければならないと。

 高校を卒業したばかりだった。わたしは、ようやく自分が『女子高生』でなくなったことに本当にせいせいしていた。


 染めたばかりの茶色い頭にキャップをかぶり、スウェットをデニム履き替えて顔も洗わずに外に出た。 目指すは家の裏にある小さな丘だ。こんなとき、家の近くに自然があってよかったと思う。 田舎で何もないけれど、わたしはここが好きだ。

 丘は雑記林で覆われていて、道はない。本当にちいさな丘なので、訪れる人間もめったにいない。 途中に少し開けた空き地があって、中心には腐りかけた切り株と小さな祠がある。 仏頂面の地蔵がいて、小さい頃からなにか願い事があるとわたしはよくその地蔵に手をあわせていた。 願いは叶わないことの方が多かったけれど。



 新しく買ったスニーカーは、その値段に見合うべきの機能とデザインを兼ね備えている。 けれど泥にまみれてあっという間にマーブル模様に染まってしまった。 昨日一晩中降った雨のせいで、地面はひどくぬかるんでいた。


「靴のあるべき姿だな」


 と、カラスならばそういって笑うだろう。

 カラスはわたしの親であり、兄弟であり、友人だった男だ。もちろん本名ではないけれど、わたしは彼をカラスと呼んでいた。初めて会ったとき、そう呼べと命じられたからだ。

 カラスと初めて会ったときのことは微かにしか覚えていない。両親の葬式で、喪服をきたカラスは何らかの理由で幼いわたしを引き取った。

 そのときの印象が強く、カラスという名称は確かにふさわしく思えたので、 わたしは大して抵抗もなく彼をそう呼び続けている。


「ピアノの優れた点は」

 鍵盤に触れている時、カラスはいつもより少し饒舌になる。

「キーを押せば、音が出るところだ。猫でも出せる。じゃあ違いはどこにあると思う?」

「猫とわたしとカラスに?」

「それと過去の天才たちとの間に」

「テクニック」

「馬鹿。思想だよ」


 バッハを弾くカラスの横顔はまるで人ではない何かのようで、まだ出会ったばかりの幼い頃わたしは密かにおびえていた。 カラスではなく、ピアノを弾くカラスを。彼が短調ばかりを好んでいたからかもしれない。

 バッハのピアノ協奏曲の第一番を、カラスもわたしも偏愛していた。ニ短調の苦悩的な憂鬱さ。 完成された美しい形式。底知れぬ闇はおそろしく、けれど今では心地よくもあった。 弾いているカラスが決して冷たい人間じゃないと、年月を重ね知ったからだ。


「ねえ、わたしもピアノを弾きたい」

 いつか、そう強請ったとき、カラスはつまらなそうに鼻をならした。 梅雨時期で雨が降っていた。

「やめとけば。時間の無駄だ」

「なによ。時間の無駄なら、なんでカラスはピアノを弾くの」

「馬鹿。お前に教えるのが、時間の無駄だっていってるんだよ」

「本当にひどいよね」

「いいじゃないか。お前が弾きたい曲は全部、俺が弾いて聴かせてやるから」


 いつもこんな感じで、どんなに頼んでもピアノに触れることすら禁じられていた。 もしかしたら自分のピアノに他人が触るのを嫌がったゆえの方便だったのかもしれないけれど。 わからなくはない。わたしだって宝物は人に触らせたくないと思う。

 カラスは過去を一切語らなかった。唯一知っているのは、昔ピアニストだったということだけだ。故障もしていないのに、なぜ華やかな舞台から下りたのか。おそらく、カラスは優秀な演奏家だったけれど、音楽家ではなかった。カラス曰く、この差は致命的だそうだ。

 彼の音楽の根底には暗闇と、どうしようもない空洞だけが横たわっていて、だからピアノを弾くカラスはどこか不毛な行為に没頭しているように見えた。

 不毛。

 最も嫌うそれに自分が人生の大半を費やしているのだと、カラスは気づいていただろうか。


「世界に色をつけろよ。大事な作業だ。まあ、食事とセックスの次くらいには」


 こよなく愛しているトバモリーを傾けながら、カラスはよくそう言った。

 少し甘いそのウイスキーに、秋になるとカラスは庭に咲く金木犀の花びらを失敬して浮かべる。甘みが増すのだといって好んでいた。そのために、秋のカラスはいつもくらくらする匂いをまとっていた。花とアルコールを退廃で薄めたような匂いだ。あんな匂いをまとう大人をわたしは他に知らない。


「自分は色なんて嫌っているくせに」

「まさか。ああ、けど髪は染めるなよ。染髪なんざ気違い沙汰だ」

「なんで。高校卒業したら髪染めようと思ってるんだけど」

「そんなことしたら家に入れてやらないからな」

「はいはい」

「まあ、お前にもわかるのかね。いつかは」

 そして稀に、ぽつんとこう呟くのだ。

「俺の世界には白と黒しかない」



 カラスにキスをしてみたことがある。

 初めてしたのは春先の、梅が咲いたばかりの季節だった。昼間から酔って、ソファで眠り込んでいたカラスにキスをした。眠り込んでいると思っていたカラスは起きていて、舌を入れようとしたら飛び起きた。

「お前は、お前の母親に似ている」

 あのときのカラスの表情。驚きと動揺――わずかに軽蔑。

「自分が持っているものに無頓着で……自覚もしていないんだろ」

 カラスがわたしの母親の話をしたのはそれが最初で最後だ。わたしはそれからも、こっそりカラスにキスをした。後ろめたさなんて微塵もなかった。





 高校の卒業式があった七日前、わたしは初めてカラスのピアノに触れた。 思う存分に白黒の鍵盤をなで、叩き、グランドピアノの緩やかにカーブした側面に背中をくっつけた。 髪も茶色く染めて、安いマニキュアで手足の爪を真っ赤に染めた。

 七日前の晩。鬱陶しく雨が降りしきる夜の埠頭で、カラスはカーステレオでバッハのピアノ協奏曲第一番を大音量で聞き、そして車ごと海へダイブした。

『うるさいと思って窓を開けたらねえ、車が駐車場に止まってて。曲が終わったと同時にエンジンふかしてドボンよ。本当に、腰が抜けたわ』

 灯台の管理人のおばさんがクラシックに詳しかったのは幸運だった。 カラスが最後に聞いていた曲名がわかったことは、何らかの慰めになるかもしれない。

 灰色に塗られた無機質な部屋で、喋らないカラスの身体は白かった。

 わたしは濡れて額に張りついた黒い髪をはがし、だらんと垂れた手を取った。

 指の先が普通の人よりも少しつぶれた、節ばったほっそりとした手。

 氷のようなその手に唇を押し当てて、じっと耳を澄ませた。

 カラスの言葉に。彼が愛した音楽と、モノクロの世界に。





 雑記林を抜け、空き地に出た。世の中から忘れ去られたような祠に、相変わらず仏頂面をした顔の地蔵がじっとわたしを見ている。 お供えに、途中で摘んだシロツメクサを置いて屈みこむ。手は合わせなかった。 もう、この地蔵に手を合わせることはないだろう。 きっとこの先わたしの願いはたった一つで、それはどうしたって叶わないんだから。


「世界に色をつけろよ。お前ならできるから」


 記憶の中でカラスは語り、わたしは汚れたスニーカーを見つめながら何度もちいさく頷いた。もう随分前からあの男は心を決めていたのだと思い返しながら。

 わたしはきっと、世界を彩ることができるだろう。美しく。

 その時カラスは音楽に還り、わたしはようやく純粋な涙を流す。







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